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ドアは静かに閉められた 【 後編 】


 ── 午後六時。

 今の気分は最終審判が下されるのを待つ、被告のそれによく似ていた。


 昨夜からずっと降り続いていた長雨もようやく止み、夕暮れがわずかに垣間見える空の下、桃乃は西脇家を訪れる。

 玄関の門に手をかけた時、今日の調理実習で沙羅と作ったホワイトクッキーを持ってくるのを忘れてしまったことに気がついた。急いで取りに戻ろうと踵を返すと、桃乃が来るのを待っていた裄人が玄関先に出てくる。


「あのさ桃乃ちゃん……」


 困惑した裄人の様子に、何かあったのだと直感した桃乃の声がわずかにかすれる。

「な、なにかあったの、裄兄ィ?」

「うん、実はついさっき母さん達が出かけちゃってさ」

 すでに出かける支度を済ませている裄人は桃乃の側に来ると腕時計に視線を落とす。

「ほら、あの例の恋愛映画あるだろ?」

「 “ 魂が魅かれあう彼方で ” のこと?」

「そう。あれってそろそろ公開終了だろ? でもうちの母さんもどうしても観たかったらしくって、さっきオヤジが帰ってきたのを捕まえて二人で出かけちゃったんだよ。俺ももうバイトに行く時間だし、つまり家には冬馬しかいないんだよね」

「私、それでも構わない」


 桃乃はすぐにそう答える。とにかく早く、一刻も早く謝りたい。

 しかし色好い返事は戻って来なかった。


「うーん……。一階に母さん達がいればマズいことにはならないだろうと思ってさ、それで桃乃ちゃんにおいで、って言ったんだよね。けどさ、さっき帰ってきた冬馬と顔を合わせたら、冬馬の奴すごく機嫌悪くてさ、口きいて貰えなかったんだ」

「じゃあ冬馬はまだ怒ってるの?」

「たぶんね……。だから桃乃ちゃん、明日の夕方にもう一度おいでよ? 明日なら母さんもいるだろうし、俺もバイト無いから同席できるからさ。その方がきっといいと思うんだ。ね? 明日にしよう?」


 裄人は婉曲に今夜の話し合いの中止を促す。だが桃乃は意思を曲げなかった。


「ううん、私、行く」

「でっでもさ、桃乃ちゃん」

「私、少しでも早く冬馬に謝りたいの。だから行く。絶対に行くから」

「だけど桃乃ちゃん一人じゃさ……」

「心配しなくても大丈夫。一人でちゃんと謝れるから」

「いや、だから俺が言いたいのはね、冬馬と話し合い自体が出来ないかもしれな…」

「いいのっ! それでも行きたいのっ!!」


 桃乃は叫ぶ。もうクッキーを取りに帰ろうとしていたことなど完全に忘れていた。

 冬馬に会いたい──。

 今はその思い以外、何も無い。


「……分かったよ」

 普段の桃乃らしくないその強い口調に、裄人は心配そうな表情を残したままでようやく同意する。そして門の扉を開けて中に入るよう促した。

「あいつ、今自分の部屋にいるから」

「うん分かった。じゃあ行ってらっしゃい裄兄ィ」


 裄人に小さく微笑みかけ、桃乃はそのまま西脇家の中へと入ってゆく。その後ろ姿を見送った後、裄人は後ろ髪を引かれる思いで車へと歩み寄った。



( あぁどうかおかしな事になりませんように…… )



 今は胸の前で大きく十字でも切りたい気分だ。 

 決して神の存在を積極的に支持しているわけではないが、胸の中にうずまく不安がこの日の裄人を天に向かってそう祈らせていた。





 ◆ ◇ ◆ ◇





 玄関でサンダルを脱ぐと、桃乃は二階へと続く階段を見上げた。

 段数ではほんの十二、三段の高さ。

 階段を昇るのに躊躇してしまっている自分と、一気に駆け上がりたい自分が心の中でせめぎあう。


 一段、一段、踏みしめるように昇り始める。

 しかし階段をいくら昇っても冬馬の気配を感じられない。

 家全体を静寂が完全に支配している。そしてその静寂を乱すのは、階段がミシミシと小さく軋む音だけだ。


 階段を昇り、廊下を進む。

 一番奥の左側が冬馬の部屋だ。

 室内からは物音一つ聞こえてこない。

 おずおずと部屋の扉をノックをする。



「……冬馬? いるんでしょ?」



 返事は無かった。

 そっとドアを開けてみる。

 すると、勉強机の上に両足を上げてダラリと両手を下ろし、気だるそうな格好で椅子に座っている冬馬の広い背中が見えた。

 まだ制服姿のままだ。だが冬馬はドアが開いても振り向こうともしない。

 勇気を出して桃乃は部屋の中に足を踏み入れた。


「冬馬……あ、あの……、昨日はごめんね……」


 桃乃の謝罪にも冬馬は背を向けたままで返事一つしない。

 沈黙がこの部屋全体を上から強引に押し潰そうとしているかのようだ。

 桃乃が「ごめんね」ともう一度謝ろうとした空気を見抜いたのか、今度は一瞬早く冬馬が口を開いた。



「朝、兄貴に送ってもらった時に聞いたのか……?」



 低い声で投げかけられたその問いに今朝覚えた不安感が一気によみがえる。

 冬馬と目が合ったように感じたのはやはり勘違いではなかった。あの時、冬馬は自分に気付いていたのだ。

「う、うん、そう。裄兄ィに聞いたの」

「やっぱりな……」

 桃乃の返事を聞いた冬馬は椅子に大きく寄りかかり、背もたれを揺らし始めた。

 アームの部分が軋みだし、ギィィ、ギィィと、苦しげに鳴き出す。


「冬馬……こっち向いて?」


 桃乃はそう懇願したが、それでも冬馬は振り向かない。

 願いは届かずに黙殺される。

 こちらから歩み寄ろうと桃乃が足を踏み出した時、冬馬がまた低く呟いた。




「……お前、俺の言うことには耳を貸さないくせに、兄貴の言うことは聞くんだな……」




「……!」

 驚きで思わず声を失う。

 その直後、冬馬の両肩が痙攣でも起こしたかのようにわずかに震えだした。

 同時にかすかな忍び笑いが聞こえてくる。

「……ははっ、そりゃそうだよなぁ……。なんたって桃乃は昔からずっと兄貴のことが好きだったからなぁ……」

 自虐的で、自嘲気味な乾いた笑い声。

 それは桃乃の足を止めさせるのに充分なものだった。

 ギィギィ、と椅子を揺らし、冬馬は相変わらず背を向けたままで宣告する。



「悪いけど一人にしてくれ」



「……冬馬……」

 冷たい言葉を投げつけられ、桃乃は金縛りにあったようにその場に固まった。

 伝えたいことはある。

 たくさんあるのに、そのすべてが今の言葉に頭から押さえ込まれる。


「いいから早く出てってくれよ」


 それは信じられないほどの冷たい声だった。

 一切の感情を捨てきったような声。

 冬馬がこんな声で自分に物を言うのを桃乃は初めて聞いた。

 受けた衝撃の大きさに、ただただ、そこに立ち竦む。

 


 突然前触れも無く、椅子の軋みが止まる。

 背後で桃乃が動く気配が無いのを感じ取った冬馬は、ガタッと大きな音を立てて椅子から立ち上がった。

 その瞬間、脅えた桃乃がビクリと体を震わせる。

 だが、振り返った長めの前髪の隙間から覗く冬馬の目は、桃乃を一切見ていなかった。



「……じゃあ俺が出ていくからいい」



 冬馬はそう言い捨てると立ち竦む桃乃の横をすり抜けた。

 すぐに背後でドアの閉まる音がする。





 ── ドアは静かに閉められた。


 その音はかすかな音だったはずなのに、部屋に一人取り残された桃乃の中で何倍にも大きく反響する。

 振り返り、クリーム色のドアを呆然と見つめる。閉ざされた扉の下が黒く揺らぎだした。

 それは今朝まで自分が身を沈めていた場所。

 底の見えない海溝が扉の前に大きく横たわっている。 



 感情を露にして思い切り乱暴に、

 これでもかというぐらいに激情的に、

 そんな風に閉められた方が、まだきっと救われた。ずっとずっと救われた。



 滲み出す視界の中でようやく桃乃は悟る。

 たった今、自分と冬馬との間に深く暗い溝が出来たことに。





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