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波紋と思い出


 ── このお湯の中に身体がすべて溶けてしまえばいいのに──



 そうすればこの苦しさから開放される。

 暖かいお湯に喉元まで浸かりながら桃乃は痛切に思った。



「もうっなんでお姉ちゃんが先に入っちゃってるのよー! あたしが一番のはずだったのにぃー!」



 バスルームの外で葉月が騒いでいる。

 それを千鶴がなだめている声がバスルーム内にもかすかに聞こえてきていた。

 葉月には申し訳ないが、順番を差し置いてでも強引にバスルームに飛び込んだのは、泣いてしまったことを家族に知られないためだった。

 入った時はまだ七分目程度だった湯張りも終了し、足元でゴボゴボとうるさかったバスタブが急に沈黙する。



 ゆらゆらとかすかに揺れる湯面。

 シンと静まったバスタブの中で、桃乃はぼんやりとそれを眺めた。


 静寂が一秒間だけ乱れる。


 かすかな水音と共に波紋が一つ、ゆっくりと広がった。

 光の無い瞳で音がした方向に目を向ける。

 それは蛇口から少しずつ漏れ出した水滴が、一粒の雫となって落ちた音だった。



 ゆっくりとだが休む間もなく、蛇口は次の波紋を作るための水滴を生産し始めている。

 伸びるように少しずつ膨らんでゆく水滴。

 やがてそれは涙型の雫になり、重力の法則に習って再び落下する。

 


 再び小さな水音。


 滴り落ちる水滴が作る二つ目の波紋は、桃乃のすぐ側にまで押し寄せてくる。

 三つ目の波紋。

 四つ目の波紋。

 それは飽きる事無く、繰り返される。

 広がりつつ輪を描く、水の紋様をいくつ眺め続けただろう。

 いつしかその水音は、現在から過去へと、冬馬との思い出を回想してゆくきっかけになっていた。






 ── ピチャン。



( 桃乃は浴衣が似合うよなぁ  っつーか、なんでも似合うと思うけどさ )



 昨夜、牟部神社の七夕祭りに行く途中に言われた言葉。

 嬉しそうに言われ、返す言葉が見つからなかった。

 星の子幼稚園で冬馬が天の川に向けた願い事。

 あの緑色の短冊が風に揺れていたのを見たのはつい昨日のことなのに。


 




 ── ピチャン。



( 俺さ 本当は何となく分かってたんだ 桃乃が兄貴の事を好きだったことさ )



 そう、冬馬は知っていた。

 知っていながらも、ずっと、ずっと、私を想い続けていてくれた。

 私が裄兄ィを好きだった頃、冬馬はその間一体どんな気持ちでいたんだろう──。

 そう考えるだけで、辛くて、苦しくて、切なくて、また泣きたくなる。






 ── ピチャン。



( あぁこれか? バスケの練習でキャプテンにめっちゃしごかれてさ。でも全然大したことないよ )



 優しい嘘だった。

 傷だらけの両手を見て、私が心を痛めないようにするためについた嘘。

 そしてこの時つかれた嘘で勝手に決めつけてしまっていた。

 “ 冬馬が嘘をつく時は、他の誰かを守る時なんだ ”と──。






 ── ピチャン。



( ずっとずっとずっと昔から好きだったんだ お前だけを見てた )



 いきなりの冬馬からの告白。

 “ 幼馴染 ” という枠を超えて、一人の異性として意識し出したあの夜。

 背だけではなく、腕や胸、肩幅、筋力。

 部活の途中で早退した冬馬の体から発せられる汗の匂い。

 抱きしめられた時、冬馬の体と自分の体の歴然とした違いに初めて気付いたのがこの時だった。


 ずっとずっと好きだったって言ってくれたのに──。

 

 またあの目には見えない黒い濁流が、心の中で轟音をとどろかす。

 





 ── ピチャン。



( なぁ桃太郎 お前なに朝からそんなに浮かれているわけ? )



 つい最近まで呼ばれていたこの仇名。

 理由を知るまでは嫌で嫌でしょうがなかった。

 でも、“ たぶんあいつの一種の照れ隠しなんだと思うよ ” と裄人から教えられた今では、逆に愛おしささえ感じていたのに。



 そして回想は一気に小学生時代への過去へと飛ぶ。

 初めて “ 桃乃 ” と名前を呼び捨てにされた、あの日へと。



( いいからつけてろって! 桃乃、それと俺の事を冬馬ちゃんって呼ぶのはもう止めろよな! )



 小学四年の時に参加した屋外授業、野外星空観察 。

 この日以降、冬馬は桃乃を呼び捨てにするようになり、桃乃が「冬馬ちゃん」と呼ぶと聞こえていないふりをするようになった。

 星空観察の夜のことを思い出したせいで、この当時に体験したもう一つのある記憶が、ぼんやりと整理しがたい形で心の奥に留まっていることに気付く。



 ── この不思議な記憶は一体なんの記憶だろう……?



 桃乃は考えた。

 そしてその記憶を呼び覚ます手助けをしてくれたのは、蛇口からしたたり落ちる何度目かの水音だった。






 ── ピチャン。




( ……お前だよ! )




 幼い冬馬の叫ぶような声。



 ── 思い出した。



 あれは星空観察の後、すぐに行われた社会科見学。

 某菓子メーカーの製造工場へ行った帰りのバスでのことだ。



 暖房がほどよく効いたバスの中は児童らのはしゃぐ声で一杯だった。

 その中でも特に騒がしかったのが、一番後部の座席一列を占めている男子グループで、その中には冬馬がいた。

 始めはふざけあって爆笑を繰り返していた彼らだったが、いつのまにか話題は、

「好きな女子は誰か」

 の一大告白合戦へと切り替わっていく。


 別クラスに好きな女子がいる男子は意中の名前をあっさりと告白し、クラス内に好きな女子がいる男子は、小声、もしくは耳打ちで仲間に順送りで伝える。その度に後部座席からは「それマジかよー!」などと盛り上がる歓声が湧いていた。


 しかし先ほどまで一緒に騒いでいた冬馬は、この話題になった途端に口をつぐんだ。


「冬馬、お前は?」

「好きな奴いないのかよ?」

 と仲間にいくら催促されてもそっぽを向き、とうとう最後まで一言も発しなかった。

 桃乃はこのグループの少し前の席に座っていたので、彼らのこのやり取りは聞こうとしなくてもすべて耳に届いていた。



 社会見学を終え、バスを降りて家路についていた桃乃を冬馬が追いかけてくる。



「桃乃ー!」

 この日はかなりの冷え込みだった。

 冬馬が吐いた息は真っ白に染まり、後方へと流れた後、空へ向かって霧散する。

「あ、冬馬ちゃん」

 振り返った後、またうっかりとそう呼んでしまった桃乃は慌てて口に手を当てたがもう遅い。

 冬馬は途端にムスッとした表情になる。


「……一緒に帰ろうぜ」


 まだ不機嫌な表情を残したままで冬馬は言った。

「う、うん」

 この頃はほぼ同じ背丈だった二人は並んで歩き出す。

 歩き出してすぐに冬馬は手に持っていた袋を桃乃に差し出した。

「ほら、これやるよ。桃乃、これ好きだよな?」

 それは見学の最後に全児童に配られたお土産袋で、中には工場で直生産されたホワイトクッキーが詰められていた。

 このクッキーを冬馬も好きなことを知っていた桃乃は遠慮して首を横に振る。

「いいよ、私も貰ったんだから」

「いいからやるって」

「ううん、いいってば」


 せっかくの好意を断られ、冬馬は渋々と手にした袋を下ろす。

 二人の間に少々気まずい空気が流れ、桃乃は急いで話題を変えた。


「きょ、今日の工場見学面白かったよね?」

「……まーな」

「ほら、このホワイトクッキーの一つ一つに機械で袋をかぶせるところなんか見ていて飽きなかったよ、私」

「俺それ見てないぞ?」

「だって冬馬ちゃ……とっ冬馬のグループって、ちゃんと決められたルート通りに進まないであちこちに勝手に移動してたでしょ? だからだよ」 

「勝手に行動してたんじゃないって。探検してたんだよ、探検!」

 十歳の冬馬は誇らしげに胸を張る。物は言いようだ。

「でもすぐにいなくなるから先生、困ってたよ? さっきの帰りのバスの中だって一番うるさかったから何回も注意されてたじゃない」


 バスの話題が出て冬馬の表情が変わった。


「……桃乃、お前、帰りのバスは俺らの近くに座ってたよな?」

「うん」

「俺らの話、聞いてたのか?」

 いつの間にか冬馬の表情が幼いながらも真剣なものになっている。

「聞いてたっていうより聞こえてきちゃうの。すっごく大きな声で騒いでるんだもん」

「最後の話は聞いてたか?」

「最後の話って?」

「……誰が好きかって話さ」

「聞いてたけど……でも冬馬は言ってなかったよね?」

「あぁ」

「どうして?」

 その問いに冬馬の表情が一気に固くなる。

 両の拳がぐっと握られた事に桃乃は気付かなかった。

「……本当に分かんないのかよ!?」

 そう呟く冬馬の声が熱を帯びていた。



 ── あまりにも無神経だったと今では思う。



 それはまだ何も自覚していなかったからこそ聞けた、あまりにも無邪気で、そして残酷な問いだった。


「うん、分かんない。誰なの?」


 幼かった桃乃は気軽に尋ねた。

 そう声に出した時、大きく白い息が舞い上がり、冬馬の表情が一瞬見えなくなる。

 その白い水蒸気の壁が冬の大気に溶けこんで完全に消えた時、



「……お前だよっ!」



 冬馬は吐き捨てるように言った。

 目に宿る強い光。何事にも臆さない純粋な光。

 冬馬から発するそれに、桃乃は正面から捉えられた。

 え、と口が開きかけた時、胸元に土産袋が強引に押し付けられる。

 寒風が吹きすさぶ中、手袋もつけずに菓子袋を持ったままだった冬馬の手はひんやりと冷え切っていた。


「やるっ!」


 そう言い放つと冬馬はその場に桃乃を残し、走り去ってしまった。

 どんどんと小さくなってゆく冬馬の背中。もう追いかけても追いつけそうになかった。

 押し付けられ、反射的に受け取った袋がカサリと音を立てて我に返る。

 ようやく桃乃は自分が冬馬から告白されたことに気がついた。

 冬馬に好かれていたことにまったく気付いていなかった桃乃にとって、それは思っても見なかった事だった。


 仲の良い幼馴染。


 冬馬との関係はただそれだけだと思っていた。

 鉛色の空から綿毛のような雪が降リ始める。

 黒髪に白い綿毛を少しずつ積もらせ佇みながら、十歳の幼い桃乃は悩んだ。

 


( だって私が好きなのは…… )



 その後に来る名前は冬馬では無い。

 しかもその人物は冬馬の五歳上の兄。

 明日、冬馬になんて言えばいいんだろうと小さな胸を痛めながら桃乃は一人、家路を辿った。



 しかしそんな憂鬱な気持ちはまったくの杞憂で終わる。


 次の日に顔を合わせた冬馬は、いつものように「おーすっ!」と明るく挨拶をし、前日に告白をしたことなどまるで無かったかのような態度だった。桃乃の返事を尋ねてくることもなく、そしてそれ以降、二度と告白してくる事も無かった。

 中学に入ってからは “ 桃太郎 ” と呼ばれ出した事もあって、冬馬が自分の事を好きだったのは小学生のあの時期だけだと桃乃は思っていたのだ。



 でも実際は違った。


 グリーン・スケッチで冬馬が語った自分の胸の内。

 あの社会科見学日の告白からではなく、初めて出会った時から今までずっと、冬馬が見ていたのは桃乃だけだった。

 その事が嬉しくて、だけど裏切られた今は同じくらいの悲しみも生み出している。



 桃乃は身を乗り出し、ずれていた混合水栓のハンドルを “ 止 ” の位置にきっちりと合わせた。

 水滴が止まる。そして回想も止まる。

 両手をくぼませてそっとお湯をすくった。

 手の中で揺れる小さな水面を見つめる。



 ── きっとバチが当たったんだ



 冬馬はこんなに想ってくれていたのに、それにまったく気付かなくて、

 たくさん優しくしてくれたのに、そのありがたさなどつい最近まで微塵も分かっていなかった。

 きっとこれは、今まで冬馬を何度も傷つけてきたことに対する罰なんだ──。



( それでね、今度二人で遊ぼうか、って話にもなったのよ? )



 先ほど自分に対して向けられた、自信に溢れた桜子の言動が甦る。

 あんな綺麗な女の人から誘われれば断る理由なんかきっとない。

 だから冬馬は合コンにも行ったし、あの人と遊ぶ約束もしたんだ──。


 そう考えた桃乃の胸をまた鋭い痛みが襲う。

 その拍子に手が小さく震え、透明なお湯は指の隙間から零れ落ちていった。



 何も無くなった手の中。



 今はわずかに濡れているだけの両の掌。



 好きだと言ってくれた冬馬の想いも、この零れ落ちていったお湯のようにあっという間に消えて無くなっていくのかもしれない──。



 暖かいお湯の中にいるのに心が冷え冷えとしてくるのを感じた桃乃はもう一度お湯をすくった。

 今度はそれを顔にぱしゃりと叩きつける。


 そしてもう一度。


 またもう一度。


 桃乃は何度も何度もそれを繰り返す。

 涙の筋が綺麗に洗い流されるまで。




 ◇ ◆ ◇

  



 長い入浴が終わり、ふくれていた葉月に「ごめんね」とだけ謝ると、桃乃は部屋へと早々に引きこもる。

 窓辺に近づくとカーテンを閉める前に窓を少しだけ開けた。

 先ほどよりほんのわずかだけ涼しくなった夜風が、待ちかねていたように室内に入り込んでくる。


 ちょうどその時、向かいの二階の一室にも明かりがついた。


 向かいの部屋はもうカーテンを閉めていたのでシルエットのみが映る。

 冬馬だ、と思った瞬間、後ろ手でカーテンを勢いよく閉めていた。

 そして同時にライトも消してしまう。


 胸が痛い。

 立っているのが苦しいほどの、ギリギリと締め付けられるような感覚。

 何かから逃れるかのようにベッドにもぐりこむと、薄手の羽毛布団をすっぽりと頭までかぶった。

 やがて水鳥の羽を内包した寝具は徐々に桃乃の体温を吸収し、ほんのりと暖みを増してゆく。



 ここは穏やかで、そして静かだ。

 光の届かない、柔らかい暗闇で手足を抱え込み、胎児のような姿勢でゆっくりと目を閉じる。




 ── 今日のことが全部夢だったらいいのに──

 



 ほんの一時の間だけでもすべてを忘れようと、桃乃は浅い眠りにつく。

 しかし、羽で作られた暖かい場所からかすかに漏れる嗚咽が収まったのは、それから一時間以上も経った後の事だった。





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