笹に願いを <3>
最初は頬だけの火照りだった。
しかしその熱は急速に桃乃の全身を覆い出す。心臓が痛いくらいに高鳴り始め、桃乃は手にしていた巾着の紐を思わず強く握り締めた。
── わたしはおおきくなったらかわいいおよめさんになりたいです ──
当時五歳の引っ込み思案だった桃乃がお誕生会で話した夢。
それが消え入りそうな声で勇気を振り絞りやっと答えることのできた、ささやかな夢だった。
「で、でもヨーコ先生っ、確か冬馬はお誕生会の時にそんなこと言わなかったです! 確かあの時、“ ロケットのパイロットになりたい ” って……!」
勢い込んでそう断定する桃乃に、曜子は当時の内部事情を分かりやすいようにかいつまんで聞かせる。
「実はそれね、私たちでそう言うように変えさせてしまったんです」
「え?」
「だって皆の前で発表するのは “ おおきくなったらなりたいもの ” だったでしょう? “ 桃乃ちゃんをお嫁さんにしたい ” じゃ、意味合いが少し違ってましたから……」
階段を降りてくる冬馬の足音がまだ聞こえないことを確認し、曜子は続きを話す。
「でもね、この件はその後私たちの中で行われた反省会で随分議論になったんです。将来の夢を語るという意味合いが少しずれてたからと言って、私たち大人が勝手に冬馬くんの意見を修正させたのは間違いだったのではなかったのかとね……。あの当時の冬馬くんには申し訳ないことをしてしまいました。幼いながらもあの時の冬馬くんは自分の発言を変えられる事に最後まで納得していないようでしたから……。だから今夜桃乃ちゃんにこの事を話せて本当に良かったです」
── 先ほど頬から始まり、体の表面をくまなく覆った熱が更に体内で温度を上げる。
内から湧き出る衝動をもう抑え切れなかった。
「あのっヨーコ先生っ!」
「はい?」
「やっぱり私にも短冊下さい!」
「えぇどうぞ、どうぞ」
曜子はここまでの展開をすべて見通していたかのように、老眼鏡の奥の目を糸のように細めた。
「でもそろそろ足止めも限界でしょうから、急いで書いておしまいなさいね」
「はい!」
曜子に促され、箱から橙色の短冊を一枚貰い、急いで願い事を書きつける。
再び園庭に出ると笹竹に向かって精一杯両手を伸ばし、できるだけ緑色の短冊の側に近くなるよう、その近くの枝に橙色の短冊を吊るした。
急いでホールに戻った時、二階へ続く階段の奥から駆け下りてくる足音が聞こえる。
「なぁ先生ー!」
冬馬が不思議そうな顔で蛍光灯を片手に二階から降りてきた。
「蛍光灯切れてるとこってどこだよ? 二階の廊下、全部ちゃんと点いたぜ? 他の場所かと思って教室とかトイレまで見たけど、そっちも全部点いたしさ」
「あらあら、じゃあ私の勘違いかしら? 嫌ですね、年を取るとなんでも忘れっぽくなって。じゃあそれは仕舞ってきましょう」
「おいおい先生、しっかりしてくれよ?」
「ふふっ、そうね。まだ呆けるにはちょっと早すぎるものね。冬馬くん、どうもありがとう。ご足労をかけてしまったわね」
冬馬から未使用の蛍光灯を受け取り、曜子は事務局の部屋へと入っていく。その小さな背中を見つめながら桃乃は曜子の計らいに感謝した。
(きっとヨーコ先生は私に今の話を聞かせるために、切れていない蛍光灯を冬馬に取り替えに行かせたんだ……)
桃乃は冬馬をそっと見上げる。そして囁くような声で言った。
「……冬馬、帰ろうか?」
「ん? あぁそうだな。なんだかんだで結構時間経っちまったな。そろそろ帰るか。じゃ、先生! 俺らそろそろ帰るわ。短冊サンキュー!」
「いえいえどういたしまして。またいつでも顔を見せにいらっしゃいね。待ってますよ」
「はい。ありがとうございました、ヨーコ先生」
園の笹竹は柵越しに伸びて歩道にはみ出していた。その笹の葉が揺れ合う音と曜子に見送られ、二人は星の子幼稚園を後にする。
「……しかしヨーコ先生も年取ったよなー。俺、地味にショックだったよ。なんか月日の無常さを感じるよな」
月明かりの道を並んで歩き出してまもなく、冬馬はやるせなさそうな声でそう呟いた。
「ん……」
桃乃はそれだけ答えると冬馬の手に自分の手を絡ませる。
すると電池が切れた玩具のようにピタリと冬馬の足が止まった。
「どうしたの、冬馬?」
「い、いや、桃乃の方から手を握ってきたの初めてだったからちょっとビビッた」
そう答え、片手で口を覆った冬馬の顔は青い月明かりの下でわずかに動揺しているようにみえる。
桃乃は握り締めた大きな手をさらに精一杯の力でギュッと握る。
「冬馬、大好きだよ」
この告白にますます冬馬の動揺は大きくなる。
かすかに開いていた指の隙間から本音がこぼれ落ちた。
「……マジですっげぇ嬉しい……」
感動で周囲がまったく見えなくなった冬馬は住宅街の通りでいきなり桃乃を抱き寄せる。
「冬馬、人が……」
見てる、と桃乃は言おうとしたが、夜遅くの住宅街のこの路地に二人以外の人影はいなかった。
もしかするとどこかの家の中から見られているかも、という考えも脳裏をよぎったが、感情が昂ぶっている今、そんなことはとても瑣末なことに思えた。
桃乃は目を閉じ、素直に身を預ける。
その胸の中を冬馬への想いで一杯にして──。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
── 二人が住宅街の一角で唇を重ねている頃、曜子は再び園庭に出て笹竹を見上げていた。
「お式には私も呼んでもらえるかしら……?」
そう呟く老眼鏡の奥の目が柔和な色を帯びている。
もう一度曜子は笹竹につけられた緑と橙色の短冊を見上げた。
【 桃乃を嫁さんにできますように 】
【 冬馬のお嫁さんになれますように 】
夜空を流れる天の川に向けて願いをこめた二つの短冊は、夏の夜風に吹かれていつまでも仲良くひらひらと揺れ続けていた。