彼女の位置、そして彼の位置
「しっかしウチの冬馬くんにも参りますよ」
桃乃を助手席に乗せ、赤光が充満するトンネルの中をスローペース気味に運転しながら裄人が愚痴り出す。
「いきなり携帯に電話よこしてきてさ、“ 兄貴っ! 悪いけど桃乃のとこに行ってくれ! ” だよ? 俺、デートに向かう途中だったのにさ」
「ええっ!? じゃあ裄兄ィ、デートをすっぽかしてきちゃったの!?」
「まさか! 連絡取って時間をずらしてもらったよ。でもこの埋め合わせ、後で高くつきそうで怖いけどね」
「大変だね、裄兄ィも」
ため息をつく裄人の姿に桃乃は同情の視線を送った。
「もしかしてその相手って、この間 “ まだ落とすのに時間かかる ” って言ってた女の人?」
「よくそんなこと覚えてるね! 桃乃ちゃんは記憶力がいいんだなぁ」
前方に固定していた目線を一瞬だけ助手席に切り替え、裄人は感心した面持ちで言う。
「でも残念! その娘じゃないですよ」
「……裄兄ィ……」
視線の種類を “ 同情 ” から “ 軽蔑 ” に変更し、桃乃は運転席の主を見上げた。
「なに?」
「好きな人がいるのになんでそうやって他の女の人と簡単にデートできるの?」
「……ん~……、そう正面切って問われちゃうと返す言葉が無いんだけどさ…………」
背筋を正し、裄人はハンドルを握り直す。そして前方に視線を向けたままで答えた。
「……たぶん俺、本気で女の子を好きになったことがないからだと思うんだ」
驚いた桃乃は裄人の横顔を見上げる。
「エッ!? じゃ裄兄ィは別に好きじゃないのに色んな女の人と付き合ってるの!?」
「いやいや違う違う! もちろん今まで付き合った女の子達は皆好きだったよ? だけどさ俺、“ どうしてもこの娘じゃなきゃダメだ ” って思える娘とまだ出会ったことがないんだ。だから今みたいに色んな女の子とたくさん付き合えるんだと思う」
「ふぅん……」
そんな曖昧な返事をした後、ほんのわずかの間だけ車内は静かになった。
助手席の窓から後方に流れ続ける赤い光を眺めていた桃乃はここである事実に気付く。
「裄兄ィ、この方角ってカノンと反対方向じゃない?」
「カノン?」
裄人は不思議そうな顔で逆に問い返す。
「なんで桃乃ちゃんの高校になんか行くんだい?」
「だって冬馬は今日部活でしょ?」
「部活? …………あぁそっか……なるほど、部活ね……」
口元に手をやり裄人はそう呟く。しかし車の進路にも速度にもどちらにも変化は起きない。
「えっ違うの?」
「うん、とりあえず行き先は俺に任せておいてくれないかな? あっそれよりさ、この間のアレ、どうだった?」
「アレって?」
「ホラ、【 魂が魅かれあう彼方で 】さ」
「あぁあの映画!?」
つい数日前に観たその映画の感動がまだ冷め切っていない桃乃は、声を弾ませて即答する。
「すっごく良かった! ラストが特に!」
「ラストってあのシーンだろ? あの廃墟の跡地に一人で佇んでいるヒトミのすぐ後ろに、いつのまにかテツがそっと立っていてさ、ヒトミの名前を呼んで言うんだよな」
裄人は軽く咳払いをすると、クライマックスシーンのテツの台詞を器用に真似る。
『 ── ほら 僕の言った通りだろう……? 僕達の魂は必ずまたここで魅かれあうって 』
口調も声色も主人公のテツにあまりにも良く似ていたので、桃乃は思わずはしゃいだ声を上げた。
「わぁっ裄兄ィ、すっごく似てる~! 裄兄ィもあの映画見たの?」
「うん、桃乃ちゃん達が見に行った日と同じ日にね。ペアシートだったろ?」
「じゃ、あのチケットって、もしかして裄兄ィが……」
「そう、俺が取ったよ。冬馬は部活で毎日帰り遅いしさ、チケットを代わりに取るの頼まれたんだ。俺もあの映画を観に行くつもりだったからまとめてご用意させていただきました。良かったでしょ? 映画も座席も」
そして桃乃の頬が赤らんだのを見て裄人はフフッと笑う。
「あれ? もしかして冬馬の奴、映画の最中になんかイタズラでもしてきた? いきなり触ってきたとかさ」
「……!」
「あらら、その顔は図星みたいだね。ハハッ、しょうがないなぁ、冬馬くんは」
車はトンネルを抜け、上空に空が戻る。
少しずつだが夕暮れ空は夜空に切り替わり始めていた。
「で、その時怒ったのかい、桃乃ちゃんは?」
「うぅん……。だ、だって上映中だったし」
「あぁそうだよね。“ 止めて ” なんて言えないか。映画館の暗闇ってかなり使えるからなぁ……。冬馬の奴、そこまで計算してたのかな。どう思う、桃乃ちゃん?」
「し、知らないっ」
「でもさ桃乃ちゃん、できれば冬馬のちょっとぐらいのイタズラは寛大な心で許してあげてくれると兄としても嬉しいな。なんせやっと桃乃ちゃんとお付き合いできるようになってさ、あいつとにかく嬉しくてしょうがないんだよ。不器用で今まで自分の気持ちを上手く伝えられなかった分、ここぞとばかりに一気に大解放しているんじゃないかな」
裄人は笑いながらそう言った後、珍しく少しだけ真剣な表情を見せた。
「でさ、さっきの話にちょっと戻るんだけど」
「さっきの話って?」
「【 魂が魅かれあう彼方で 】のこと。あの映画のテツとヒトミもさ、お互いに “ この人じゃなきゃ絶対ダメなんだ ” っていう関係だっただろ? 俺もいつかああいう恋愛をしてみたいよ。残念ながら俺、そこまで大切に思える女の子にはまだ出会ったことがないんだよね」
裄人は上着から煙草を出したが、桃乃を見て思い出したようにまたポケットの中にそれを戻す。
「ね、桃乃ちゃんはどう? 冬馬は桃乃ちゃんの中でテツの位置にいるかい?」
「えっ……?」
いきなりのその質問に桃乃は答えられなかった。戸惑うその様子を見て裄人はまた優しく微笑む。
「……さすがにまだそこまではいってないか。でもね桃乃ちゃん。冬馬にとって、桃乃ちゃんは思いっきりヒトミだよ。いや、もしかしたらそれ以上の存在かもしれないな」
しばらく車は市内を走り続け、車内には二度目の静寂が訪れていた。
桃乃は今の裄人の問いを何度も胸の中で反芻する。
(……私にとっての冬馬の位置……?)
しかし考えは上手くまとまらなかった。
やがて車はある場所からは死角になってこちらが見えにくい場所に隠れるように静かに停まる。
「ほら、あそこ見てごらん」
裄人が指差す方角を見た桃乃はその光景に驚きの声を上げた。
幹線道路の一部を大幅に壊して「工事中」の黄色のランプが何度も点滅している。
赤いコーンが行儀よく一列に並び煌々と輝くその様は、テリトリー内に外部者の侵入を頑なに拒む、作業現場からの強い意思表示だ。
至る所で激しいドリル音が響き、電気仕掛けのマネキン人形が赤く光る警告灯を無表情で左右に振り続けている。
作業着に身を包んだ男達は、ある者は声を嗄らして叫び、ある者は土を掘り起こし、ある者は重機の操作と、それぞれが全神経を集中させて作業に没頭していた。
「冬馬……!」
ウィンドウ越しに見た光景に、桃乃は車内で小さく叫んだ。
街外れの工事現場の一角に冬馬はいた。
上の作業着を脱ぎ、黒のランニング姿で真剣な表情で荷押し車を押している。
荷車の中身は大小様々の砕かれたコンクリートの破片が山のように積まれていた。
冬馬の顔にはあちこちに土埃が付き、おそらく元は白色だったはずの軍手も今は炭のように真っ黒だ。
「ガラ拾いっていうらしいよ、あれ」
ハンドルに深く覆い被さり、桃乃と同じように外の光景を見ていた裄人が説明する。
「ガラ拾い……?」
「うん。“ ガラ ” ってああやって削りだしたコンクリートのことなんだって。冬馬が言ってた」
「冬馬はなぜこんな事をしているの?」
「だって今日桃乃ちゃんの誕生日だろ? あいつさ、親に貰った小遣いじゃなくて自分で稼いだ金で桃乃ちゃんの誕生日プレゼント買いたいって思ったらしくってさ、この連休中ずっとこの短期バイトに明け暮れてたんだ」
「……!」
裄人の説明に桃乃は絶句する。
「数日間だけの条件で探していたから、なかなかバイト先を見つけられなかったようだけどね。そんでさ、こういう肉体作業のアルバイトって高校生でもOKのところが多いらしいんだけど、大抵が高三からなんだって。だから困った冬馬は俺になんて言ったと思う? “ 兄貴頼む! 名前貸してくれ! ” って頼み込んできたんだ」
その時の事を思い出し、裄人は小さく笑う。
「あいつも相当切羽詰まってたんだろうね。でも結局ここの現場作業のアルバイトで使ってもらえることになったらしいよ」
「じゃ、じゃあ冬馬は連休中、ずっとこのアルバイトをしてたの……?」
「うんそうだよ。部活が終ったら即行でここに通ってたみたいだね。だからここんとこ家に帰ってきて飯食ったら、早々に部屋に引っ込んで死んだようになって寝てたよ」
「……私には部活の用があるって……」
「そりゃ言えないよ。黙ってハイクオリティなプレゼントを買って桃乃ちゃんを驚かすつもりなんだからさ」
断続的に続いていた耳をつんざくような削岩機の音がやっと止んだ。
「今日はバイト最終日で桃乃ちゃんとの約束もあるから三時であがるはずだったんだって。でも工事が大幅に遅れててなかなかあがれなくてさ、気付いたらもう四時を過ぎてたらしいよ。それで俺の携帯に焦って連絡してきたんだよ」
「……そ、そうだったの……」
「あ、冬馬なんか言われてるぞ」
裄人の声で桃乃は急いで冬馬の方を見た。
黄色のヘルメットをかぶった現場監督らしき中年の人物に向かって何度か頷くと、冬馬は一礼をして軍手を外した。
「終わったみたいだな。後は日当貰うだけか」
しかし冬馬はそのまま工事現場の脇に建ててある仮設事務所の方には行かず、工事現場の隅に走るとポケットに突っ込んでいた携帯を取り出した。
数十秒後、裄人の携帯が鳴り出す。携帯のディスプレイには「冬馬」と表示されていた。
「ようやく来ましたか。桃乃ちゃん、ちょっと声出さないでいてね」
裄人はそう桃乃に伝え、携帯を片耳に当てる。
「冬馬か? 終わったか? あぁ、今桃乃ちゃんと一緒にいる。うん、今車の中にいるよ。俺は外で煙草タイム中。…………ん? あぁ、安心しろ、バイトの事は何も言ってないよ。……えっ? ……俺の用事? あぁ、大丈夫だ。相手の子に時間ずらしてもらったから心配するな。そうだ、それとお前の心配、当たってたよ。俺が百合ヶ丘に行ったらさ、桃乃ちゃん、男二人にナンパされてる真っ最中だったよ。そいつらに強引にどこかに連れていかれるところだった」
桃乃は焦り気味の表情で電話をかけている冬馬の横顔を見つめる。視界の中央にあるその横顔は微かに揺らぎ、ぼんやりと滲み始めていた。
「……あぁ大丈夫だって。その前にそいつら追っ払ったから。……うん、……うん。分かった。そうだな。お前焦んないで顔くらいちゃんと洗ってからこいよ? ……うん。……あぁそうなのか。じゃあそうしろよ。すぐ済むだろ? ……うん、分かった。携帯に連絡くれたらさ、桃乃ちゃんを百合ヶ丘に連れていくから。……あぁ、じゃな」
裄人は携帯を切ると愉快そうに桃乃に告げる。
「桃乃ちゃんがナンパされて危なかったこと話したら、冬馬の奴、すごく焦ってたよ!」
しかしこの裄人の言葉は、ほとんど桃乃の耳には入っていなかった。仮設事務所に一目散に走っていく冬馬の姿だけをひたすら目で追う。そんな桃乃の心の揺れを把握しているにもかかわらず、裄人はさりげない口調で先を続けた。
「冬馬さ、事務所にあるシャワー室で泥を落として、桃乃ちゃんのプレゼント買ったらすぐ向かうって。どれ買うかもう決めてるみたいだから一時間もかかんないと思うってさ」
冬馬に関してのすべての情報を言い終わると裄人は車内のデジタル時計に目をやった。
時刻は五時四十分を表示している。
身じろぎもせずに、ウィンドウ越しからずっと仮設事務所を見つめている桃乃を見た裄人の唇の両端が小さく上がった。
「……さてさて、どうですか桃乃ちゃん? 冬馬は少しはテツに近づいたかな?」
車のエンジンキーを回しながら涙目の桃乃の顔を覗きこみ、裄人は意味深に微笑んだ。