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プロローグ ― 3 ―



 カノンの登校初日が無事に終了した。


「ね、モモ、途中まで一緒に帰ろうよ!」


 スクールバッグを片手に沙羅が桃乃を誘う。今日半日で沙羅とだいぶ打ち解けることのできた桃乃は「うん!」と軽やかに返事をした。

「モモの家って何人家族なの?」

「うちは四人家族よ」


 一緒に下校しながら二人はお互いの事や家庭の事などを色々と教えあう。

 桃乃の家庭は父親と母親、そして四つ下の妹がいる四人家族だ。

 父親の倉沢雅治(くらさわまさはる)は出版社に勤務する編集者で、母親の千鶴(ちづる)は専業主婦。妹の葉月(はづき)は来年中学生になる。

 沙羅の父親の(みなみ)聡志(さとし)は航海士で一年のほとんどが海の上であまり会えないため、今は母親のエリザと二人暮しなのだと沙羅は語った。


「あーあ、いいなぁ姉妹って。あたしもお姉ちゃんか妹欲しかった~」


 一人っ子の沙羅は姉妹のいる桃乃のことをとても羨ましがる素振りを見せる。


「でもいたら口ゲンカばっかりになるかも。最近妹すごく生意気になっちゃって」

「だけどやっぱり羨ましいよ。ホラ、“ Blood is thicker than water ” って言うでしょ?」

「んっと、血は水よりも濃いってことね」

「そうそう」

「沙羅、中学で英語のテストなんかいつも満点だったでしょ?」

「うん、まぁね。でも単純なスペルミスは今でもしょっちゅうだよ。話すのはいいんだけど書くのは苦手なんだよね~」

「いいなぁ、私あんまり英語得意じゃないの。でも物理よりはたぶんマシだと思うけど……」

「あっ、あたしも物理は大嫌い! だってこの間教科書見て眩暈がしたもん! だからきっとこの先、物理の試験前夜は徹夜で公式暗記することになりそうだよ」

「あっ、沙羅も?」

「うん! でもあたし、一夜漬けには結構自信があるからノープロブレム!」


 楽しそうに笑い会う二人の姿は今日初めて知り合ったばかりとはとても思えない。

 木立の通学路を抜けると駅はすぐだ。


「モモの家はどっちの方?」

 カノンがある谷内崎(やちざき)駅から東へ行くルートは呉内(くれない)で、西は中和泉(なかいずみ)になる。

「私は呉内」

「なーんだ反対かぁー。あたしは中和泉なんだ。じゃあここまでだね。また明日ね!」


 沙羅は右手を振りながら明るい声を出す。


「ねぇモモ。今度私の家に遊びにおいでよ! モモをママに紹介したいんだ。『高校に入って最初のベストフレンドだよ』って!」

「うん、今度遊びに行くねっ」


 近いうちに家に遊びに行く約束をした桃乃はそこで沙羅と別れて家路に着いた。

 桃乃の降りる駒平(こまだいら)駅は谷内崎から四つ目の駅で、その駅から十分もかからない場所に桃乃の自宅はあった。通学がかなり楽なのも桃乃がカノンを目指した理由だ。


「ただいま~!」


 三年前に外壁を塗り替えたばかりの家の玄関を開けると家の中から桃乃の母親、千鶴の声が聞こえてくる。


「おかえりなさい、桃乃。制服を着替えたらすぐに下にいらっしゃい」

「はーい」


 桃乃が二階の自分の部屋で私服に着替えて一階に下りていくと、リビングいっぱいに甘い香りと深煎りされたコーヒー豆の香ばしい香りが混じりあって漂っていた。


「あら、ちょっと焼きすぎちゃったかも……」


 専業主婦の千鶴の趣味はお菓子作りだ。今日のお菓子はココナッツをふんだんに使ったクッキーらしい。

 白いフリルのエプロンにロングウェーブの髪が揺れる。

 二十二で結婚しそのまま専業主婦になった千鶴は今年で三十九歳になるが、今まであまり苦労を経験していないせいもあって実際の年齢よりはるかに若々しく見える。

 桃乃はダイニングテーブルの席につき、大きな器に盛られている焼きたてのココナッツクッキーを一口食べてみた。


「ううん、美味しいよ、お母さん」

「そう? で、どうだったの、学校は?」

「うん、早速友達も一人出来たし楽しくなりそう。葉月はもう塾に行ったの?」

「ええ、ついさっき。でもよかったわねぇ」

 

 桃乃の前にジノリのコーヒーカップが置かれる。


「ねぇ桃乃、昨日の入学式は本当に素敵だったわよね」

「もうお母さんたら卒業式でもないのに泣いてるんだもん、恥ずかしかった……。あの時泣いていたのお母さんだけだったんだからね?」

「だってカノンの制服着て座っている桃乃や冬馬くんの姿を見たらつい感動しちゃったんだもん。あぁそうだ、それで思い出したわ。あのね桃乃。今朝冬馬くんがあなたを迎えに来てくれたのよ?」

「……知ってる」  


 桃乃は苦々しい顔でコーヒーを啜った。


「あら、コーヒー濃く淹れすぎたかしら?」

 

 娘の苦虫を噛み潰したような顔がコーヒーを濃く淹れたせいだと思ったのだ。


「明日から一緒にカノンに行くんでしょ? 冬馬くんと」

「だっ誰が!?」

 

 その桃乃の剣幕に気圧され、おっとりタイプの千鶴は娘にそっくりな大きな目をパチパチとさせる。


「だ、だって冬馬くん、また明日も迎えに来るって言ってたわよ?」

「えっ、お母さん、それホントッ!?」

 

 ソーサーに戻したコーヒーカップが勢い余ったせいでガチャンと盛大な音を立てる。

 カノンへの通学路中、ずっと横で冬馬に「桃太郎」なんて呼ばれるのは真っ平ごめんだった。

 明日は早く家を出よう、と思いながら桃乃が再びコーヒーを飲んでいると千鶴が自分にもコーヒーを淹れながら独り言のように呟く。


「でも冬馬くんもいつのまにかあんなに背も伸びて本当に凛々しくなったわよね。昔は“ ももちゃん一緒にあそぼ!” って桃乃をよく誘いに来てくれたちっちゃい男の子だったのにね」

「お母さん、違うわ。凛々しくなったんじゃなくて憎たらしくなっただけよっ」

 

 桃乃のその言い方に千鶴はクスクスとおかしそうに笑った。


「なに? お母さん。何がおかしいの?」

「んーん、別に」

 

 千鶴はコーヒーを一口飲むとフッと遠い目をした。


「そういえば桃乃もいつの間にかコーヒーをブラックで飲むようになってるのね……」

「え?」

「だって桃乃、前はお砂糖二杯も入れてコーヒー飲んでたじゃない?」

「だって太っちゃったら困るもん」

 

 桃乃のその答えに千鶴は優しく笑った。


「じゃあ今日はお母さんが久しぶりにお砂糖入れて飲んでみようかな」

   

 千鶴はシュガーポットから一杯の砂糖をすくうとそれをジノリのコーヒーカップに入れてティースプーンで掻き回した。

 一口飲んでみるとさっきとは違った甘くて少しほろ苦い味が千鶴の口中にゆっくりと広がる。


「そうよね、皆いつの間にか大きくなっているんだもんね……」


 今の千鶴の呟きの意味が分からなかった桃乃は、大きな目を何度も瞬きしながら不思議そうに母親の顔を見る。


「えっ? お母さん、それどういう意味?」  

「なんでもなーい。お母さんのひとり言ですっ」


 娘の質問を「ひとり言」という言葉でうまくはぐらかし、暖かいコーヒーカップを両手に包んだ千鶴はゆったりと微笑んだ。




 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ 




 その後、夕食を終えて入浴も済ませた桃乃は、予習をするために自室へと戻る。  

 明日の授業で苦手な物理の予習をしようと思った桃乃だったが、ふと机の上に置いたままのカノンの年間行事予定パンフレットが目に入ってしまった。


 何気なくそのパンフレットを手に取り、中を見ると月毎に何かしらの行事が書かれている。  

 確認のために今月の予定行事をもう一度調べてみたが、四月は一大イベントの入学式を除いてはオリエンテーリング以外に大きな行事はなかった。

 さらにパラパラとページをめくると何ページにも渡って部活の紹介ページがあった。


( そういえば部活どうしようかな…… )  


 中学時代はテニス部にいた桃乃だったが高校では違う部活にしてもいいなと考えていた。

 沙羅はどうするのか明日聞いてみよう、と思いながら次のページをめくる。


 現れたページはバスケ部の紹介ページだった。

 男子と女子でそれぞれ部があるらしく、トップの紹介写真では長身のプレイヤー達が汗を飛び散らせながらシュートをきめようとしている。

 男子バスケ部紹介写真の中で背番号4をつけ、右拳を振り上げてガッツポーズをしている黒い短髪の少年の背中が映っていた。その少年を見た桃乃の脳裏に冬馬の姿がよぎる。中学三年時の冬馬が背負っていた番号も同じ番号だったのだ。



 ―― 広い体育館で得点が動く度に湧き起こる歓声。

 ―― ゴールを決めた選手の名のシュプレヒコールと高らかに鳴り響くホイッスル。

 ―― 床に立っている足に直接響いてくるドリブルの強い振動。  

 ―― 綺麗な弧を描き、ゴールに吸い込まれていくバスケットボール。

 


 白杜中学に入学したばかりの頃、バスケ部に入部して背番号12をもらった冬馬は当時の桃乃にこんなことを話していたことがある。


「桃乃、俺一番が好きなんだよ。特に自分が好きなものには絶対に一番になりたいんだ。今はまだ実力足りないけどさ、そのうち必ず白杜で一番の選手になってやる」  



 ―― そして二年後、冬馬はその実力を認められ、見事キャプテンに指名されたのだ。  



( アイツって昔から自分で決めたことは必ず初志貫徹するのよね…… )  



 昔のワンシーンを思いだし、桃乃はほんの一瞬だけ心の中で冬馬のことを見直した。

 しかしすぐにその気持ちを強引に頭から追い払う。


( ……って私、何アイツのこと見直してんのよ! 今は私のこと「桃太郎」なんて呼んでバカにする奴なのに!  お母さんが今日あんな変なこと言い出したからね きっと…… )  


 桃乃はパンフレットから手を離すとベッドにバフッと倒れ込んだ。

 と同時に桃乃の部屋をコンコンと可愛らしくノックする音がする。


「なぁに?」  


 起きあがった桃乃がそう返事をするとドアがカチャリと開いて、首を覗かせたのは妹の葉月だった。


「おっ邪魔しまぁ~すっ!」  


 妹の葉月は現在小学六年生。でも四つ離れた姉の桃乃がいるせいかその年よりもかなり大人な思考回路を持つ。

 葉月はベッドに座っている桃乃の隣に腰をかけるとキラキラした瞳で喋り出した。


「ねぇねぇお姉ちゃん、カノンはどんな感じだった? 教えて!」

 

 まだ四年も先の話しだが葉月もカノンへの進学を夢見ているらしい。自分の希望校に桃乃が合格して以来、葉月は姉を羨望の眼差しで見ていた。


「まだ一日目だしよく分かんないわよ」

「ね、ね、カッコイイ先生いた?」

 

 ませている葉月には同年齢の男の子は子供に見えるらしく、好きになるのは必ず年上の男性だ。

 そしてそれに関しては二人の父、雅治も男親ならではの極端な心配性ぶりを発揮して妻の千鶴にいつも笑われている。


「カッコイイ先生……?」  


 桃乃は今日一日で出会った男性教師の顔を思い出してみた。  

 化学や物理、数学の教師は男性だったが全員四十歳以上と思われる風貌で、しかもどうお世辞を見繕ってもカッコイイとは言えなかった。


「二十代でね!」

 と更に葉月の細かい注文がつく。

「あ、そういえば私の担任の先生って二十代の男の人だよ」

「えー、幾つ幾つ?」  

「んっと、確か今は二十六歳っていってたような……」

「カッコイイ? 何教えてるの?」

「体育」

「体育の先生? じゃスポーツマンだ! いいカンジー! 芸能人とかでいえば顔は誰に似ているの?」

 どうやらかなり興味が湧いてきたらしい。

「……そうね……顔……。どうだったかなぁ……」  


 桃乃は担任の矢貫誠吾の容姿を思い出そうとしたが、なぜか脳内のイメージがぼやけてしまう。  

 なかなか担任の容姿をはっきり思い出せない桃乃の様子を見て、葉月が面白そうに茶化した。


「ねーお姉ちゃん。あたし達ってお向かいのお兄ちゃん達をずっと見てきているからさ、他の男の人でちょっとぐらい顔が良くってもなかなかカッコイイな、って思えなくなってなーい?」


 ベッドに座っている葉月はそう言った後、足を揺らしながらエヘヘとおかしそうに笑う。

 桃乃は葉月の言葉に内心は少し同意しながらも、引き続きなんとか誠吾の顔を思い出そうと努力した。


「……そうだ、思い出した。顔はちょっと目が鋭い感じで……うん、まぁまあカッコイイかも。体育の先生だから色黒で筋肉質体型なの。気さくな先生みたいだから男の子にも女の子に人気のある先生らしいわ」

「わぁ~さっすがカノンね!」

 

 葉月はウットリとした顔で感嘆の声を漏らす。


「でもさ、葉月が入学する頃にはもうその先生いないかもよ?」

「あ~! お姉ちゃん、どうしてそんなイジワル言うのよ~!」

「だって四年も後のことでしょ? どこか違う高校に赴任しちゃってる可能性だってあるじゃない」

「う……」

 

 葉月はグッと返答に詰まった。そんな妹を姉がさらにからかう。


「それに葉月がカノンに無事合格できるかどうかまだ分からないしね?」

「ごっ、合格するもんっゼッタイ!!」

 

 葉月は母や姉と同じ大きな目をぱちくりさせて大声で叫ぶ。


「あたし塾に行き始めたの知ってるでしょ? 絶対、絶対、絶対合格するもーんだ! なにさ、お姉ちゃんだって冬馬兄ちゃんと同じ学校行きたくてカノン目指したんでしょ!? それだって不純な動機じゃん!」

 

 今度は桃乃が大声で叫ぶ番だった。


「だっだっ誰が冬馬と一緒の学校に行きたいなんて!!」

「アレッ、違うの?」

「あったり前でしょっ!! 一体何を根拠にそんなことを思ってたのよ!?」

「だってさー、冬馬兄ちゃんってカッコイイじゃない!」  


 腰まである自慢のロングの黒髪を一束手に取ると、葉月はベッドに腰掛けたままで熱心に枝毛チェックを始めた。枝毛チェックをしながらも葉月の口は器用に動く。


「それに冬馬兄ちゃんってすごくモテるしねー。あ、そうだ! あたし、お姉ちゃんにこの話してたかな? あのね、今年のバレンタインの日に友達と家の前で遊んでたら、女の人が何人も来て冬馬兄ちゃんの家にチョコ置いていったの。そのうちの何人かはどうしても勇気出せなくて、あたしにチョコ渡すの頼んだ人もいたんだよ!」


 桃乃は黙って妹の話しを聞いていた。

 今年のバレンタインに冬馬にチョコを渡そうと、 学校だけではなく家にまで押しかけた女生徒達がいた事は桃乃も知っていた。

 その次の日、クラスメイトが冬馬に合計幾つチョコを貰っていたかをしつこく訊ね、冬馬がそれをはぐらかしていた光景を思い出す。  

 葉月はふと枝毛チェックの手を止めた。


「そういえばお姉ちゃん、確か去年から冬馬兄ちゃんにチョコあげてないんだよね? ね、どうしてなの?」  


 確かに桃乃は去年から義理ではあったが、冬馬にチョコを渡さなくなっていた。

 それは冬馬が自分のことを急に「桃太郎」と呼ぶようになったのでそれが嫌で仕方のない桃乃はその次の年からチョコをあげるのを止めたのだ。


「お姉ちゃんがその気ないんだったらあたしが冬馬兄ちゃん貰っちゃおうかな~?」

「ふ~ん、そうすれば?」


 ややふざけ気味の葉月の挑発を桃乃は適当に流した。


「ん~、でもなぁ~……」  


 毛先を自分の人差し指にクルクルと巻きつけながら葉月は小さく眉をひそめる。


「冬馬兄ちゃんは優しいしー、カッコイイしー、スポーツマンだしー、確かに彼氏にするにはいいんだけどさ……」

 

 自分が適当に打った相槌に本気で真剣に答えている十一歳の妹を見て、桃乃は笑いを堪えるのに苦労していた。


「でもちょっとまだ子供っぽい所があるからなぁ……。だからやっぱりあたし、裄人兄ちゃんがいい! 」

 

 桃乃はここで我慢できずにとうとう吹き出した。


「あ~! なんで笑うのよお姉ちゃん!」

「だって葉月、あなたと裄兄ィ、一体何歳離れてると思ってるのよ?」  


 西脇(にしわき)裄人(ゆきと)は冬馬と五歳違いの兄だ。  

 柔和な顔立ちでスラリと背が高く細身の裄人は、男性ファッション誌の表紙モデルを務めてもおかしくない容姿を持っている。  


「たった九つしか違わないじゃん!」

 

 と葉月が口を尖らせる。


「だって裄兄ィは今年で二十一になるのよ? 葉月みたいなまだ小さな子供を相手にするわけないでしょ」

「そんなことないもん! だってこの間も裄人兄ちゃんさ、『葉月ちゃんが大きくなったらお嫁さんにもらいたいな』って言ってくれたもん!」

「葉月、それはね、裄兄ィお得意のリップトークなのよ」


 裄人は綺麗な女性とあらば誰彼かまわず優しくせまり声をかける、所謂プレイボーイだ。  

 今まで桃乃が見てきた中で、裄人の側に寄り添う女性が同じ女性だったことはほとんど無いといってもいいほど、裄人の姿を見かける度にその横にいる女性は大抵違う女性だった。


「ううん違うってば! 他の女の人にはそうだけどあたしのは違うのッ!」


 しかしそう叫んだ後でなぜか葉月の声のトーンが落ちる。


「……うん……。でも確かに裄人兄ちゃんってさ、女の人に優し過ぎるよね……。そこが裄人兄ちゃんのたった一つの、最大の短所かもしれないね……」  


 葉月は小さな手を片頬につけ、はぁ、と小さくため息をつき、その大人びた仕草に桃乃は再び苦笑した。

 その時、階下から千鶴の声が聞こえてくる。


「葉月、まだ起きているの?もう遅いから早く寝なさいね」  

 

 桃乃の部屋の壁時計の針はすでに十時半を回っている。


「いっけない!」

 

 葉月は慌てて立ち上がり「じゃお姉ちゃんお休み~」と言いながら部屋を出ていった。  


 部屋に一人残った桃乃は教科書もノートもまだ用意していない机に向かい、小さく息を吐く。

 もう今夜の予習をする気持ちは吹き飛んでしまっていたが、なんとか気持ちを奮い起こして物理の教科書を広げる。


( そういえば冬馬って理数系に強いから、物理って得意そう…… )


 ハッと我に返る。

 また無意識に冬馬のことを考えてしまった桃乃は慌てて二三度頭を振って冬馬を意識の外に追いやった。

 今日家に帰ってきてから頭の中に何度冬馬が出てきただろう。

 しかし意識の隅へ追いやっても、桃乃の頭の中にはすぐにまた冬馬の姿が現れる。



 いつも気付くとまるでそれが至極当たり前の光景のように、冬馬はいつも側にいた。

 最近、ふとしたきっかけですぐに冬馬のことを考えてしまうのは “ 昔からの幼馴染だから ”、そして「桃太郎」と呼ばれていることでイライラさせられているから。

 きっとそのせいなんだ、と桃乃は思った。

 しかし心の奥底から声にならない声がする。




 ………………本当にそれだけ?




 自分の気持ちなのになぜかよく分からなかった。

 

( 結局、今日はお母さんのあの言葉が発端だったなぁ…… )  


 その後約一時間机に向かって熱心に予習を続けた桃乃は、枕元の目覚ましをかけると急いでベッドにもぐり込んだ。



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