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濡れた生徒手帳


 牟部神社の七夕祭りから一夜明けた日曜日。

 時刻はもうすぐ午後十時になろうとしているが、夜だというのに外の空気は依然蒸し暑い。


 母方の祖父の七回忌に列席した桃乃は、家族と一緒にようやく我が家へと戻ってきた。

 長距離の運転を往復一人でし終えた雅治は疲労困憊、といった様子だ。


「今日は疲れたな……」


 声にまで疲れが滲み出ている。そんな雅治に、「お疲れ様。お風呂にゆっくり浸かって疲れを取ってちょうだい」と千鶴がねぎらいの言葉をかけた。

 しかし雅治が「あぁ」と返事をする間もなく、

「あたし、今日はお父さんより先に一番にお風呂入りたーい! 今日すごく暑かったから、汗でベトベトで気持ち悪いの!」

 と葉月が最初の入浴権を主張する。

「いいでしょ、お父さん?」

「あぁいいぞ、もうこんな時間だしな。じゃ先に入りなさい」

 疲れた表情を緩ませて雅治は葉月の頭を撫でた。愛娘の頼みにはとことん弱い父親だ。

「ありがと、お父さん! あ、それともあたしと一緒に入る?」

「そうするか?」

「もうっそんなの冗談に決まってるでしょ! お父さんのエッチー!」

「こら、もう夜も遅いんだからそんな大声を出すんじゃない、葉月」

「だって冗談の通じないお父さんが悪いんだよー!」

 雅治と葉月はそんな賑やかな会話を交わしながら家の中へと入ってゆく。


「ねぇ桃乃?」


 後部座席に半身を乗り入れていた千鶴が車中からを娘を呼んだ。雅治と葉月に続いて家の中に入ろうとしていた桃乃は足を止める。

「なに? お母さん」

「これ麻知ちゃんのお家にもあげようと思うんだけど……」


 車中から出てきた千鶴の手にはカゴが握られている。その中には千鶴の実家の庭にある木にたわわになっていた、取れたての瑞々しいサクランボが光っていた。


「おすそ分け? 今年のお婆ちゃん家のサクランボ美味しかったもんね」

「でしょ? じゃこれ桃乃お願いね」

 千鶴は微笑みながら桃乃の手にカゴを手渡した。

「え、私が持っていくの?」

「あら、だってもしかしたら冬馬くんの顔を見られるかもしれないわよ?」

 千鶴は語尾を上げて楽しげに言う。

「お、お母さん……」

 ほんのりと頬を染めて桃乃は口をつぐんでしまった。

「ふふっ、ごめんね、からかって。でもそれを届けてきてくれない? お母さん急いでお風呂の用意しなくっちゃいけないし」

「……うん、分かった。じゃ届けてくる」

「お願いね」


 カゴを手に、桃乃は向かいの西脇家に向かった。知らず知らずのうちに胸が湧き躍ってくるのを感じる。

 冬馬、一階に下りて来てくれるかな、と思いながら桃乃が低い鉄製の門を押して中に入ろうとすると、突然後ろから若い女の声がかかる。



「あなた、ここの家の子?」



 振り返るとそこには桜子が立っていた。

 白のチューブトップにブライトイエローのパーカーをラフに羽織り、フリンジ裾のデニムパンツを穿きこなしている。しかしスレンダーな体型の為、肌の露出度の割りにあまりセクシーさは感じられない。

「いえ、違いますけど……」

 戸惑いながらも桃乃は答える。

「あ、違うの? でもここのお宅に用事あるんでしょ?」

「はい。これを届けに……」

「ふぅ~ん」

 桜子は桃乃が持っているサクランボをチラッと一瞥する。そして自分のハンドバッグからゴソゴソと何かを取り出した。

「じゃ、悪いんだけどこれも一緒に届けてくれない? 冬馬くんにね」

 桜子がハンドバックから取り出したのは生徒手帳だった。鮮やかな青色のそれは、間違いなくカノンの生徒手帳だ。

「私、今日冬馬くんと合コンしたんだけどさ、冬馬くんからこれ見せてもらった後、そのまま返すの忘れちゃったのよ。ついでだからお願いしてもいいでしょ?」



 一瞬、その意味が理解出来なかった。



 やがて脳細胞が活動を再開し、じわじわと状況を把握し出す。しかしそれでもまだ信じられない桃乃は、逆に桜子に訊き返した。

「合コン…に行ったんですか、冬馬が……?」

「えぇそうよ?」

 桜子はそこで何かに気付いたらしく目を見開いた。


「分かった! あなたが桃乃って子ね?」


「ど、どうして私の名前を知っているんですか?」

 桜子は上目遣いで意味深に笑う。その身にまとう空気には勝者と強者のオーラが強く漂っている。

「あなた冬馬くんの彼女なんでしょ? 冬馬くんから聞いたわ。ねっ、冬馬くんてすっごく可愛いわね~。私いっぺんで気に入っちゃったわ!」


 こんなに蒸し暑い夜なのに、桃乃の首筋に寒気が走った。桜子の話はまだ続く。


「それでね、今度二人で遊ぼうか、って話にもなったのよ?」

「う、嘘よ……」

 桃乃は否定した。しかし否定したその声はかすれている。

「残念だけど嘘じゃないわよ?」

 桜子は青い生徒手帳を、桃乃の目の前で大きくひらひらと揺らした。そして自信満々の様子で言い返す。

「そうそう、冬馬くんと裄人って二人とも十二月に生まれたから、名前にそれぞれ季節にちなんだ字を入れて付けられたんですってね。冬馬くんは “ 冬 ” の字で、裄人の場合は最初はあの字じゃなくて、白雪の “ 雪 ” の字と北斗七星の “ 斗 ” で雪斗って付けられるはずだったって。でも裄人の場合は字画が悪かったから結局今の字になったって、冬馬くんが教えてくれたわよ?」


「……!」


 桃乃はショックで言葉が出てこなかった。

 桜子が今話した、冬馬と裄人の名前の由来は事実なことを知っていたからだ。

 西脇家の門前で凍りつく桃乃に、桜子は最後にわざとこう付け加える。

「あのさ、私は冬馬くんに彼女がいても全然気にしないから! あ、でももしかしてあなたが気にしちゃうかしら? ねぇ、冬馬くんにまたぜひ遊びましょうね、ってちゃんと言っておいてよねっ。じゃ、これ頼むわね!」

 サクランボのカゴの上にカノンの生徒手帳が無造作に置かれる。この事実を直視したくない桃乃は悲しそうな表情で小さく俯き、カゴの上の青い手帳からそっと目を背けた。

「じゃあね!」

 自分の話で表情が曇った桃乃の顔を確認した桜子は満足そうな顔で去って行った。

 桜子が視界から消えると、桃乃はカゴの上の生徒手帳を静かに手に取った。しばらくの間、その表紙をただじっと眺める。


 ── やがて青い手帳の上に小さな雫が一粒落ちた。


 桃乃の頬から流れ落ちた涙の雫は丸い透明な玉になり、生徒手帳の上を転がりだす。

 一粒の雫はやがて手帳の名前欄で止まり、脅えるように小さく揺れた。

 その部分には紛れもなく冬馬独特の少し角張った字で、『 西脇 冬馬 』とはっきり書かれてあるのが涙に濡れる桃乃の瞳に哀しく映っていた。




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