オレンジのクロスバイク 【後編】
疾風の勢いで緑の前から逃げた冬馬は、校舎横に設置されてある自転車置き場へ向かった。クロスバイクの前輪を車止めに置いてチェーンをかけていると、昨日初めて教室に入った時とまったく同じように背後から声がかかる。
「よっ、色男のご登校だな」
冬馬はしゃがんだまま振り向く。そこには同じクラスの柴門要が立っていた。
「……またお前か」
この男が自分を嫌っていることを昨日初めて顔を合わせた時から薄々と感じていた冬馬は、チェーンをかけ終わると冷たい声で立ち上がる。
「今、たまたま正門の近くにいて見ていたけどよ、お前モテるんだなぁ。早速あの色気ムンムンの担任となかなかイイ雰囲気だったじゃん。なぁなぁ、お前って年上もイケるクチなわけ?」
ポケットに両手を突っ込んだままで話す要を無視し、冬馬は校舎の中に入ろうとする、だが要は素早い身のこなしですかさず冬馬の前に回りこみ、その行く手を遮った。
「……どけよ」
要より背の高い冬馬は相手を見下ろして低い声で牽制した。しかし要は威嚇混じりのその声にもまったく動じる素振りすら見せない。
「まぁ待てよ、まだお前に聞きたいことがあるんだ」
要はニヤリと笑うと今度は女子校舎の方角を顎で指し示す。
「今の女の子、お前の彼女か?」
「お前に何が関係あるんだよ」
「いや今見たらかなりの可愛い子だったなぁと思ってさ。俺、ああいう清純そうなタイプ、次の獲物で狙ってるんだ。でさ、あの子の名前とクラス、教えてくれよ?」
冬馬の目の色がはっきりと変わる。
「あいつに変な真似したらただじゃおかねぇからなっ!?」
冬馬はそう叫ぶと要の制服の胸倉を掴みあげた。しかしそれでも要はまだ平然とした態度を崩さない。それどころかその顔には嘲るような笑みさえ浮かんでいる。
冬馬が乱暴に手を離すと要は乱れたネクタイをほどきながらからかうように言った。
「なぁそんなに大事なのか、あの娘?」
しかし冬馬は返事をせずに無言で数秒間要を睨みつけた後、そのまま校舎の中へ入っていってしまった。薄ら笑いを浮かべてその後姿を見送った後、要はほどいていた自分のネクタイを一気に外す。
「やっぱあっちの方か……」
そう独り言を呟き外したネクタイを弄びながら、要は「侵入禁止」と札の置かれてある薄暗い裏道の方へ向かう。その道の途中には高さ二メートルほどの金網が張り巡らされてあった。そのフェンスに足をかけ軽々と乗り越えると、要はネクタイを結び直しながら女子校舎へと続く未知の区域に侵入し、そのまま裏道を足早に進んでいった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その頃、桃乃はまだ誰も来ていない一年二組の教室にいた。自分の席にストンと腰をかけ、バッグの中の教科書類を机の中に入れはじめる。
その時ふいに教室の後ろの扉がコンコンとノックされた。
椅子の上から後ろの方を見ると扉はもうすでに開いており、端正なその顔に小さな笑みを浮かべた要が扉に寄り掛かったままで桃乃の方をじっと見ていた。
今、この女子校舎に男子がいる事実が信じられなくて、桃乃はしばらくポカンと口を開けて要の顔を見つめる。
要は微笑みながら桃乃に向かって小さく手を上げた。
「おはよう。君、名前は?」
しかし桃乃はまだ唖然としたままでいきなり現れた要の顔を見ている。
「あ、そっか。女の子に名前聞く前にまずこっちが名乗んないとね。俺、柴門要っていうんだ」
要は扉から離れると桃乃にゆっくりと近づく。桃乃は思わず椅子から立ち上がて左側を指差した。
「こっここは女子校舎よ!? 男子校舎は反対!」
「ん? 知ってるけど?」
「エッ……」
要にあっさりとそう返されて桃乃はその先の言葉を失う。
「俺、君に用事があってきたんだ。君の名前知りたくってさ」
「あ、あなた誰?」
「だから柴門要だって。あ、クラスは一年四組ね」
( 冬馬と同じクラスだ…… )
と桃乃は即座に思った。
「キミさ、西脇冬馬とはどういう関係なの?」
要は矢継ぎ早に質問を続ける。
「さっき君と西脇が一緒に登校するの見てさ、西脇に “ 今の女の子すごく可愛いな ” って言ったら “ じゃあ直接行って会ってこいよ ” って言われたんだ」
「えっ、冬馬が……?」
「うんそう。会ってこい、なんて言われたしさ、まさか君、西脇の彼女じゃないよね? それとも彼女?」
「ち、違うわ」
「そっか、じゃあ俺にもまだ望みあるわけだ」
要は教室内隅々にまで響くぐらいの明快な音で指を鳴らす。
「君、すっごく可愛いから俺気に入っちゃったんだよね」
「……!」
男子から面と向かってこれだけ強烈にアプローチされた経験の無い桃乃は赤くなって俯いた。
「ね、名前教えてくれるかな?」
「…………」
「あれ? 別に警戒しなくていいんだよ? 俺、これでもマナーのいい紳士なんだからさ」
ニッコリと微笑むその口元から真っ白で綺麗な歯並びがのぞく。
しかし桃乃は赤くなって黙り込むばかりだった。
返事が戻ってこないので内心舌打ちをしながら何気なく要は桃乃の机の上に目をやる。
そしてそこに自分の知りたい答えがあるのを見つけた。
「へぇ、倉沢桃乃っていうんだ?」
名前を言われた桃乃は驚いて要の視線の先を見る。
すると机の中にしまおうとしていたノートの表紙に自分の名前が書いてあるのが見えた。
「名前も可愛いじゃん! あのさ、今度一緒にお昼でも食べない? ここじゃ昼ぐらいしか男子と女子が顔合わせることないしさ。ね?」
だがそんな誘いの言葉をかけたくせに、要は桃乃の返事を待たずにスゥッと教室の扉の方に戻る。
「じゃ、こんなところにいるの見つかるとヤバイから俺、そろそろあっちに帰るわ。楽しみにしてるよ」
要はもう一度微笑みながら桃乃に向かって小さく手を振ると、風のように教室の外に出ていった。
桃乃はしばらく唖然としていたが、やがて要が出ていった扉に駆け寄るとそこから上半身を出して廊下を見渡す。
しかしもう要の姿はとっくに消えていた。
整った顔立ちの要からいきなり強烈なアプローチをうけ、赤く上気した頬で桃乃は要が去った廊下の先をしばらく見つめる。
( 今の男の人……なんだったの? )
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その頃、先ほどの要の態度で冬馬の頭には完全に血が昇りきった状態だった。
とりあえず教室に入ったものの、気持ちが落ち着かない。
そこで少し冷静になるべく、ホームルームが始まる時間まで校庭に設置されてあるゴールポストでシュートの練習でもしようと、教室の備品のバスケットボ―ルを手に冬馬は廊下に出た。するとその廊下の先から要がこちらに歩いてくるのが目に入る。
要は冬馬の姿に気付くとサッと視線を逸らした。
冬馬も苛立つ気持ちを抑えながらお互いそのまま黙ってすれ違おうとした瞬間、要が低い声でボソリと呟く。
「なにっ!?」
低く響いてきた今の言葉に、険しい表情で冬馬が振り返る。
相手の焦る気配を素早く背中で感じとった要はフッと乾いた笑みを漏らし、悠々と四組の教室内へと消えていく。たった今すれ違いざまに要に投げ捨てられたその言葉に衝撃を受けた冬馬は、廊下の中央で愕然と立ち尽くした。
「……俺、お前の大好きなあの桃乃ちゃんと今度お昼の約束しちゃったぜ?」
要の勝ち誇ったような声が何度も脳内をリフレインする。
右手の甲に青く太い静脈がくっきりと浮き上がり、バスケットボールを掴んでいる五本の指がギリギリと悲鳴のような音を立てていたことにすら気付かず、再び冬馬の頭に急激な勢いで血流が沸騰し始めていた。