五月五日
五月五日。この日は桃乃の十六回目の誕生日だ。
母の千鶴は朝から上の娘のバースディケーキ作りに精を出していた。
(でも桃乃、今日家にいるのかしら……)
千鶴は二階を見上げると生地作りの手を止め、桃乃の部屋へ向かう。
「桃乃、入るわよ?」と声をかけてからノックをして部屋に入ると、クローゼットを開けていた桃乃が振り返った。
「なに? お母さん」
Aラインのワンピースを手にしている娘の姿を見て千鶴は微笑む。
「あらあら、まるでこの間、裄人くんと出かける前の葉月みたいね」
「そ、そう?」
「今日、冬馬くんと会うんでしょ?」
「お、お母さん知ってたの?」
「お母さんは何でもお見通しよっ」
本当は葉月に教えられて知ったのに、千鶴はちゃっかりと自分の手柄にする。
「冬馬くんとお付合いしてるんでしょ?」
「……うん」
恥ずかしそうに桃乃は頷く。
「いいじゃない。お母さんは大賛成よ? だって冬馬くんは優しくて素敵な男の子ですもの。でもお父さんは桃乃に彼が出来たって知ったら、きっと慌てるでしょうね」
千鶴はその時の雅治の様子を勝手に想像し、一人笑う。
「……お父さん怒るかな?」
「怒りはしないわよ。ただね、ほら、男親にとって娘って特別な存在だから、そういう意味で心配するとは思うけどね」
「ふぅん……」
「桃乃、今晩は家で誕生日祝えるの? お母さん今ケーキ作っているんだけど」
「うん。七時くらいまでには帰ってくるわ。冬馬がきっと家で誕生日祝う用意してるだろうからって……」
「冬馬くんってやっぱり優しいわね。うちに気を使ってくれてるのね。あ、その服、お母さんにも見せて」
桃乃の手からワンピースを取ると千鶴はそれを丹念に眺め出す。
「今日は何時に出かけるの?」
「冬馬が夕方まで用事があるみたいだから五時に待ち合わせ」
「あらそんなに遅いの? でもそれじゃあ大して一緒にいられないわね」
「うん……」
桃乃は軽く俯いた。
「そうね、どうしたらいいかしら……」
千鶴は頬に手をやりながら考え込んだ。
「じゃあ桃乃。今日の桃乃の誕生祝いは八時からにしましょう。雅治さんたら今朝 、頑張って早く帰ってくるなんて言ってたけど、どうせ七時になんて絶対帰ってこられないわ。だから八時までに帰ってらっしゃい」
「うん、分かったわお母さん」
桃乃は恥じらいながらも微笑んだ。千鶴が冬馬と付き合うことに全面的に賛成してくれたことが嬉しかったのだ。
「今日着ていく服、これに決めちゃったの?」
「うぅん、まだだけど」
「じゃあお母さんに選ばせて!」
張りきってクローゼットの中の服をチェックしはじめようとする千鶴を桃乃は必死に押し留める。
「い、いいってばお母さん! だってお母さんの選ぶ服って決まってフリフリの服なんだもん!」
しかし千鶴は全然気にする素振りも無く、 「いいからお母さんに任せて!」と言いながら意気揚々とクローゼットの扉をさらに左右に大きく開け放った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日の夕方、桃乃の家の前に一台の車が急ブレーキ気味の音を響かせて慌しく停車した。
急いだ様子で運転席から降りてきた裄人は倉沢家のインターフォンを押す。
「はい、どちら様ですか?」
インターフォンに出たのは千鶴だ。
「あっ裄人です! あのっ、桃乃ちゃんはもう出かけちゃいましたかっ!?」
時刻は四時半をとうに過ぎている。
「あら裄人くん? えぇ桃乃なら少し前に出かけたわ。冬馬くんと約束あるんですって」
「あ~間に合わなかったかぁ……」
「どうかしたの?」
「いえ、いいんです、じゃまた!」
「裄人くん?」
身を翻し、裄人はまた車に乗り込むとエンジン音を鳴らして去って行ってしまった。
「一体どうしたのかしらね……」
千鶴は受話器を置くとおっとりとした声でそう呟いたが、オーブンで焼いているケーキのことを思い出してまたいそいそとキッチンの中に戻っていった。
車は百合ヶ丘公園を目指して疾走する。
公園の駐車場に車を停めた裄人は、冬馬から聞いた噴水の場所へ小走りで向かった。
今日は祝日でまだ完全に日も暮れていない時刻なので、公園内には大勢の人がいる。
(桃乃ちゃん どこかな……)
裄人は噴水の近くにいるはずの桃乃を探す。しかし噴水の場所には姿が確認出来なかった。
グルリと周囲を見回した裄人の目に、タイル舗装された道の上で何やら取り込み中のグループが映る。
(あ、いた! …………あれ?)
やっと桃乃の姿を見つけた裄人は怪訝そうな顔をして足を止めた。
桃乃の両横を二人の若い男が取り巻いていたのだ。 男達は代わる代わる桃乃に声をかけている。
「よかったら俺らとこれから遊びにいかない?」
「なぁなぁ行こうよ? 俺らさ、けっこー面白い所色々知ってんだよね」
(なんだ ナンパされてんのか)
桃乃の置かれている状況を飲み込んだ裄人は苦笑した。
「い、行きません!」
男達に挟まれて桃乃は脅えているようだった。右側の男が素早く桃乃の腕を押さえ込む。
「そんな冷たいこと言わないでさ」
「やだっ、離して!」
「おい、そんな大声出さないでくれよ、俺らまるで無理矢理あんたを誘ってるみたいじゃん?」
「思いっきり無理矢理じゃん」
「あ?」
背後から声をかけられた男達が振り返る。
「あっ裄兄ィ!」
桃乃がホッとしたように叫ぶ。
「な、なんだよ、お前?」
長身の裄人に上から見下ろされて多少気後れしながらも、左側の男が肩を揺すりながら虚勢を張ってきた。
「俺はこの娘のお迎え役ですが?」
裄人は目の前の二人の男の顔をそれぞれサラリと見比べると、穏やかな微笑みの中に優越感をたっぷり混ぜた表情で言う。
「う~ん……キミ達のその顔じゃあ、この娘とは全然釣り合いが取れないなぁ。悪いけどさ、他を当たってくれよ?」
二人組は憎々しげに舌打ちをしながら、「やっぱり男待ちだったのかよ」と負け犬にありがちな捨て台詞を吐いて去っていった。
「桃乃ちゃん、大丈夫?」
裄人は喉元を押さえている桃乃を見て心配そうに言った。
「怖かった……強引にどこかに連れていかれるかと思った……」
「そうだね。良かったよ、間に合って」
「……でも裄兄ィ、なんでこんな所にいるの?」
「あぁ、そうだそうだ!」
用件を思い出した裄人は途端にまた慌てだす。
「実はついさっき、俺の携帯に冬馬から連絡あってさ」
「冬馬から?」
「うん、五時に冬馬とここで会う約束してたんだろ? あいつさ、ちょっと用事が長引いて間に合いそうにないんだって。だから桃乃ちゃんにそれを伝えて、ついでに自分が行くまで桃乃ちゃんと一緒にいてくれって言われたんだよ。公園で桃乃ちゃんを一人で待たせておいたら心配だからって。でも冬馬の心配、見事に当たったね」
「冬馬、なんの用事で遅れるの?」
「あぁそれはさ……」
と裄人は続きを言いかけたが、一旦言葉を切り、手の中にあった愛車のマークが彫られたキーリングを人差し指にかけて遠心力でクルリと回す。いくつかの鍵がついた束が互いにぶつかり、しゃらん、と音を立てた。
「……知りたい?」
「う、うん。知りたいっ」
「よし! 百聞は一見にしかずだ、じゃこれから行こう」
「行くってどこへ?」
「もちろん冬馬くんがいるところへですよ!」
子供が悪戯を企むような幼い笑顔を見せ、裄人は「おいで」と言うと駐車場に向かって歩き出す。
急いでその後を追うと、先を行く銀のキーリングが桃乃を誘うように、しゃらん、とまた小さく鳴った。