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割れないタマゴ 【 後編 】



“ バスケットに盛られた生のタマゴを想像しろ 

  そいつを一つも割ることのないように気を配って走れ

  そうすればお前の隣にいるお嬢さんはいつまでも眠り姫でいられるはずだ ”




 昔どこかで聞いた、“ 助手席で眠っている女性を起こさずに運転する心得 ” を思い出した。


 心得に忠実に。


 隣で安らかに眠る真里菜を起こさないようにカーコンポから流れていた音楽を消し、裄人は運転に集中する。車内に鎮座している架空のタマゴ達がピクリとも動かないぐらいの慎重さで。



 少しずつ、少しずつ、フロントガラスに小さな雨粒が増えてゆく。

 雨脚が強くなってきたがまだ車の行き先は決まっていない。

 耳を澄ますと助手席からかすかに聞こえる、規則正しい寝息。

 そっと視線を送るとなだらかな胸部がスローモーションのようにゆっくりと上下していた。

 そのどこまでも無防備な寝姿に、抵抗しがたい誘惑が頭の中で囁いて、心までをも掻き乱す。



 ── 目覚めた時、もしそこが見たことも無い部屋だったら、彼女はなんて言うだろう──



 そんな問いを自分に投げかけてみる。

 真里菜の性格ならたぶん怒ることはないだろう。

 ただ、その瞳に静かに悲しみの色が浮かんだ場面を想像すると、裄人の決心は鈍った。



「……俺ってこんなに優柔不断だったっけ……」



 未だ結論が出せていない自分に納得がいかず、思わずそんな呟きが漏れる。

 その声で真里菜が小さく身動きをした。しかしまだ目は覚まさない。

 薄着で眠るその体に何かかけてやりたかったが、あいにく今日はジャケットを着ていない。

 車内にタオルケットの代わりになるようなものも無かった。

 スポーツタオルでも積んでおけば良かったな、と裄人は後悔する。



 フゥと溜息をつき、再び思考に意識を戻した。

 自分が真里菜に対してここまで優柔不断になっている理由。本当は分かっていた。




 ── 俺はこの娘に振られるのが怖いんだ




 もちろん女性に振られた経験の一つや二つはある。

 だが、振られるのが怖い、というのは初めて体験する感情だった。


 今年の春に楠木真里菜と浮田教授のゼミで一緒になった。

 一目で気に入った。

 それからは会う度にアプローチをかけ続けた。

 だがガードが固く、なかなか実は結ばなかった。

 何事にもスマートに、そして効率的に行動するのが信条のいつもの自分なら、とっくに真里菜に見切りをつけていたはずだ。

 しかしなぜか今回は諦めたくなかった。だから誘い続けた。

 そこへ孝太郎から合コンの誘いがかかり、そこに真里菜も呼ぶと言われた時、これに賭けよう、と裄人は思った。


 だが──。


 現実は時として無情だ。

 この状況でこれだけ無防備に眠ることが出来るということは、やはり自分は “ 意識外の存在 ” なのだろう。

 余程信用された、ということはまずありえない。

 今まで真里菜が自分との間に有刺鉄線のように張っていた硬い空気の壁が、このわずか数時間の合コンだけで完全に消え去ったとは考えづらかった。



( 実質振られたようなもんなのかな…… )



 だがそれでも真里菜をこうしてそっと眠らせたまま、簡単に帰ることの出来ない遠い場所にまで連れ去ってしまいたい、という思いを止められない。

 俺ってこんなに未練がましい所があったんだ、とまたあらたな自分の一面を発見した時、携帯が鳴った。


 シャツのポケットから急いで携帯を取り出す。

 マナーモードにしていたので真里菜を起こさずに済んだ。ディスプレイは母、麻知子からの呼び出しを伝えている。

 一旦車を街路樹の下に停め、真里菜を起こさないように静かに車外に出ると携帯を耳に当てた。


「あ、裄人?」


 麻知子の声が聞こえてくる。

 こうして麻知子からたまに連絡が入ることはあるが、それは大抵夕方までで、夜はほとんど鳴ることがない。「まーた夜遊び!?」と嫌味は言うが、裄人のプライベートな時間を邪魔しないよう麻知子なりに気を遣っているのだ。

 その麻知子からこうして連絡が来ているということは緊急の用件だ、と裄人は直感する。


「どうした母さん。なにかあった?」


「あんた、今すぐに帰って来られる?」

 携帯電話を通してでも麻知子の切羽詰った様子が分かる。

「すぐは無理だよ」

「そう……。でも今日は帰ってくるのよね?」

 まだこの先の展開を決断出来ていなかった裄人は言葉を詰まらせる。

「そ、それはまだ分からないけ…」



「冬馬が怒ってるのよ」



 裄人の言葉を遮り、麻知子はまずその一言から用件を切り出す。

「エッ!?」

「どうしてかは分からないんだけど……。さっき桃乃ちゃんが来てね、なんだか様子がおかしかったから冬馬を呼んだのよ。でも桃乃ちゃんが逃げ帰っちゃったから後を追わせたんだけど、その後二人の間で何かあったみたいでさ。冬馬が家に戻ってきた後、あんたは今日何時に帰ってくるのかって怖い顔で聞いてきたのよ。それで “ 今日は聞いてないわよ ” って言ったら、黙ってそのまま二階に閉じこもっちゃったの。だからあんたが何か理由を知ってるのかなって思ってさ……」



 全身から血の気が引いていくのを感じた。

 街路樹の葉の間をすり抜けてきた気まぐれな雨粒が一滴、左の頬に付着して我に返る。



「もしもし裄人? 聞いてる?」

「あ、うん、聞いてるよ」

「もしかしてあんたが何か冬馬を怒らせるようなことをしたの?」

「い、いや……。ごめん、母さん。運転中だからもう切るよ」

 麻知子の問いには答えずに裄人は一方的に電話を切った。



( 冬馬が怒ってる、か…… )



 携帯を手に裄人はしばらく考え込む。

 そして考えがまとまると頬についた水滴を手で拭い、またそっと運転席のドアを開けて乗り込んだ。

 進路の決まった車はゆっくりとUターンし、雨の中を再び静かに走り出す。



 ── 最終的に裄人が選んだルートは、真理奈の家に一番早く辿り着けるルートだった。





 ◇ ◆ ◇




 「ご、ごめんなさい……! 私、眠っちゃって……!」


 真里菜が目を覚ましたのは、自宅までもうあとわずかで着く、という所でだった。

 わざわざ家まで送ってもらっているのに眠り込んでしまった自分の失態に、真里菜は赤い顔で何度も頭を下げる。

「いいんだよ。女性は睡眠をたっぷり取らないとね。よく眠れた?」

「ほっ本当にすみません! 西脇さんの運転って静かなのでつい……ゆっ、揺りかごに乗っているみたいな気持ちになって……」


 真里菜のその返答に裄人は微笑んだ。

 どうやらタマゴは一つも割らずにここまで辿りつけたようだ。

 

「じゃあ真里菜ちゃん。戸締りには気をつけてね」

 小雨模様の中、真里菜の家の玄関先に車を停めると裄人は一旦車から降りて助手席のドアを開けてやる。

「はい。送ってくれてありがとうございました」

 車を降り、裄人を見上げた真里菜の顔に雨粒が当たりだした。

「あっほら、濡れちゃうよ? 雨、強くなってきたから早く中に入って」

 助手席のドアを閉め、裄人が急かす。

 しかし真里菜は家の中に入ろうとしない。

「西脇さん……」

「ん?」

 真里菜はどこか潤むような瞳でか細く尋ねる。



「あ、あの……またお会いすることは出来ますか……?」



 思っても見なかった真里菜からの誘いに裄人は驚く。

「もっもちろんだよ! だって同じ大学じゃないか。それにゼミでも毎週会ってるだろ? でっでも良かったら今度一緒に緑がいっぱいの高原にドライブでもしない? マイナスイオンを体内に取り込みにさ! 健康にいいよ? あっ、それに美容にも!」

 声が勝手に弾むのを、分かっていても止められなかった。

 真夏に咲く向日葵のように可愛らしい笑顔がそんな裄人に向けられる。

「はいっ! ぜひ連れて行って下さい!」

 


 一瞬、呼吸の仕方を忘れた。



 胸がドキリと震え、酸素の代わりに別の何かがたっぷりと肺の中に流れ込んでくる。

 その淵一杯までなみなみに満たされたような暖かい感覚。心が大きく和んでゆくのを感じる。

 これも今まで一度も体験したことの無い感情だった。




 ── あぁそうか きっと俺はこの娘の事が本気で好きなんだ




 そう自分の気持ちに改めて気付いた時、今日はこのまま送ってきて正解だったと心から思えた。


「真里菜ちゃん、明日また連絡するよ。じゃあお休み」

「はい。お休みなさい、西脇さん」


 真里菜が家の中に入ったのを見届けた後、まるでこれからの不吉な将来を暗示するかのように雨脚は強まりだした。先ほどまで乾いていた道路は一面にコールタールをべったりと塗りつけたように、たちまち真っ黒に染まってゆく。

 車内に戻った裄人はしっとりと濡れた前髪を片手で大きく後ろに掻きあげ、車を発進させる。

 雨はますます強く降り始め、それに合わせるように裄人の表情も徐々に硬さを増し始めた。



 焦りを振り切るように車の加速をさらに上げる。



 雨天時には慎重な運転を心がけている裄人だが、今はそんな事を言っている状況ではない。

 ギアを素早くトップに入れた。

 しかしシフトチェンジがスムーズにいかず、ギアの歯が苦しげに鳴る。動揺がここにも現れていた。

 普段は裄人の耳にあんなに小気味良く響く、エンジンが高速回転で唸る快音も、今は自分を余計に焦らせる要因にしかなっていない。



「……前門の虎、後門の狼だって分かっていたくせに俺って奴は……。これは久しぶりに本気で覚悟決めないとマズイですね……」



 疾走するタイヤが路上に溜まる雨を豪快に蹴散らす。

 裄人は真剣な面持ちでそう独り言を呟くとアクセルを何度も強く踏みしめた。






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