伝えられない本音
「ここ、いいんじゃない?」
沙羅が足を止めた場所は、遥か遠くにぼやけた稜線が見える広い平原だった。
森林公園のほぼ最奥部に位置するこの大きな平原はひたすら何も無い広大な景色で、遠くには野生植物が咲き乱れている。一面に生える短い雑草たちがそよ風で揺れるその様は、鮮やかなグリーンの絨毯が優雅になびいているように見えた。
「しかし俺ら結構歩いたな。帰りにバスの所まで戻るの大変だぜ?」
沙羅に続いて足を止めた要は、肩越しに今まで歩いて来た林道を振り返る。
「でもその分、他の生徒も全然いなくっていいじゃない! この場所貸切りしたみたいで気分いいもん!」
「貸切ってなんだ。ここは宴会場か」
そんな要の冷静な突っ込みも、相手が沙羅では意味を成さないどころか逆に援護しているようなものだ。
「あっ要、それってナイスアイディア! 今日はあたし達四人が初めて一緒に行動した記念すべき日だもんねっ、お弁当もあるしさ、お昼はここで宴会しようよっ、大宴会!」
「……もう勝手にしてくれ」
ここまでの道すがら、はしゃぐ沙羅のマシンガントークに長時間エンエンと付き合わされ、すでに精神的にかなりのダメージを負わされている要はグッタリとした様子で顔を伏せる。
そして沙羅が提案したこのスケッチの候補場所に、一番最初に同意したのは冬馬だった。
「そうだな、ここだと描き易いな。半分は緑でバーッと塗って上にチョイチョイと花みたいなモン描けばいいしさ。沙羅の言う通り、ここにしようぜ!」
「……冬馬、全然絵描く気ないでしょ」
隣にいた桃乃は呆れた口調で言う。
「当たり前じゃん! 大体、なんで高校に入ってまでこんな小学生みたいな写生大会があるんだっての。そっちの方が純粋にスゴいだろ」
「でもさ、冬馬はその写生大会のおかげでこうやってモモといられるんだよ?」
沙羅の指摘に「あ、そうだな」と冬馬はあっさり納得する。その返答のあまりの速さに沙羅は我慢しきれずに声を上げて笑った。
「さっすが冬馬! モモが単純って言ってただけあるね!」
「なんだよ桃乃、沙羅にそんなこと言ってんのかよ?」
冬馬はいささか気分を害したようだ。 沙羅は「うん!」と頷くと明るく先を続ける。
「あのね、あたしが “ 冬馬ってどういう性格? ” ってモモに聞いたの! そしたらモモは、単純でー、強引 でー、そんでもって “ ケダ ” なんだって言ってたよ!」
「ケダ? なんだそれ?」
「さっ沙羅ってばっ!」
桃乃は慌てて沙羅の口を封じた。
「桃乃、なんだよ、ケダって」
「さっ、時間が無くなっちゃうから早く描こっ! ほら沙羅!」
桃乃は冬馬の質問を無視し、沙羅の手を取って平原に座ろうとする。
「その前に皆ちょっといいか? 俺にいい提案があるんだけどさ」
冬馬は小脇に抱えていた二組のボードを草原の上に置いた。
「な、桃乃と沙羅はいつも学内で一緒にいるんだろ? だからさ、今日は天気もいいし、せっかくだから男女に分かれて絵描かないか?」
間髪いれずにプッと噴き出す声がする。
「冬馬って本当に分かりやすい人だね~!」
その提案を聞いた沙羅が再び大笑いをはじめる。
「それってさ結局、“ モモと俺を二人っきりにしろ ” ってことなんでしょ?」
「へぇ、沙羅って頭の回転速いんだな」
笑い声はさらに大きくなった。
「あたしがスゴイんじゃないの! だから冬馬が単純すぎるんだって!」
笑いすぎて沙羅の目尻には涙が浮かんでおり、話題に中心になっている桃乃は恥ずかしさで声も出せない。しかし一方の冬馬は恥ずかしそうな様子などまったく見せず、要にも同意を求める。
「な、いい案だと思わないか、柴門?」
「あぁ、了解した」
要は一旦草むらに置いた自分と沙羅のボードを再び手にする。
「じゃあ西脇と倉沢さんはここに残れよ。俺らはもう少し向こうの方に行く。昼は一緒に食うんだろ?」
「そうだな、じゃあ時間決めるか。今十時だろ……、十二時半にそのでかい石の所に集合でどうだ?」
「OK。じゃ俺とあんたはあっちの方に行こうぜ」
と要は沙羅を促す。
「か~な~め~……!」
急に機嫌が悪くなった沙羅はふくれっ面で要に詰め寄った。
「いい加減にちゃんとあたしの名前呼んでよ! なによ、さっきから “ あんた ” とか “ お前 ” とか!」
「はいはい……」
かったるそうに要はそう返答して背を向けると、またしても一人で先に歩き出す。
「あー! だから待ってってばー! 紳士なんでしょー!? なら女の子にはもっと優しくしなさいよーっ!」
数百メートル先でも余裕で聞き取れそうな甲高い声で叫びながら、沙羅も両脇の長い髪を揺らして駆け出して行った。
要と沙羅がいなくなると冬馬はドカッと平原の上に腰を下ろし、嬉しくてたまらなそうな声で言う。
「やっと邪魔者追っ払えたな! な、桃乃?」
顔を赤らめながらも、桃乃は冬馬の隣におとなしくペタンと座った。
「で、どうする? やっぱ先にスキンシップだよな?」
「……ッ!」
顔の血流の流れが一気に早くなる。この言葉で即座に桃乃の警戒レベルは二秒でMAXに達した。
「なっ、なにがスキンシップよっ! えっ、絵を描くに決まってるでしょ!?」
瞬時に警戒体制を敷いたせいか、すんなりと言葉が出てこない。
「だってよ、今せっかく誰もいないんだぜ? 後で誰か他の奴らがここまで来たらまた桃乃はいちいち気にしそうじゃん?」
「ちょっ……! 冬馬、私の話聞いてるっ!?」
「聞いてるって。だから桃乃はまず先に絵を片付けて、後でゆっくりスキンシップがいいんだろ?」
「違うってばっ!」
あぁ、と言うと冬馬は自分の膝を叩く。
「そういや、桃乃はお楽しみは後に取っとくタイプだったよな。給食でお前の好きなフルーツサラダが出るとさ、必ず一番最後に食ってたもんなぁ。でも俺の場合は分かるだろ? 好きなもんが出たら真っ先に食っちゃいたいタイプだからさ、やっぱスキンシップが先がいい……」
「だからスキンシップはいらないってば!」
一瞬、冬馬の呼吸音が消えたような気がした。
「……桃乃、やっぱり俺と付き合うのは嫌か?」
あれほど冬馬の表情からこぼれていた笑顔が今は完全に消えている。
「なぁ、もしかして触られたりするの、すげー嫌だったりしてた?」
「な、なんで急にそんなこと言い出すの?」
「…………」
冬馬は無言のまま、今までの強引さからは考えられないくらいに遠慮がちな仕草で、桃乃の白い喉元に向かって手を伸ばす。
首筋に冬馬の指先が触れた時、勝手に体がビクッと反応し、桃乃はわずかに身を反らしてしまった。
「やっぱりつけてねぇ……」
顔を曇らせ、冬馬は低い声で呟いた。
長く、骨ばった指先はほんの少しだけ桃乃のカッターシャツの襟元を左右に押し広げている。
そのわずかな隙間から見えるのは華奢な鎖骨だけだった。
「もしかしてあの後一度もつけてないのか?」
そう寂しげに言うと冬馬はそっと指先を離す。
プレゼントしたネックレスのことを言ってるんだ、と気付いた桃乃は、何度も首を振って答えた。
「ううん! つけてるっ!」
「……じゃあなんで今つけてないんだよ?」
「だ、だって、学校であのネックレスをつけているのをもし見つかったら没収されちゃうもん! そんなの絶対に嫌だから! だってあんなに冬馬が頑張っ……」
うっかり “ 頑張って働いて ” という言葉を言いかけた桃乃は、不自然に言葉を切り、言い直す。
工事現場のアルバイトの件は裄人との約束で口には出来ない。
「せ、せっかく冬馬に貰ったプレゼントを没収されて返してもらえなくなったら嫌だから……」
「そっか」
そう呟くと冬馬は笑った。
しかしその笑顔は先ほどまでのものとは違い、どことなく寂しげなのが桃乃には気になった。
傷つけてしまったかも、と心配になった桃乃は念を押すように繰り返す。
「ホントだよ? ホントにそう思ったからつけてなかったの」
「あぁ分かった。じゃ、面倒だけど絵でも書くか」
「ごめんね冬馬……」
「謝るなよ、別に全然気にしてねぇし。ほら、桃乃も準備しろ。パパッと終わらせて昼寝しようぜ」
横で冬馬がスケッチの準備をし出すのを桃乃は痛む胸を抱えながら眺める。
単純な性格の冬馬だからこそ、桃乃にはよく分かっていた。
例え “ 没収されるのが嫌だったから ” という理由がまったく嘘偽りないものであっても、それでも今自分の首元にネックレスが無かったことが、たぶん冬馬にとっては十分すぎるほどの傷つく理由になっていることを。
話題を変えるべきか、それとももう一度自分の気持ちを伝えるべきか、桃乃は悩む。
しかしあまり何度も同じ事を言うと余計に言い訳がましく聞こえそうな気もしていて、口に出すことをためらってしまった。
そんな桃乃の気持ちを察したのか、冬馬は「あ、そうだ」と言うとスケッチの準備をしていた手を止め、よりにもよって桃乃が一番触れられたくない話題を出してくる。
「ところで桃乃、さっき沙羅が言ってた『俺がケダ』ってどういう意味だよ?」
またしても心臓が跳ね上がる。
「しっ、知らない……!」
「知らないわけねぇじゃん。自分で言ったんだろ?」
「も、もう忘れちゃったよ。バスの中で話してた事だし……」
「嘘言え。 バスの中ならついさっきの事じゃん? 絶対言わせてみせるからな」
乾いた絵筆を指の間に挟み、白い筆先を桃乃に向けながら冬馬はそう宣言する。
その様子はもういつもの冬馬に戻っており、桃乃はホッと胸を撫で下ろすと自分もようやくスケッチの準備を始めた。