小さな秘密 【前編】
「これぐらい離れればもういいだろ」
「そうだね!」
要と沙羅が足を止める。桃乃と冬馬の姿は今は遠くに離れ、小さな二つの影にしか見えない。
「でも要ってばずいぶん素直に冬馬の提案をOKしたよね。要もモモと冬馬の仲を応援してるの?」
「いや、西脇に借りを作っちまってるからな。だからあいつと倉沢さんを二人きりにさせるために俺があんたのおもりを引き受けたんだ。これも罪滅ぼしの一つってとこだ」
「へぇ……って、ちょっと待って! おもりってなによ、おもりって!」
鼓膜直撃のその音量に要は顔をしかめた。
「おい、頼むからもう少し声のボリューム落とせよ。そんなにデカい声ださなくても十分聞こえるって」
しかし沙羅はもう一つの別の理由で怒り心頭状態なので、その頼みを聞く気はまったくない。
「要っ! それとあたしの名前、ちゃんと呼んでってさっきから言ってるでしょ!? そう、それにどうしてモモを苗字で呼んでるの? この間は “ 桃乃ちゃん ” って呼んでたじゃない」
要は黙ってイラストボードを沙羅に押し付けると、そのまま地面に腰を落とす。
「……あの時帰り道で言っただろ、あれは営業だったって。あの時の俺はどうかしてた」
「確かにね。今の要と全然キャラが違ってたし!」
ボードを受け取った沙羅も要の左側にストンと座る。
「あの時は自分が見えなくなってた。今にして思うと何かに取り憑かれてたようだったな」
「えぇっ、取り憑かれた!? なんか怖いなぁ、そんな言葉聞くと……。実はあたし、幽霊とか怪談話とか大の苦手なんだよね……」
と言いながら沙羅は自分の両腕を何度もさする。
「何してんだ?」
「要の背後に今すっごく怖い悪霊がいるって想像したら鳥肌立ってきちゃった」
「勝手に想像すんな」
不愉快そうにそう言い放った要は、やがて沙羅の背後にいぶかしげな視線を漂わせて「おい…」と呟く。
「なに?」
「俺じゃなくてお前の後ろにいる」
「な、なにが!?」
「お前の背後に歪んだ顔をした青白い男の霊が見……」
「きゃあああああ──!!」
ちょっとからかっただけのつもりが、またしても超高音の絶叫声をもろに鼓膜に食らい、要は慌てて自分の両耳を手で塞いだ。
「怪音波発生装置か、お前はっ……」
「やだやだ──っ! 怖い──っ!!」
背後に怨霊がいる、と脅かされた沙羅はものすごい勢いで要の首にしがみつく。
「おっ、おい! 何すんだお前!」
自分に抱きついてきた沙羅に驚いた要は、両耳を押さえていた手を離し、焦り顔で叫んだ。
「怖い──! 要、取って! 早く取ってってばっ!」
「虫じゃあるまいし取れるかっ!」
要の首にしっかりと巻きつけられた沙羅の白い腕は悲鳴と共にぐいぐいと締め付けをエスカレートしていく。要の顔が少々赤いのは抱きつかれているせいか、それとも窒息しそうなためか、まったく判別がつかない状態だ。
「お、お前、俺を殺す気か……!」
「だって悪霊が──っ!」
「いねぇよ、そんなもん! 冗談だ冗談!」
「じょ、冗談?」
それを聞いた沙羅はやっと両腕の力を緩める。
「要! それっていくらジョークでも悪趣味すぎ……っ!?」
しがみついていた腕をほどいて要に抗議しようとしたその声が急に途切れる。
すぐ目の前、今にも触れそうなぐらいの至近距離に要の顔があったせいだ。こんな近くで初めて要を見た沙羅の顔がカァッと赤くなる。
「……頼むからこの距離で叫ぶのだけは止めてくれよ? 次は間違いなく鼓膜が破れる」
すぐ間近で聞いているせいか、要の声は今までと違って聞こえ、それが余計に沙羅の動揺を誘った。
「ごごごごめんねっ!」
沙羅はあたふたと身を離し、要はたった今強烈に締め上げられた首元をいたわるようにさすった。
「あんた、女の割にすげぇ力あるんだな。なんか筋トレでもやってんの?」
「ううん、特にやってないよ? 毎日寝る前に簡単なエクササイズはしてるけどね」
「エクササイズ?」
「うん、あたし小学生の頃テニススクールに通っていたことがあったんだけど、その時のコーチが言ってたの。女の子は将来のために大胸筋を鍛えておきなさい、って。大胸筋を鍛えるってことはどういうことか分かる、要?」
本当は分かっていたが、その回答を口にしたくない要は敢えて知らないふりをする。
「さぁな」
「じゃあ教えてあげる! あのね、大胸筋を鍛えるとバストアップするんだって! こうやってやるんだよ!」
嬉々としながら沙羅は自分が日々行っているエクササイズを座ったままで実践してみせる。
「本当は寝てやるんだけど、まず両手にバーベルを持って手を横に広げてね、こうやって胸の前でクロスさせるの。で、またゆっくり元に戻して……の繰り返しなんだ。それにね、このエクササイズをすると年をとった後もバストの形をキレイに保てるんだって! だからあたし、頑張っちゃってるんだ!」
「……本来はそういう目的で鍛えるものじゃないけどな……」
沙羅を横目で見ながらボソリと要は呟く。
「あ──っ!」
「……うるせぇな。今度はなんだよ?」
「要、今あたしの胸見たでしょ!?」
「みっ、見てねぇよっ!」
「ううん、絶対見た! 今チラッてこの辺を見た! 間違いなく視線が落ちたよ!」
「きょっ、興味ねぇよっ、お前の胸なんて!」
必死で完全否定しつつも、実際は指摘通りに一瞬だけ沙羅の胸元に視線を下げてしまった自覚のある要の様子は、どもりがちで明らかにおかしい。
「やっぱり要ってムッツリタイプだったんだね! 要の性格ならたぶんそうじゃないかとはなんとなく思ってたけど!」
迷宮入り寸前の謎がようやく解けた名探偵のような重厚な仕草で、沙羅はふむふむと何度も頷く。
「だっ、だから勝手に決めつけんなっての!」
なんとかこの話題を強制終了させるべく、要は水入れを掴むと勢いよく立ち上がる。
「おい、時間無くなるぞ! 帰りまでに絵が出来てなかったら補習になるんだからな!?」
「あ、そうだねっ。じゃあさっきボードを持ってくれたお礼にあたしが水汲んでくるよ! それ貸して!」
沙羅は要の水入れを素早く取りあげると「じゃ行ってくるね!」と叫び、少し離れた水飲み場に向かって風のように走り去っていった。
やれやれと溜息をつき、その場に取り残された要は草原に両足を投げ出して目の前に広がる草原風景をぼんやりと眺めた。そして頭の中でどの辺りを描くかの検討を始める。
やがて二つの水入れを抱えた沙羅が小走りで戻ってきた。
「はい!」
水入れの一つを差し出され、「サンキュ」とだけ礼を言うと、要はそれを受け取った。
「あれ要、まだ描き始めていなかったの?」
要のイラストボードはさながら降り積もったばかりの雪原のようにまだ真っ白な状態だ。
「あ! もしかしてあたしが帰ってくるのを待っててくれたとか?」
「……違う。どの辺りを描くかを考えてただけだ」
「よーし! じゃあはりきって描こっ!」
つくづくおめでたい思考のヤツだ、と思いながら要は鉛筆を握る。
それからしばらくの間、二人は目の前の風景を黙々とラフスケッチすることに専念する。
沙羅の絵を描く目は真剣だが、要は淡々と鉛筆を動かしてはいるものの、その態度にはあまり真剣味が感じられない。
やがて先にアクリル絵の具に手を出したのは要で、少し遅れて沙羅も後に続く。樹脂パレットに絵の具を出した沙羅は、その顔に意外そうな色を浮かべた。
「あれ? ねぇ要、このアクリル絵の具ってイヤな匂いあまりしないね」
「アクリルは油絵の具と違って乾きを早めるために薄めてあるし、有毒な溶剤を使ってないからだろ」
「へぇ~要よく知ってるね、そんなことまでさ」
「何言ってんだ。美術の教科書にちゃんと書いてあるだろ」
「あ、そうなんだ? あたし、美術の時って教科書あまり見てないからなぁ」
要は沙羅のイラストボードを一瞥する。
「……その絵を見たらなんとなく分かるけどな」
「あっ、ひどーい! 要、あたしの絵が下手だっていうの!?」
「悪ィけどお世辞にも上手いとは到底言えない。もっと右脳を使って描けよ」
キョトンとした顔で沙羅が復唱する。
「ウノー?」
「あぁ、絵を描くならもっと右脳の空間認識を活性化させてこの光景を立体的に眺めてみろよ。絵を描くってことは、描きたいものを右脳にイメージで焼き付けてさらにそれを膨らませていくってことだろ」
自分の絵の拙さを理論的に責められて沙羅はむくれた。
「うー……な、なにさー、カッコイイことばかり言っちゃって。じゃあそういう要の絵はどうなのよ?」
沙羅は要の方に身を乗り出し、描いている絵を覗きこんだ。
「……Wao……すごい上手……!」
要の絵の出来映えに沙羅は絶句した。
繊細なタッチで描かれた要の絵はまだ彩色初期の段階だが、まさに目の前の風景をそっくりと写し取ったようだった。
「要! この絵売れるよ!」
「売れるかよ、こんなもん」
「売れるってば! 昔パパと行った画廊でこんな感じの絵あったもの! 要って絵が上手なんだね!」
“ パパ ” という言葉に、要は今思いついたことを沙羅に尋ねてみる。
「そういえばあんたの親ってさ、どっちが外国人なわけ?」
「ママだよ。イギリス人なの。で、パパが日本人」
「ふ~ん……オヤジさんって何やってんの?」
「航海士だよ」
「へぇ、航海士か。どこの学校出てるんだ?」
「えっ学校!?」
「そう。航海士ならどっかの海洋学校出てるよな?」
沙羅はなぜかその返事に詰まった。
「え、えっとそれは……うーんとどこだったかなぁ……」
沙羅は必死に思い出そうと、眉根を寄せている。
「忘れたんなら別にいいぜ。特別興味があったわけじゃないしな」
「う、うんっ。なんか度忘れしちゃったみたい!」
そう答えた沙羅を要はじっと見つめる。その視線は静かで、そしてすべてを見透かすような視線だった。
「な、なに?」
「……別に」
要はそう呟くと彩色作業に戻った。
自分に向けられたその最後の視線が気になったのか、沙羅は落ち着かない様子を見せる。空気の気配でその様子を察知した要は手元のボードを見たままで口を開いた。
「この辺に住んでたんなら、もしかして国際日本海洋学校じゃないか?」
沙羅は顔を上げ、弾んだ声を出す。
「あーそうそう! 思い出した、それそれっ! さすが要! 色んな事に詳しいんだね!」
「……」
要は一瞬だけ沙羅を見ると、またボードに視線を戻す。
「オヤジが航海士なんて嘘だろ」