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オレンジのクロスバイク 【前編】



 カノン登校二日目の朝は昨日よりさらに快晴だった。

 桃乃は一通りの身支度を済ませるとバッグを持って一階へと下りる。


「おはよう 桃乃」

 

 フリルのついたエプロンを身につけた母の千鶴が、サラダボウルをテーブルの中央に置きながら桃乃に声をかける。その少女趣味的なエプロンは夫、雅治の好みだ。


「おはよう、お母さん。ね、お父さんなんであんなところに寝ているの?」  


 桃乃は父のいる場所をそっと指差した。雅治はリビングのソファーに横たわり、手足を縮めてぐっすりと眠り込んでいる。


「お父さんね、明け方に帰ってきたばかりなのよ。今仕事がすごく立てこんでいるみたい。だから今は少し寝かせてあげて」


 桃乃は眠りこけている父の姿をもう一度見る。

 髪はくしゃくしゃで髭も少し伸びはじめていたが普段は滅多に外さない、その眼鏡を外した父の寝顔見るのは久しぶりだった。


「ねぇお母さん、お父さんて眼鏡外すとちょっとカッコイイんじゃない?」

「あらなに言ってるの、お父さんは眼鏡かけてても充分カッコイイわよ」

「あーはいはい、そうでした……」  


 学生時代、大恋愛の末に結婚した雅治と千鶴は今でも超がつくぐらいのおしどり夫婦だ。

 朝から親のノロケを聞かされた桃乃は少々げんなりしながらロールパンを一口頬張る。オーブンで焼き上げたばかりの熱々のパンは中はしっとりとしていてとても香ばしく、思わず頬が緩んだ。


「ん~! やっぱり焼きたてのパンって美味しい!」

「はいこっちもどうぞ」

 

 絶妙のタイミングでベーコンエッグの皿が桃乃の前に置かれる。ベーコンはたった今までフライパンから与えられていた熱でまだパチパチと弾ける音がしている。


「サラダもちゃんと食べるのよ?」

「分かってる。もう子供じゃないんだからいちいちそんなこと言わないで」

「フフッ、そうだったわね。桃乃は子供なんだけど実はもう子供じゃないのよね」

「……お母さん昨日からなんかヘンだよ?」

「気にしない気にしないっ。お母さんのひとり言よひとり言っ」

 

 千鶴はそう歌うように口ずさむと、次に起きてくる葉月用のベーコンエッグを作りにキッチンへと戻っていった。


( 今日は少し早く出なくっちゃ…… )  


 桃乃はサラダを食べながら壁掛け時計を見る。家を早く出るのはもちろん玄関先で冬馬とかち合わないためだ。やがて二階からバタバタと騒々しい足音が聞こえてくる。


「あら葉月ね……。もう、お父さんが起きちゃうわ」

 

 下の娘をたしなめようと千鶴がキッチンから急いで出てきたが、一瞬早くリビングの扉がバタンと大きな音と共に勢いよく開く。


「おっはよう~!」

 

 いつものように元気よく朝の挨拶をしながらリビングに入ってきた葉月だったが、母と姉が自分の方を見て唇に人差し指を立てているのを見ると不思議そうに首をかしげた。


「……どうしたの? お母さんもお姉ちゃんも」

「葉月、今お父さんが寝ているのよ。だから静かにしてね」

「え? あ~ホントだ。お父さん、今日朝帰りしちゃったんだねっ」

「ちょっと言葉の使い方が違うような気がするけど……」

 

 千鶴は笑いながら葉月の席の椅子を軽く引く。


「さ、早くゴハン食べなさい」

「はーい」  


 今の葉月が出した騒音にも雅治はほんの少し体を動かしただけで相変わらずグッスリと眠っていた。よほど疲れているらしい。

 桃乃は最後のロールパンの切れ端を食べ終わるとさっさと席を立った。


「あれお姉ちゃんもう行くの? 今日は昨日より早いんじゃない?」

「そうね、今日学校で何かあるの?」

「ん、ちょっと用事があるから……」  


 桃乃は食べ終わった食器を台所に下げながら母と妹に適当な返事をし、洗面台に向かった。もう一度歯を磨き、唇に保湿タイプのリップクリームを薄く塗って玄関へと急ぐ。その途中でもう一度リビングに顔を出し、千鶴と葉月に小声で「行ってきます」と声をかけた。

  

「行ってらっしゃい」

「お姉ちゃん行ってらっしゃーい」  


 玄関から一歩外に出た桃乃は、急いで向かいの「西脇」と表札のかかっている家に目をやる。  

 西脇家の玄関付近に冬馬の姿が無いことを確認した桃乃は安心して早足で駅へと急いだ。

 駅に着き、腕時計を見る。このままだと学校に着いてもだいぶ時間が余りそうだった。一時限目の予習でもしていようかな、と思いながら電車に揺られてカノンへと向かう。



 カノンのある谷内崎駅へ着く。

 電車を降り、桃乃はスクールゾーンを歩き出した。

 周りは緑に囲まれ小高い丘まで続くこの道は人通りが少ない。朝早くこの木立の道を歩いているのはほぼカノンの生徒か関係者だといってもいいくらいだ。そして今この道を歩いている生徒は桃乃以外見当たらない。


( う~ん 気持ちいい…… )    


 朝から緑でいっぱいの木々の間を歩くのはとても気持ちがよかった。気のせいか空気までもがおいしく感じられる。鳥のさえずりがたまに聞こえるこの道を時間に余裕のたっぷりある桃乃はゆっくりゆっくりと散歩気分で歩いていた。

 その静かな空気の中、桃乃の後方から何かが回転している金属音のような音が微かに聞こえてきた。

 なんだろう、と思った桃乃が振り返ろうと思ったその瞬間、わざとキキーッと派手な音を鳴らして一台の自転車が桃乃の前に強引に割り込んで止まる。

 その自転車の主を見た桃乃が叫ぶ。


「冬馬!? 」


 オレンジに輝く車体の上にはスクールバッグを背負ってニッと笑う冬馬がいた。


「おい、なんでお前今日も先に行っちまうんだよ。なにかの用事があるみたいよ、っておばさんが言ってたけどさ、用事ってなんなんだよ?」

「別に冬馬には関係ないでしょっ」


(冬馬に会わないようにする用事よっ)と桃乃は心の中で呟く。


「せっかく今日はこれでお前を送っていこうと思ってたのによ」

 

 口を尖らせた冬馬の額にはうっすらと汗が滲んでいた。息も少し弾んでいる。


「そういえば桃太郎は二組なんだってな。今朝おばさんに聞いたぜ」

「だからその名前やめてってば!」

「俺、四組だからな。覚えておけよ?」

「知らないっ! 冬馬が何組でも私には関係ないもん!」  


 自分から完全に顔を背けた桃乃の様子を見た冬馬は、さりげなく話題を変える。


「なぁ、このクロスバイク、カノンに合格したお祝いに買ってもらったんだぜ。見てみ? すげぇカッコイイだろ?」

 

 桃乃は横目で買ったばかりらしいそのピカピカの自転車を眺める。

 確かに冬馬が乗っているこのクロスバイクは安価な量産タイプの自転車よりもデザイン性に優れ、ストレートなハンドルから車体に続くフォルムがとても綺麗な自転車だった。  

 だが、その車体の後ろにはなぜか鮮やかなオレンジ色のボディとはまったく違う銀色の荷台が取り付けてあり、そこに少々ちぐはぐさを感じる。


「その荷台、ついてないほうがいいんじゃない? 自転車の色と合ってなくて何かヘン」

「これは後からつけ足したからな。カッコはちょっと悪くなっちまったけど必要だから仕方ねぇよ」

 

 冬馬は「ほら」と言うとその荷台にポンと片手を置く。


「え?」

「早く乗れよ」

「イ、イヤよ! なんで私が冬馬の自転車の後ろに乗らなきゃいけないのよっ」

「いいから乗れって。これ快適過ぎてさ、全然トレーニングにならねぇんだよ。後ろに五十キロの重り乗せたら少しはトレーニングになるからさ」

「なっ……、誰が五十キロよっ!」  

「桃太郎、五十キロないの?」

「ないわよっ!」

 

 桃乃は正面の幼馴染に向かって怒鳴る。


「ふぅ~ん……」

 

 クロスバイクに乗ったままでそう呟くと、冬馬の視線は桃乃の頭のてっぺんからつま先まで何度も往復をしはじめる。


「ちょっと、そんなにジロジロ見ないでよ……!」

 

 上から無遠慮に自分の体をつぶさに眺められて桃乃の両頬が赤らむ。

 恥ずかしさでいたたまれなくなった桃乃はクロスバイクの横を擦りぬけて先へ行こうとしたが、すかさずその細い左腕を冬馬がガシッと掴んだ。


「い、痛いってば! 離してよ冬馬!」

「いいから後ろに乗れって」  


 冬馬は桃乃の腕を掴んだままで続ける。


「……乗るまで離さねぇぞ?」  


 キッと顔を上げて桃乃は冬馬を睨んだが、自分以上に冬馬の目が真剣だったため、やがて桃乃の目から抵抗を示す強い光がゆっくりと消えてゆく。


「の、乗ればいいんでしょ、乗れば」

「あぁ」

 

 渋々と桃乃は後ろの荷台に横座りをして腰をかける。しかし冬馬はまだペダルに足をかけずに肩越しに桃乃を見た。


「ほらちゃんとつかまれよ」

「つかまるってどこに?」

「ここに決まってんだろ」と冬馬は自分の腰を軽く叩く。

「イ、イヤよっ」


 再び自分の頬がほんのりと少し熱を帯びてきたことを感じた桃乃は冬馬から視線を逸らした。


「ここから坂道なんだぞ。つかまってねぇと危ねぇだろ」

「だっ、だってバッグあるもんっ」

「ちょっと貸せ」  

 冬馬は桃乃のスクールバッグを取り上げるとそれを左のハンドルと一緒に握った。

「ほらつかまれよ」  


 最早これ以上拒否する理由も思いつかなかった。

 仕方なく桃乃は冬馬の体に遠慮がちに手を伸ばしそっと掴まる。


「いいか?」      


 その言葉の後、オレンジのクロスバイクは桃乃を乗せて走り出した。

 風がどんどんと横に流れていく。

 前を見ると冬馬の大きな背中と風になびくカノンの青いブレザーが目に入った。

 桃乃はその背中を見上げながら、つい先ほど額に汗を滲ませ息を切らして自分の前に現れた冬馬の様子を思い出す。



( 冬馬……もしかして私に追いつくためにあんなに必死になって飛ばしてきたのかな……? )  



 さっきはこの自転車に乗るのを嫌がったが、そう思うと少しだけ胸に微かな痛みを覚える。


「おっ、やっぱり後ろに重りがあるといいな! ペダルがグンと重くなった!」

 

 桃乃を乗せているだけではなく、上り坂のせいもあって今のペダルは相当重く感じられているはずなのになぜか冬馬の声はとても弾んでいる。


「お、重いなら下りるわよ!」

「いいんだ、それがトレーニングになる!」

 

 冬馬は後ろを振り返り、そう叫ぶとさらにグイグイとペダルを力強く踏みしめる。


「……ヘンな冬馬」

「あ? なにか言ったか?」

「……ううん、別に……」


 浮かれた冬馬が思い切り飛ばすせいで、大して時間もかからずにカノンの正門が見えてきた。


「げっ! またあの先生かよ……」

 

 クロスバイクのペースが突然ガクンと落ち、冬馬はうんざりとした声を出した。  

 桃乃も体をひねって冬馬の影から前方を見る。すると昨日と同じように正門前に緑が立っているのが見えた。昨日は黒だったが今日は淡いピンク系のスーツを着ている。  

 冬馬が正門前で一旦クロスバイクを止めると桃乃は慌てて後ろの荷台から下りた。


「おはよっス」

「お、おはようございます」

「おはよう。あらあらあなた達、二日連続で一緒にご登校ね?」


 その言い方は明らかに裏に何か含むような言い方だった。昨日に引き続いてのそんな態度に我慢できなくなった冬馬が緑に食ってかかる。


「一緒に登校するのが悪いってんですか!?」  

「えぇ今日はね。残念ながらよくないわよ?」

 

 緑はなぜか余裕たっぷりの表情で受け答える。


「なんでだよ! ここの規則がかなりうるさいことは知ってるけどさ、男女が一緒に登校するのを禁止するなんて規則はないはずだ!」

 

 憤る冬馬を眺める緑はフフッと妖艶な笑いを浮かべると、昨日とは違う色のパール系のネイルでトン、と軽く冬馬の胸を突く。


「君、本当に可愛いわね」

「いッ!?」  


 いきなり胸を小突かれて冬馬はおかしな奇声を上げ、桃乃は緑のその行動に驚いて口に手を当てて唖然とした。


「ねぇ西脇くん、自転車は軽車両でしょ。二人乗りは道路交通法上、立派な違反行為なのよ?」

「あっ」

 

 冬馬はそっちの方か、という顔をする。


「今日は見逃してあげるけどもう二人乗りしちゃダメよ。分かった?」

「……うぃっす」

 

 冬馬は仕方無さそうに頭を掻いた。 緑は今度は桃乃の方を見る。


「ね、あなたも “ 乗せて ” なんてもう言っちゃダメよ」

「違います! こいつは悪くないです! 俺が無理やり乗せたんですよ!」

 

 冬馬は慌てて口を挟むと、「ほら」と預かっていたバッグを桃乃に返した。緑は再び冬馬のほうに視線を移す。


「この子を庇ってるの? 西脇くんって優しいのね。私ますますあなたのこと気に入りそう」  

 緑は冬馬の方にグイと左肩を寄せ、それと同じ距離分、冬馬は慌ててクロスバイクの上で身を仰け反らせた。


「しっ、失礼しますっ! じゃなっ!」

 

 冬馬は最後のセリフを桃乃に向けて言うと、あっという間にクロスバイクで男子校舎の方に去って行ってしまった。


 正門前に緑と桃乃の二人だけが残される。 


「し、失礼します……」


 気まずい雰囲気の中で桃乃もそそくさと女子校舎の方へ行こうとすると、「ちょっとお待ちなさい」と声がかかり、緑に引き止められた。


「あなた、倉沢さんだったわよね」

「は、はい」

「ねぇ、西脇くんとはお付き合いしているの?」

「つ、付き合ってません!」  

「あらっ、ふ~ん、そうなの……」

 

 自分の質問に慌てて否定をしてきた桃乃に緑は意外そうな顔をし、一時桃乃から視線を外すと何かを考えているようだった。


「あの……、先生は毎日ここにいらっしゃるんですか?」

「えっ?」

 

 考え事の最中に桃乃からいきなりそう訊かれ、緑は一瞬驚いた様子を見せる。


「いいえ、ここにいるのは今週だけよ。この正門には毎朝教師が一名必ず立って不審者が校内に入らないようにチェックしているの。で、今週は私が当番ってわけ」  


 緑は桃乃にそう説明すると、もう一度同じ質問を投げかける。


「それよりあなた、西脇くんとは本当にお付合いはしていないのね?」

「は、はい」

「そう」

 

 桃乃の返事を聞いて緑は満足そうに微笑んだ。


「分かったわ。それならいいの。引き止めちゃってごめんなさいね」

「い、いえ……」

 

 そう語尾を濁して返事をすると桃乃は再び女子校舎の方に足を向ける。正門前に緑を残し、桃乃は校舎の中に入った。自分の靴箱に外靴を片付けながら今の緑の様子を思い返す。

   


( あの先生、もしかして冬馬のこと……? )

     


 なぜか心がざわついた。  

 そしてその日一日、パールの粒がきらきらと輝くネイルで冬馬の胸をツンと突いたあのシーンは忘れようとしても桃乃の脳裏にいつまでもこびりついて消えなかった。



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