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かからない暗示


 ── 嘘……!


 ── そんなの嘘に決まってる……!



 胸の中心で渦巻く、黒い濁流。

 これまでに体験したことの無い、鈍い痛みを伴ったその未知の感情が、桃乃の中で禍々しい黒い渦を生み出している。


 体験したことの無い感情だが、それは良くない感情だと本能で分かった。

 だから自分に暗示をかける。

 心の中で繰り返し続ける。

 まるで何かの呪文のように。



 ── 冬馬が合コンに行ったなんて絶対嘘に決まってる──



 しかし暗示はかからない。

 手の中にある、涙でわずかに濡れたこの生徒手帳がそれを許そうとはしない。

 このまま家に逃げ帰ってしまいたかった。

 しかしその前にやらなければいけないことがある。

 桃乃は胸の前に抱えていたカゴの柄を強く握り締めた。この感情に呑み込まれないように。


 西脇家の門を開け、玄関先に立つ。

 オレンジのライトを背にひっそりと佇む、玄関先にある買ってきたばかりらしい小さな観葉植物の鉢植え。そのすぐ横でさざ波立つ気持ちを何とか抑えながら、桃乃はインターフォンを押した。


「はい?」


 声の主は麻知子だ。

 冬馬ではなかったことに安堵しながら、「夜分遅くにすみません」と挨拶をする。

「あら桃乃ちゃんね!? ちょっと待ってて!」

 声で桃乃とすぐに分かった麻知子が玄関のドアを開けて出迎えてくれた。



( どうか、冬馬が気付いて出てきませんように……! )



 つい先ほどとはまったく逆の事を願っている。

 そんな自分に気付き、その事実に胸が潰れそうに痛んだ。

 早く、早く家に帰りたい──。

 そう必死に願いながら桃乃はカゴを差し出す。



「あ、あの、これ、お婆ちゃんの家の庭で取れたサクランボなんです。とっても甘いのでお裾分けしようと思って持ってきました」

「まぁ、ピカピカして美味しそうね! どうもありがとう!」

 麻知子は「千鶴ちゃんにも明日お礼言いにいかなくっちゃね」と言い足し、桃乃からカゴを受け取った。

 そして今は自分の息子の彼女でもある桃乃を、家の中に招こうと熱心に誘い出す。

「ね、桃乃ちゃん、頂き物なんだけどとっても美味しいお菓子があるの。よかったら上がって食べていかない?」

「い、いえ、もう遅いですから……!」


 冬馬と顔を会わせたくない桃乃は必死に断った。

 しかしそんな気持ちなど麻知子は知る由もない。ニコッと笑うと腰に手を当て、暢気に言う。


「あら遠慮しないでいいのよ、ウチは全然構わないんだから! それに冬馬もさっきまでどこかに出かけていたみたいだけどもう帰ってきてるしね」

「えっ……?」



 まるで尖った錐で鳩尾を垂直に突かれたような。



 そんなえぐるような鋭い痛みが体を貫く。

 やはり冬馬が合コンに行ったのは事実だった──。



 聞きたくなかった。

 知りたくなかった事実に体が小刻みに震えてきそうになる。

 これ以上喋るとまた涙が溢れてきそうだった。

 下唇を小さく噛み締め、桃乃は深く俯く。



「桃乃ちゃん……? どうかした?」


 桃乃の様子がおかしいことにやっと麻知子が気付く。

「なんでもありません」とだけ答えると、桃乃は冬馬の生徒手帳を差し出した。


「……それとこれ、冬馬に渡して下さい」


 喉の奥から押し出すように声を出す。無理をして出したその声はボイスチェンジャーを通した他人の声のように聞こえた。

「あら、これ冬馬の手帳なの?」

「はい……」

 桃乃を元気付けるためか、麻知子は殊更に明るい調子で言う。

「やぁね、冬馬ったら! 桃乃ちゃんのお家にお邪魔した時に忘れてきちゃったのね? ごめんね、そそっかしい息子で!」

「い、いいえ違います……」

 桃乃は落ち込んだ表情でさらに目線を足元にまで落とした。

 明らかにおかしい桃乃の様子に、どちらかというと短絡的な思考の麻知子は一つの最悪な結論を導き出す。



( まっまさか冬馬、桃乃ちゃんに無理やり乱暴したんじゃ……? )


 

 これは息子に確かめてみなければならない。

 二階に向けて大声が飛ぶ。


「冬馬っ! 桃乃ちゃんが来てるわよっ!」


 真知子のいきなりのこの行動に桃乃は息を呑んだ。弾かれたように顔を上げる。

「わ、私これで失礼します!」

「あ! ちょっと待って桃乃ちゃん!」

 焦った麻知子が呼び止める。

 しかし桃乃は身を翻すとドアを開けて逃げるように外に出ていってしまった。

 同時に二階からダダダダとすごい勢いで階段を踏み鳴らす音が聞こえてくる。


「冬馬っ!」


 一階に駆け下りてきた冬馬に、麻知子は語気荒く詰め寄った。

「あんたはなんて事をしでかしてくれたのよ! 母さんこの間言ったでしょ!? いい娘だから大切にしなさいって! 何やってんのよ、このバカ息子っ!!」

「なっ、なんのことだよ!?」

 今にも自分の胸倉を掴み上げそうな勢いで詰め寄る母親に冬馬は唖然としている。

「あんた、桃乃ちゃんを襲ったんでしょっ!?」

「いぃっ!?」


 麻知子のこの発言に冬馬は度肝を抜かれたようだ。


「おっ、襲ってねぇよ!」

「だってあんたを呼んだら桃乃ちゃん、逃げるように帰っちゃったわよ!?」

「桃乃が? なんでだよ?」

「そんなの母さんに分かるわけないでしょ! いいからとにかく桃乃ちゃんを追いなさい! そして謝んなさい! ほら早くっ!」

「わ、分かった!」


 麻知子に急かされ状況がよく分からないながらも、スニーカーの踵を踏んだままで冬馬は玄関から飛び出した。

 外に出た冬馬の視界に、自宅の玄関までの階段を昇り切った桃乃の後ろ姿が映る。



「桃乃っ!」


 夜空の下に冬馬の声が響き、その呼び声で落雷にあったかのように桃乃はビクッと体を震わせて足を止めた。

 冬馬は自分の家の門に手をつきそれを軽々と飛び越えると、倉沢家の門も同じように飛び越える。



「そこから先に来ないでっ!」



 玄関までの数段の階段を上がろうとした冬馬を、振り返った桃乃が激しく拒絶する。

 冬馬は怪訝そうな顔をしたが、とりあえずその場所で足を止めた。

 つま先を地面に叩きつけてスニーカーを履きながら尋ねる。

「どうしたんだ? なんで逃げるんだよ?」

「………」

 桃乃は顔を背け、再び唇を噛む。

 


 ── 信じたい。



 こうやって冬馬の顔を見てしまうとその思いが強く湧き上がってきた。

 そう、何か理由があったのかもしれない。

 一刻も早くあの生徒手帳の呪縛から解き放たれたかった。

 きちんと訳を聞いてみよう。

 苦しさを堪えながらそう決めた桃乃に冬馬は重ねて尋ねてくる。

「なぁ、黙ってちゃ分かんねぇだろ?」



「……冬馬、今日どこに行ってたの?」



 言葉に出したその声は、マイナスの感情を必死に押し留めているせいで、かなり素っ気無いものになっていた。たぶん冬馬の耳にはとてつもなく冷たく聞こえていることだろう。

「今日?」

 冬馬はそう言うと少し考え込んだ。

「いや、別にどこにも行ってないぜ? 家でずっと期末の勉強してた」


「……嘘……ッ!」


 声に感情が戻ってしまった。

 圧縮していた負の感情がこの返事で一気に解凍し、噴出する。

 それは留まるところを知らぬ勢いで体内のあらゆる箇所に次々と溢れ出し、各部位で異常をもたらし始めた。

「嘘言わないでよッ!」

 そう叫んだ後、目の奥がじんと熱くなる。

 


 ── 冬馬、どうして嘘をつくの?


 ── ねぇどうしてそんなに涼しい顔で答えられるの?



 桃乃には分からなかった。

 階段の下から桃乃を見上げた冬馬は「あぁそうだ!」と言いながらあらためて報告し直す。

「悪ィ、嘘だった! そういえばレンタルビデオ店に行ったな」

「…………」

 重ねた嘘の返事に桃乃は完全に黙り込んだ。

 その沈黙が冬馬にはいたたまれなかったようだ。



「……あー、そのー……。なんだ、バレちまってるのか……」



 ついに冬馬は覚悟を決めたようにパシッと両方の掌を合わせる。

「……悪ィ! ちょっとパッケージを手に取ってみたらついつい魔が刺しちまって……。分かった! じゃ観ないからさ! 観ないで返すって! 約束するよ!」

「……何のこと……?」

「ヘ?」

 冬馬はキョトンとした顔で拝んでいた手を離す。

「俺が今日、兄貴の会員証を使ってAVを借りてきたことを見抜いたんじゃないのか?」


「……最低」


 桃乃はそう呟くとフイと横を向き、冬馬は照れ笑いを浮かべる。

「なーんだ、違うのかよ。言わなきゃ良かったなー。な、桃乃、やっぱり観たらダメか?」

 もう一度桃乃が「……最低」と呟いた。

 こう言われっぱなしではさすがに冬馬も面白くない。

「そこまで言うことないじゃん? AVくらい健全な男なら誰だって観てるぜ? 大体さ……!?」


 冬馬はぎょっとしたように驚きで目を見開くと、素っ頓狂な声を上げる。


「もっ、桃乃、お前なんで泣いてるんだよ!? たっ、たかがAVじゃん!?」

 今にもこぼれそうなぐらいの涙を溜めながら桃乃は叫んだ。

「やっぱり冬馬は嘘つきよっ!」




 ── 嘘には二つの種類がある。


 自分を守るためにつく嘘と、他の誰かを守るためにつく嘘。

 冬馬が誕生日の時についた嘘は私を守るための嘘。

 バイトで傷だらけになったあの両手を見て、私が心を痛めないように。

 しかし今ついた嘘は自分を守る嘘だ──。


 桃乃はそう思った。

 



「嘘なんかついてないって! 一体俺がなんの嘘をついてるっていうんだよ!?」

 不可解な桃乃の態度に冬馬の声にも苛立ちが出始めてきていた。

 一方、桃乃はもう自分の感情を抑えられない。

 冬馬に向けて止めの言葉を放つ。



「今日冬馬は合コンに行ってきたんでしょ!? 私知ってるのよっ!」



「合コン?」

 冬馬は鸚鵡返しにそう答えた。

 が、その顔にわずかだが一瞬驚きの色が走る。

 単純な性格の冬馬だからこそ分かる、その小さな動揺。

 それを幼馴染の桃乃が見逃すわけは無かった。

 こぼれ落ちそうな涙を抑えるために一度軽く息を吸った後、すべての感情をこの言葉に込め、最後に撃ち放つ。

 


「冬馬なんか大っ嫌い!」



「まっ、待てって!」

 慌てた声が桃乃を必死で引き止めようとする。

「落ち着け桃乃! お前何か誤解してるって! 冷静に話し合おうぜ!?」

 冬馬が階段に足をかけたのを見て、桃乃は大きく後ずさり、玄関の扉に手をかける。

「いい! 冬馬の言い訳なんて聞きたくない!」

「おい! だから待てって桃乃! 話を聞けって!」

「嫌ッ!」



 必死に引き止める言葉を振り切り、桃乃は家の中に逃げ込んだ。

 扉を閉めて中に入った瞬間、堰を切ったようにこらえていた涙が溢れてくる。



( 冬馬なんか……冬馬なんか……!)



 このままだと嗚咽まで漏れてきそうで、涙を拭い廊下を駆け抜けた桃乃は、そのままバスルームの中へと飛び込んでいった。




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