沙漠とネオン 【 後編 】
「……誰が言ってた、それ?」
真里菜が口にしたその問いに、孝太郎の表情が途端に険しくなる。
それまでにこやかに話しかけてきていた相手が急に硬い声と表情を見せたので、真里菜はためらいがちにその名を答えた。
「さ、桜子さんです」
( チッ、やっぱり桜子か…… )
孝太郎は苦々しさを噛み締めながら内心で舌打ちをする。ほろ酔い気分が急速に冷めていくのを感じた。
冬馬を今回の合コンに参加させたので、こちら側の交換条件であった真里菜を桜子は約束通り連れてきたが、どうやらその前に裄人に関する様々なマイナス情報を吹き込んでおいたらしい。
どうしても真里菜を合コンに参加させるため、顔の広い桜子に女子の仕切りを任せたのが現時点では完全に裏目に出てしまっている。
「あぁ、確かにあいつのもう一つの仇名はそれだよ」
顔を伏せた真里菜を見つめ、孝太郎は大きく息を吐いた後、その噂をあっさりと認めた。だがその後に「でもな」と言葉を続ける。
「その仇名の由来が面白いんだ。もちろんかなりの数の合コンに出たせいでついた仇名なのは間違いない。でもそれは裄人が自分から合コンに参加しまくったからじゃないんだぜ?」
「えっ、そうなんですか……?」
桜子から聞かされていた内容と違っていたため、真里菜は少し驚いた表情を見せる。
「あぁ」
気負ったせいでその肯定の返事は不自然なぐらいの強さになる。
「合コンがある度に “ 頼むから是非出てくれ! ” って拝まれて、何度も出ているうちについたんだ。それもさ、その熱烈コールをしょっちゅう送るのは女の子達じゃない。裄人を誘うのは俺らからさ」
「男性の方……から?」
不思議そうに大きく顔を上げた真里菜の髪がまたふわりと揺れる。
「そう。ちょっと解せないだろ? 裄人みたいな色男を呼ぶのは俺らにとってはデメリットの方が大きいからな。気に入った娘がいても裄人になびく可能性がデカくなっちまう」
その時、イタリア料理店の右隣で営業中の飲食店の格子戸がガラガラと開いた。
「ありあとやしたー!」
中から出てきた客の背を押すように店員のお礼の掛け声が飛ぶ。何気なくその光景に目をやった孝太郎はそのまま軽い調子でサラリと告げる。
「俺らの立場なんて、言うなればそこの刻みキャベツみたいなもんでさ」
「えっ?」
真里菜は孝太郎の視線の先を振り返った。そこには、
『トンカツ専門店 石黒亭』
と書かれてある立体看板があり、煌々とライトが灯っている。
店先に張られている和紙の張り紙には達筆な朱の筆文字で、“ 当店一押し! スペシャル・ロースカツ ” と書かれていた。
「もちろん裄人はメインのあれだ」
張り紙を指差し、孝太郎が続ける。
「真里菜ちゃん、トンカツ屋に行くのは皆美味いトンカツを食いたいからでさ、添え物の刻みキャベツを目当てに行く奴は普通いないだろ? しかも場合によっちゃ、大してろくに食われないで、哀れにも厨房にそのまま下げられちまうこともあるしな。いい所は全部メインの奴が総取りだ」
神妙な顔で聞いている真里菜に、孝太郎は「だけどな」と力強くつけ加える。
「それでも俺らはあいつを呼ぶ」
また格子戸がガラリと大きく開いた。
満腹そうな顔をした中年の二人連れが談笑しながら夜の街に消えてゆく。
「なぜかは真里菜ちゃんも今日の裄人を見ていてよく分かっただろ? 俺らのメインディッシュはすごい気配りのできる大した奴でね。実は俺さ、今こうやって真里菜ちゃんの前でベラベラ喋っているけど、気に入った娘の前に行くと途端に緊張して上手く喋れなくなるクセがあるんだ。……意外だろ?」
「は、はいっ」
「真里菜ちゃん、肯定早過ぎ」
「す、すみません!」
「いやいや、正直でいいけどさ」
間髪入れずに返ってきた真里菜の素直な返事に、孝太郎はフッと表情を緩めた。
「でもそういう時にさ、裄人はスッと側に現れて、俺とその娘の会話が弾むように色々と話題を振ってくれるんだ。なんとなく想像できるだろ?」
「えぇ、分かります。とても」
今夜合コンの席で裄人から受けた気配りを思い出し、心からの同意をこめて真里菜は深く頷く。
「それに俺だけじゃない。あいつはいつも自分を後回しにして、参加している男のメンバー全員にそうやってフォローして回る。まったく、よくあれだけ瞬時に状況を把握できるよなって俺らはいつも言ってる。だからついた仇名が “ サードアイ ” で、合コンに引っ張りだこになるから “ 合コン王 ”。俺達みんな、あいつには世話になりっぱなしなんだよ」
一つ手前の交差点で裄人の車が赤信号で停止したのを確認した孝太郎は、人前では久しく見せなかった大真面目な顔で最後の押しに入る。
「真里菜ちゃん、桜子に何を言われたのかは知らないけどさ、あいつは確かにモテるし、色んな女の子とちょくちょく遊んできたのも本当だ。でも裄人は好きな子と両思いになったらその子としか付き合わなくなる。それは親友の俺が断言する」
停まっていたヘッドライトの群れが動き出した。
残された時間はあとわずか。これが最後の言葉になるだろう。
「だから頼む。噂になんて囚われないで、ちゃんと君自身の目であいつを見て、判断してくれ。そして裄人との事、真剣に考えてくれないか? あいつが今好きなのは君なんだ」
「え……?」
パァァッと真里菜の頬が桜色に染まった。
その反応に、明らかにこの娘は裄人に惹かれ出してるな、と確信した孝太郎の口がつい軽くなってしまった。
「あいつはマジでいい奴だよ。だって俺も裄人に抱かれたいって思うことあるもんなぁ……」
それを聞いた真里菜の顔色が桜色から蒼白に切り替わる。
「か、加賀美さんてそういうご趣味だったんですか……?」
「ヘ!?」
脅える真里菜の様子に、今の自分の台詞を回顧した孝太郎の顔からも血の気が失せる。
「ちっ、違うって! うっかり言い忘れたけどさ、今のは “ もし俺が女だったら ” って仮定の話だって!」
慌てた孝太郎は一歩近づいたが、青ざめた真里菜はその分きっちりと距離を取る。
「あぁっ、頼むからそんなに引かないでくれよ真里菜ちゃーん!」
そこへハザードランプを点灯させて裄人の車が歩道に止まる。運転席から降り、孝太郎と真里菜の側にやってきた裄人が不思議そうに尋ねる。
「お待たせ……あれ、どうした、二人とも? 顔が真っ青だぞ?」
顔を大きく引きつらせながら孝太郎は冷や汗を腕で拭った。
「ははは、何でもないって! ちょっと俺と真里菜ちゃんの間で多少の齟齬があっただけだ。じゃ、じゃあな裄人!」
「あ、孝太郎。お前、次も行くのか?」
「いや、俺も今回パスした。かなり酔っ払ったし、ターゲットも定められなかったしな」
「なんだ、じゃあ乗ってけよ。送るよ」
「いいって。お前そんな事してる場合じゃないだろ」
孝太郎はさりげなく横目で真里菜を指す。しかし裄人は退かなかった。
「いや、乗ってけ。そんなに酔ってるなら心配だ」
「お前な……」
孝太郎はつくづく呆れたように目の前の親友を見上げる。
「少しは今の置かれている状況考えろよ」
「いいから乗れって。どうせ通り道だ」
「いいって」
「なんだよ、遠慮するなって。らしくないぞ」
「でもよ……」
「いいから乗れ」
強いその口調に結局孝太郎は折れた。
「……はい、では送っていただきます」
「よし。さ、真里菜ちゃんも乗ってね」
「は、はい」
孝太郎が裄人の車に歩み寄るとすかさず背後から声が飛ぶ。
「あ、孝太郎。お前、今日は後ろな!」
「分かってるって!」
振り返ると孝太郎は親指を立てて笑顔を見せた。
◇ ◆ ◇
―― 運転中、裄人は車内で音楽をかけることが多い。
そのジャンルもポップなものからジャズ、クラシックまで多彩だ。
しかし、渋滞気味のネオン街を走る車内の中で流れている今夜の曲は少々毛色が違っていた。
音源は車内のスピーカーからではなく、なぜか後部座席。
ジャンルは童謡。しかも生独唱だ。
裄人は小さく嘆息し、ミラー越しに後部座席でほろ酔い気分の孝太郎をチラリと眺める。
そこにはご機嫌な様子でいぶし銀に熱唱する孝太郎がいた。
流れ続けるエンドレスメドレー。曲は「月の沙漠」。
もうこれで通算五回目のリプレイだ。
「ごめんね真理奈ちゃん。うるさいだろ? 孝太郎は酒が入るとこの歌を口ずさむ癖があるんだ。酔っ払ってるから許してやってよ」
「い、いえ、うるさくなんか……」
申し訳無さそうに自分を見る裄人に、真里菜は小さくかぶりを振った。
“ ちゃんと君自身の目で見てくれ ” と孝太郎に言われた通り、素直に運転席に視線を送ると、整った癒し系の笑顔と目が合い、意思に反してほんのりと頬が染まる。
「……そ、それにこの歌、懐かしいです。小学校の時に習いました」
それを聞いた孝太郎は一旦唄うのを止める。
「優しいなぁ真里菜ちゃ~ん! この曲、俺の十八番の一曲なんだよ~ん!」
おどけた声が車内に響く。先ほどまでの真面目さはどこへやら、だ。
赤信号で停まった時にさすがに裄人が心配そうに後ろを振り返る。
「孝太郎、大丈夫か? お前、今日は少しおかしいぞ?」
「そりゃあ浮かれもするさ。何せ今日はめでたい日だからなぁ」
「めでたい? お前の誕生日ついこの間だったよな?」
「俺じゃなくてお前だよ、お・ま・え」
「俺?」
信号が青に変わり、裄人は前に向き直る。
ルームミラーに再び映ったその表情は戸惑っているようだ。
そろそろ本気で退散しようと決めた孝太郎は、運転席のヘッドレストに手をかけて座席から身を起こした。
「裄人、停めてくれ。俺、ここで降りるわ」
「ここでか? まだもう少し先だろ、お前の家」
「少し夜風に当たって帰りたいんだ。お前の言う通り、ちょいと酔っ払いすぎた」
「……おい大丈夫か? だからアパートまで送るって。明日の新聞の見出しにお前の名が載るなんて羽目になったら困る」
「この季節なら行き倒れたって凍死しないって」
「そういう問題じゃないだろ」
「それにもしかしたらカワイイ女の子が見かねて介抱してくれちゃって、そこから恋の華咲く展開になるかもしれないしさぁ」
暢気な孝太郎のその言い草に、ますます裄人は態度を硬化させる。
「凍死しなくたって道端で寝込んで車にでも轢かれたらどうするんだよ。雨も降りそうだし、いいから乗ってろって」
孝太郎は少しの間沈黙した。やがてポツリと呟く。
「…………バカだなぁ」
ギアを切り替えながら裄人は呆れた口調で応酬する。
「バカはお前だよ。ったく酔っ払いと真面目な会話するだけムダだな」
「ハハッそういう事だ」
真里菜は助手席で身動きもほとんどせず、今の二人の会話を黙って聞いていた。
そして何かを考えるように膝元に視線を落としている。
「……なぁ裄人」
窓枠のわずかなスペースに肘を乗せ、孝太郎はウィンドウ越しに夜空を見上げた。
淡く、白い満月が静かに追ってきている。
「なんだ?」
「お前はもう少し自分の事を一番に考えるクセをつけろよ」
「どういう意味だよそれ?」
「そのままの意味だ」
「意味が分からないよ」
「……ま、いいや。それがお前のいいところだ」
再び夜空を見上げると、霞む月をが孝太郎の中にある古い記憶を手繰り寄せてくる。
幼い頃に見ていた童謡番組でよく流れていた「月の沙漠」のワンシーンだ。
金銀の鞍に揃いの白装束の衣装をつけた王子と姫。
二人を乗せた二頭の駱駝が月下の沙漠を渡ってゆく。
そのシルエットが子供心にとても幻想的で、今でもこうして記憶の中に残り続けていた。
確かに時代も情景もまったく違う。
前にいる二人が身を預けている乗り物は駱駝ではないし、あのシーンのように、紺碧の夜空に朧月のみがぽっかりと浮かぶ光景はネオンが溢れるここでは拝めない。
だが。
視線を前部座席に移す。
アイボリーの細めのシャツを着ている裄人に同じ色のサマーワンピースを着ている真里菜。
その並んだ後姿が、今の孝太郎には月の沙漠の情景と重なって見えていた。
── どうかこいつらがあの王子とお姫さんになるように──
窓枠にもたれて頬杖をつき、孝太郎は「月の沙漠」を四番から唄いだす。
酔いは醒め始めてきていた。
だが酔ったふりを続けながら孝太郎は朗々と唄う。
どうか親友のこの恋が上手くいくように。
丸い月がじんわりと滲む夜空を眺めながら孝太郎は強く思う。
後部座席から流れるそんな密かな願いをこめた曲は、再び車内を静かに満たしていった。