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海の底で彼女はもがく



 そしてそれぞれの一夜が明けた。

 昨夜遅くから降り出した雨は、まだ勢いを衰えさせること無く今も降り続いている。



 ベッドの上で目覚めた桃乃の気分は相変わらず深く沈んでいた。

 胸の中心にはいまだに淀んだ濁流が渦巻いている。

 ショックが体を駆け抜け、昨夜はただただ滂沱の涙を流しただけの桃乃だったが、今朝になって分かったことが一つだけあった。


 それは自分の中に今ある、この歪んだ黒い感情は “ 嫉妬 ” なのだということだ。

 少しでも気を抜くと、桜子が昨夜目にしたようなあの勝ち誇った顔で冬馬の隣にベッタリとしなだれかかり、楽しげに談笑しているシーンを想像してしまう。

 しかも桃乃の想像の世界では、冬馬もとても嬉しそうに桜子と話をしているのだ。



 起き上がる気力が湧いてこない。

 淡い小花模様が散りばめられた壁紙から白いクロス貼りの天井へと視線を移す。

 真っ白なクロスをずっと眺め続けていると、意識だけに感覚が集中し始めているのが分かった。



 ── 海溝に身を落としたらきっとこんな感じなのかもしれない──



 ふと、クリアになった思考の中でそう思った。

 身体は今も暗い海の底に向かって沈み続けている。逃れることは不可能だ。

 昨夜はこれ以上落ちないぐらいの深さにまで身も心も沈んだつもりなのに、淀んだ嫉妬の感情は過重な(いかり)と化して、桃乃を果てしない海底へと今も引き込み続けていた。

 鮮やかなエメラルドグリーンの透き通った海面はどんどんと頭上から遠ざかり、上方では無数の水泡がきらめく。しかし錨はその鈍く光る黒い身から冷たい鉄の鎖を伸ばし、桃乃の身体を容赦なくがんじがらめに縛り付け、決して離そうとはしない。


 その事に言い知れぬ恐怖を感じた桃乃は、ベッドから体を引き剥がすように身を起こす。

 このまま嫉妬の感情に心を歪ませ続ければ、手を伸ばしても二度と這い上がれなくなるくらいの暗い海溝に感情のすべてが飲み込まれてしまうような気がした。

 その恐怖から逃げ出すように身支度を済ませ、朝食にもほとんど手をつけずに学校へと向かう。


「行ってきます」


 普通を装って家を出ると、傘をさして雨が降りしきる外へと一歩踏み出す。

 その瞬間に「おはよう」という声が聞こえた。

 玄関先に止まっていた車の窓ガラスが開き、運転席から顔を覗かせた人物を見た桃乃は驚きで軽く息を呑む。


「裄兄ィ……!」


「これから学校だろ? 雨も降っているし、送っていくよ」


「…………」


 昨夜の事があり、素直に返事が出来なかった。桜子の口ぶりで、裄人と桜子が知り合いなのは分かっていたからだ。

「今、桃乃ちゃんを迎えに行こうと思ってたんだ。話があるから乗って。急がないと追いつけない」

 車内から覗く裄人の顔はいつもの柔らかさが少し欠けているように見える。

「追いつけないって……?」

「冬馬にだよ。あいつ朝練があるからもう家を出ているんだ。早くしないと車とはいえ間に合わないかもしれない。さ、早く乗って」

 しかし桃乃は助手席のドアに手をかけようとはしなかった。ためらいながら小声で答える。

「ど、どうして冬馬を追いかけなくちゃいけないの?」

「いいから早く!」

 車に乗ろうとはしない桃乃に、裄人は強い口調で急かす。

「桃乃ちゃん、冬馬は昨日の合コンに行ってないんだ!」

「エッ……!?」

「詳しいことは車で話すから早く!!」

 ようやく桃乃を乗せることが出来た車はタイヤを鳴らして急発進する。


「それで昨日の合コンのことなんだけどさ…」


 裄人は運転に集中しながらも車内で今回の事の顛末について詳しく話し出した。説明を聞き終わった桃乃の顔色が完全に変わる。

「……じゃ、じゃあ冬馬は本当に合コンに出てなかったの……?」

「あぁそうだよ。それに実は俺、替え玉トリックを思いつく前にダメ元で合コンに出てくれないかって冬馬に直接頼んでもいるんだ。でもあいつの返事はノーだった。あいつ、その時言ってたよ。兄貴には色々世話になってるし、頼み事を聞いてやりたいけどそれはやっぱり無理だって」


 信号が黄色から赤に変わろうとしているにもかかわらず、車は交差点を突き抜ける。

 いつもの裄人らしからぬその強引な運転に、今語られていることは間違いの無い真実なのだということが強く伝わってくる。


「あいつ、“ 俺には桃乃がいるから ” ってきっぱりと断ったんだ。しかも、“ 兄貴、役に立てなくてゴメンな ” って俺に謝ってさ……。だから冬馬は桃乃ちゃんに謝らなくちゃいけないようなことは何一つしていないんだ。悪いのは全部俺なんだよ」

「……わ、私……」 

 昨夜、自分が冬馬の前で取った態度を思い返し、桃乃の声が震える。

「私、冬馬に謝らなくっちゃ……!」

「うん、急ぐよ」

 間に合えばいいけど、と裄人はハンドルを切りながら呟く。



 やがて車はカノンの通学路に入った。

 かかげられている傘の位置が高い人物ばかりを目で追い続けたが、冬馬らしき人影は見つからない。

「桃乃ちゃん、この先カノンに行くにはもうこの道しかないよね?」

「うん。あとはこの坂道だけ……」

 正門が見えてきた。

「どうやら間に合わなかったみたいだな」

 たった一言のその言葉がとてつもない重さをはらんで桃乃を押し潰そうとする。


「あ、待って! いた!!」


 裄人が叫ぶ。

 スクールバッグを背負い、先を歩いている冬馬の後姿がグレーの傘の隙間から見えた。


「まずいな、あいつもう学校の中に入っちゃうよ」


 冬馬の足を止めるため、短いクラクションが通学路を貫く。

 そのけたたましい音に冬馬は肩越しに軽く後ろを振り返ったが、すぐに前に向き直ると逆に歩く速度を早め、そのまま正門をくぐり抜けて行ってしまった。


「あーあ、気がつかなかったかぁ……」

 ため息をつけない車は、代わりにゆるゆると速度を落とす。

「でもあいつ、一瞬だけどこっちを見たような気がしたんだけどなぁ……。桃乃ちゃんもそう思わなかった?」

 桃乃はその問いに返事が出来なかった。

 冬馬が振り返った時、自分と目が合ったような気がしたのだ。

 ううん、きっと冬馬は私に気付かなかったんだ、と何度も思い込もうとしたが、胸の中がざわざわと不穏な物音を立て始めている。そんな冷たい予感に脅える桃乃に裄人が気遣いの言葉を掛けた。

「あれっ、桃乃ちゃん大丈夫? 顔色悪いよ。もしかしてここまで飛ばしすぎたから酔っちゃったかい?」

「ううん、大丈夫」

 一言だけそう答えると桃乃はシートベルトを外す。

 しかし不安な気持ちが心だけではなく、体までも前のめりにさせていた。両脇の黒髪がサラサラと肩から滑り落ちて不安げな横顔を覆い隠す。


「あいつまだ怒ってんのかなぁ……」


 裄人の独り言に桃乃は素早く顔を上げた。

「冬馬、怒ってたの……?」

「うん。あんなに怒ってる冬馬見たの久しぶりでさ……。そんで昨日の夜、桃乃ちゃんに責任持って事情説明に行くからって言ったら余計なことしなくていい、って怒鳴られたんだ。でも俺、いてもたってもいられなくてこうして桃乃ちゃんに全部話しちゃったんだけど……」

 車は正門から駅の方角に方向転換し、一度停止する。

「桃乃ちゃん、確かこの学校って校舎が男女に別れていて勝手に行っちゃいけないんだよね?」

「うん」

「じゃあ今日は冬馬と学校で会うチャンスはもう無いの?」

「今日は無理だと思う……」 


 桃乃は気落ちした様子でうなだれる。

 雨が降れば中庭でランチが出来ない。だから冬馬とも会えない。

 しかし、か細い声でそう答えた桃乃にはある予感がしていた。

 それは “ 雨が降っているから ” という天候条件ではなく、今日がもし晴れていたとしても、冬馬はたぶん中庭に来てはくれないだろう、という哀しい予感だった。


「そっか今日は無理か……」

 裄人は車内に充満している重苦しい空気を拡散させるように大きく息を吐き出す。

「でも考えてみれば今日会えなくて逆に良かったかもしれないな。ね、桃乃ちゃん、ちょっと俺個人の意見を聞いてくれるかい?」

 桃乃が小さく頷いたのを見た裄人はハンドルから手を離す。

「あのさ、二、三日くらい冬馬をこのままそっとしておかない? あいつもかなり頭に血が上ってたから少し冷却期間を与えてやった方がいいような気がするん…」


「嫌っ! 私っ、早く冬馬に謝りたいっ!」


 最後まで聞かず、桃乃は裄人の提案を激しく拒絶する。

「……そうだよね、桃乃ちゃんはそれじゃ納得できないよね。分かるよ……」

 一応提案はしてみたものの、返ってくる拒否反応を察していた裄人は優しい眼差しで力なく笑った。そして意を決したように言う。



「桃乃ちゃん、今晩、(うち)においで」



「今晩……?」

「うん。カノンってもうすぐ期末考査なんだろ? 冬馬も最近六時くらいに帰ってきているからさ、それぐらいの時間においで。あいつと話が出来るように俺が上手く場を作るよ」

「ホント!?」

「うん。俺、今日は夜にバイトがあるからずっと同席は出来ないけど、下に母さん達がいるから荒れる事にはならないと思うし……」


 桃乃の顔に明るさが戻った。

 今夜冬馬に会える──。

 その喜びで不安の大部分が消し飛んでゆく。


「本当にごめん、桃乃ちゃん」

 真顔で裄人が謝罪する。

「全部俺の責任だ。この償いはきっとするからね」

「ううん、裄兄ィだけのせいじゃないよ……」

 桃乃は小さくかぶりを振った。

「送ってくれてありがと。今日六時に絶対に行くから」

「うん、待ってるよ」


 しかし持ち直した感情もほんの一時だけだった。

 裄人の車を降り、正門へ向かう間に後悔の念が再び湧き起こりはじめる。

 傘の先から次々に落ちる雨だれと傘の表面を震わす雨音が、より一層気分を重くさせていた。


 戻れるものなら昨日の夜にすぐにでも戻りたい──。


 心の底から強くそう思う。

 そして冬馬の事を信じられずに一方的に責めた、昨夜の自分を消し去りたかった。





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