破られた規則 【前編】
長い連休も終わり、休みを満喫した生徒や教師達が再びカノンへと戻ってくる。
早朝七時。
この日の天候はなみなみと真水が入ったバケツを盛大にひっくり返したかのような大雨だったが、黒岩は定刻通りのこの時間に理事長室のドアを開けた。
しかし中に一歩足を踏み入れた瞬間、眉間にわずかな立て皺を寄せて目を凝らす。
先々週の時と同じように、またしてもデスク前に人影を確認したのだ。
「お前か……」
黒岩の声に振り返ったのは緑だった。
「おはようございます、黒岩理事長」
「おはよう」
十日前の朝、誠吾が単身でここへ現れた時とよく似たこの光景に、黒岩はかすかなデジャ・ヴを覚えながらも緑を応接セットのソファへ座るように促す。
「いえ、ここで結構です」
戻ってきたその返答までもが誠吾の時とまったく同じな事に、黒岩の既視感が益々肥大してゆく。
「そうか……じゃあここで聞こう」
黒岩は自分のデスクに座った。
「なんの話しだ?」
「これを受け取って下さい」
緑が差し出したものは「辞職願」と書かれた封書だった。
目の前の光景全てが十日前のあの状況を逸れるところなく忠実になぞり続けている展開に、黒岩の背筋にゾクリと冷たいものが走る。
「こ、これはどういう意味だ?」
「どういう意味も何もありません。カノンを辞めます。今までお世話になりました」
緑は軽く一礼をすると理事長室を出ようとした。
「待ちなさい、緑!」
歩き出していた靴音がピタリと止まった。
強い口調で呼びとめられた緑は振り返ると黒岩を睨み、声を荒げる。
「黒岩理事長! あなたは仰いましたよね? カノンの中では必ず “ 理事長 ” と呼ぶように、と! そう仰ったあなたがなぜ私のことを緑と呼ぶのですか!?」
鋭い声で指摘され、普段は無表情な黒岩の表情がほんのわずかだけ歪んだ。
「理事長はどんな時もご自分の決めた規則に従うのでしょう!? あなたは今その規則を自ら破ったのですよ!」
「……原因は矢貫先生か……?」
黒岩はボソリと誠吾の名前を口に出す。
緑は誠吾の名前が出ると落ち着きを取り戻し、静かな声に戻った。
「そうです。私はあの人を勝手に誤解し、勝手に遠ざけていました。でも理事長が口止めしていた本当の事実を私は知ったんです」
「……それは早乙女先生の件だな……?」
緑が頷くのを見ると黒岩は銀縁の眼鏡を外して軽く目を閉じ、眉間を指で押さえた。
そしてしばらく間を置いた後、低い声で問う。
「……緑、お前あの男が好きなのか?」
緑は黒岩の前ではっきりと誠吾への想いを肯定した。
「はい」
「……ここを辞めてどうするつもりだ?」
「黒岩理事長、私は今までこのカノンの、いえ理事長、あなたの規則に従ってきました。理事長の規則はいつも正しく、絶対なものだと思っていました。しかし、今は違います」
緑は黒岩を見据えて続ける。
「ですが理事長の考え全てを否定しているわけではありません。若く、この社会をまだ理解しきっていない生徒達に、正しい方向を指し示す程度の規則は必要だと思います。でもあの人が理事長に言ったように、一辺倒で杓子定規なやり方だけでは解決できない問題は、この社会にも、そしてもちろんこのカノンの中にも存在すると私も思います」
「…………」
緑にそう告げられた黒岩は無表情に戻り、沈黙する。
「私、あの人がここを去ってから今まで色々考えました。そしてあの人が自分の良心に従いこのカノンを去ったように、私も教師の立場を捨てて女の立場を取ろうと決めたんです」
「……考え直す気はないのか……?」
「ありません」
緑はきっぱりとそう宣言すると踵を返し、理事長室の扉を開けた。
「理事長、お世話になりました。今日は最後まで授業を受け持ちますので代わりの先生を頼まなくても結構です。では失礼します」
黒岩は何も言わずに、緑が退室するのをその場から見送った。
廊下を歩き去ってゆく高らかな靴音は段々と小さくなり、窓ガラスを叩きつける強い雨音だけが広い理事長室内に留まる。
黒岩は強く目をつぶり、椅子の背もたれに身を投げ出すようによりかかった。そして誠吾が去って行った時よりも重く深い息を長々と吐く。
眉間から手を離し、反対の手に持っていた眼鏡をデスクの上にゆっくりと置いた時、金属のフレームがデスクと触れ合う冷たい音が黒岩の鼓膜に寂しく響いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
定例会議の日を除き、特別な用事が無い限り必ず午後六時まで理事長室にいる黒岩は、珍しく五時前にカノンを後にする。
外は相変わらず叩きつけるようなどしゃぶりの雨だった。
黒岩はタクシーを拾い乗り込むと、一枚のメモを見て自宅とは違う住所を告げる。
フロントガラスを滝のように流れる雨を見ながら黒岩は真っ直ぐに背筋を伸ばし、微動だにせずに後部座席に身を置いていた。
やがてタクシーは比較的まだ築の新しそうな二階建てアパートの前に着く。
その作りから見て1DKか2DKのみの一人暮し対象の建物の前で、タクシーの運転手にきっちりの乗車料金を支払うと黒岩はその中へと入った。
上下階しかないアパートなので当然エレベーターは無い。
階段で二階に上がり、ドアに<205>とナンバーが打たれた部屋をノックする。
数秒後、応答無しでいきなりドアが開いた。
咥え煙草で出てきた人物は目の前に佇む黒岩の姿を見ると相当に驚いた様子を見せる。
「黒岩理事長ッ!? ど、どうして俺の家に!?」
誠吾の口の端からまだ火のついていない煙草が音もなく落ちた。
「今お邪魔してもよろしいですかな……?」
「あっ、どっ、どうぞ!」
玄関先に落ちた煙草を慌てて拾い上げ、誠吾はこの突然の来訪者を部屋の中へと通す。
黒岩は誠吾が勧めた座布団の上に座ると、湿り気を帯びたベージュのレインコートを裏返して畳み、脇に置いた。
「今日はすごい雨ですな」
「はっはい! あっあの理事長、インスタントコーヒーしかないんですけどいいですか?」
「あぁどうぞおかまいなく、矢貫先生」
誠吾がインスタントコーヒーを淹れている間、黒岩は誠吾の部屋の中をゆっくりと見回した。
男の一人暮しらしく、適度に乱雑な室内に、テーブルの上にあるガラスの灰皿が吸殻で山盛りになっている。そのニコチンの残骸を見た黒岩が一言苦言を呈した。
「矢貫先生は少し煙草をお控えになったほうがよろしいですな。お吸いになる本数があまりにも多すぎるような気がするのですが」
大きさも形も揃っていない二つのマグカップにインスタントコーヒーを淹れ、その一つを黒岩の前に置きながら誠吾が決まり悪そうに言葉を濁す。
「俺、ヘビースモーカーなもんで……」
「今日はアポも取らないでいきなり訪ねてきてしまってすみませんでした」
黒岩は自分の非礼を丁寧に詫びた。
「いえ……何か俺に用でしょうか?」
「ええ」
黒岩は大きく息を吐く。
「……実は今朝、緑が辞表を出してきました」
「え? 緑って……もしかして柳川先生のことですか?」
「そうです」
「柳川先生がなぜ辞表を……」
そう言いかけた誠吾はハッとあることに気付き、勢い込んで尋ねる。
「いっ、今なんで理事長は柳川先生のことを “ 緑 ” って呼んだんですか!?」
黒岩は誠吾と視線を合わせると静かに言った。
「……緑は私の姪なんですよ」
「め、姪!?」
「そうです。私の妹の一人娘です」
「柳川先生が理事長の姪……」
呆然とした様子で誠吾は呟く。まだその言葉の意味を完全には理解し切っていないようだ。
「柳川というのは緑の父方の姓なのです。私の妹の夫、つまり緑の父親は緑がまだ小学生の時に病気で亡くなってしまいましてね……。それ以来、私はあの子の父親代わりとして色々と手助けしてきたのです。おかしな話かもしれませんが、小さい頃からあの子の面倒をずっと見てきているせいで、今では私は緑の本当の父親のような気分でいるのですよ」
誠吾はこの衝撃の事実を口をあんぐりと開けて聞いていた。
黒岩はフゥとため息をつき、続きを語り始める。
「……その後、私は成長して教職の資格を取った緑をカノンに呼び、英語担当の教師にしたのです。カノンでの緑は規則に忠実で私の言うことに今まで一度も異を唱えたことはありませんでした。しかし……」
黒岩はそこで一旦言葉を切り、正座をしている誠吾に足を崩すように言った。
「あなたが現れて緑は変わってしまった……」
黒岩はかすかに寂しそうな表情を見せる。
「矢貫先生、あなたはご自分の歓迎会の時に緑に結婚してくれ、と迫りましたよね?」
「は、はい」
誠吾は正座のままで話しを聞き続けている。
「あの時からですよ、緑が変わったのは……。しかしカノンの規則で教職員間の恋愛は禁止しています。私はカノンの理事長として当時あなたにはもちろん、緑にも厳しく指導しました。しかし緑を幼い頃からずっと見てきている私には分かったのです。緑が矢貫先生のことを好いていることを」
黒岩はそう言うと大きなマグカップを手に取り、かなり濃い目のインスタントコーヒーをブラックのままで一口飲んだ。
「しかしあの厳重戒告以来、矢貫先生は緑に表立って何もしなくなりましたし、私としてももうそれ以上何もすることができなくなりました。ですが、緑があなたに惹かれ始めているのは事実でした……」
窓の外で大きな雷が何度も不気味に鳴る音が響く。
「……そこにあの早乙女先生の事件が起きました。当時は私も他の教職員の方達と同じように矢貫先生が織田志穂の子供の父親かと思ったこともありました。しかし早乙女先生の告白で真実が分かり、すべてが解決しました。そして私はあなたにこの件を絶対口外しないように念を押しましたね?」
「は、はい」
と再び誠吾は頷く。
「それは退職、という形で責任を取られた早乙女先生をこれ以上晒し者にする必要は無い、と判断したのと、もう一つは私の身勝手な気持ちからでした……。当時、職員の間では織田志穂が病院に出した堕胎用紙に矢貫先生の名前があったという噂で持ちきりでした。この時私はふと思ったのです。ここで矢貫先生に真相の口止めをし、噂をそのままにしておけば、緑の矢貫先生への気持ちが冷めるのではないかと……」
黒岩は中身が冷めはじめているマグカップに視線を落とす。
かすかに手が震えたのか、カップの水面に揺らめきながら映るその顔は罪の意識で大きく歪んでいるように見えた。
「その後、緑は矢貫先生のサインの噂は本当か、と私に訊きにきました。実際それは事実でしたし、私は “ そうだ ” と答えました。しかしその後の真実を敢えて緑には教えませんでした。緑には恋愛などにうつつを抜かさず、いずれは私の後を引き継ぐ教職者としてカノンで生徒をしっかりと指導してもらいたかった……。そして私の思惑通り、緑の気持ちはあなたから離れていったように見えました。でもそれは違ったのです」
「ち、違ったってどういうことですか……?」
「緑はそれでもずっとあなたのことが好きだったようです。ただ私が織田志穂の子供の父親を矢貫先生だと思い込ませたことによって、自分の気持ちを封じ込めていただけだったのです。今朝、緑は辞職願いの届けを私に渡しながら言いました。矢貫先生が自分の良心に従い、このカノンを去ったように、私も教師の立場を捨てて女の立場を取る、とね」
「柳川先生が理事長にそんなことを言ったんですか!?」
「えぇ……。私は理事長という職に対し、不適格者だったのかもしれません。生徒や教師には自ら決めた規則を押し付け、それでいて自分はその規則を自分の都合の良いように利用していたのですから……」
そう言い終わると黒岩は薄っぺらい座布団の上で居住まいを正す。
「……矢貫先生、ひとつだけお聞きしてもよろしいですかな?」
「はっ、はい」
同じく居住まいを正しながら誠吾は緊張した声を出した。
「あなたはまだ緑のことが好きなのですか?」
なぜか誠吾は俯き、その返事をためらった。
そんな誠吾を見た黒岩がやんわりと諭す。
「矢貫先生。あなたの緑に対する今のお気持ちだけを素直にお話して下さればよいのですよ。先生がお持ちになっている良心の痛みや罪悪感などは一切加えずに、です」
それを聞いた誠吾はスッと顔を上げ、すぐに答えを口にする。
「好きです」
「そうですか……」
黒岩は静かに呟き、視線を下に落とす。
カップの水面に再び大きな乱れは起こらなかった。