嵐の予兆
バーベーキュの夜から二日経ち、またカノンの一週間が始まった。
冬馬はいつも通りバスケ部の朝練に汗を流し、桃乃と沙羅はこの日の朝、テニス部に入部をすることを決める。今週の後半からゴールデンウィークに入るとあって、カノンの学生達もどこか浮き足だつ一週間の始まりだった。
理事長の黒岩は毎朝七時きっかりに理事長室へ姿を現す。
この日も黒岩は定刻通りに中央塔三階の理事長室の扉を開けた。しかし開けた瞬間、普段は滅多に表情を変えない黒岩の眉が訝しげに動く。中に人がいたのだ。
「そこで何をされているのですか……?」
逆光でその人物の顔がよく見えない。
黒岩の声でオフィスデスクの前に立っていたその人物が振り返る。
「……矢貫先生でしたか」
理事長室の中にいたのはスーツを着た誠吾だった。
「お話があって来ました」
いつもは遅刻魔と呼ばれているこの男がこんな朝早くに真剣な表情で現れたのを見て、黒岩は誠吾が何の用件で来たのかを瞬時に察した。
「まぁそこにおかけ下さい」
黒岩はデスク前にある応接セットのソファに座るように勧める。
「いえ、ここで結構です」
「そうですか……」
黒岩はゆっくりと自分の椅子に座り、デスクの上に両肘をついて手を組むと自分の前に立つ誠吾を見上げる。
「……お話とは先週の事故の件ですな?」
「はい」
「やはりそうですか。しかしこの件では矢貫先生とお話しても平行線のままだと先週申し上げたはずですが?」
「理事長、先週の定例会議を途中で退席したことは謝罪します。しかし、笹目の処分にはどうか恩情をかけてやっていただけませんか。お願い致します!」
誠吾は体を二つに折って大きく頭を下げた。
予想通りの陳情に黒岩はゆっくりと大きな息を吐く。
「……矢貫先生、一つだけお分かり頂きたいのですが、私もその流産した女生徒には憐憫の情を催しております。しかし、学園に規律がある以上、そしてその規律に従っている多くの生徒達がいる以上、規律を乱す生徒に処分を下すのは理事長としての私の役目なのです」
「理事長の仰ることは俺にもよく分かります。ですが、笹目をこのまま外へ放り出す事に俺は納得できないんです!」
「矢貫先生……、あなたはなぜそこまでその笹目という女生徒のために必死になるのですか? ご自分の担当クラスの生徒だからですか? それとも受け持っていた授業中の事故だからですか?」
黒岩はここで一旦言葉を切った後、静かに核心に触れる。
「……あるいは一年半前のことをまだ引きずっていらっしゃるからですか……?」
誠吾の顔色が変わった。
青ざめたその顔色を見て黒岩はまた大きく息を吐いた。
「……矢貫先生、私はあの当時も申し上げたはずです。あれは矢貫先生のせいではありません。先生が笹目という女生徒をそこまで庇うのは、あなたが勝手にお持ちになっている罪悪感を、この女生徒を助けることで少しでも軽くしようと思い込んでおられるからではないですかな?」
誠吾はガックリと肩を落とした。
室内にしばしの間、静寂が訪れる。
やがて誠吾は弱々しい声で黒岩の発言を認めた。
「……そうです……その通りです……」
「矢貫先生、処分に私情を入れることは相成りません。私は私の信念に基づいてその女生徒の処遇を決定したいと思います」
黒岩のその宣告を聞いた誠吾は打ちひしがれた顔でスーツの内ポケットから一通の封書を取り出した。
封書の表書きを見た黒岩が怪訝な顔で眉をひそめる。
「……理事長、確かに理事長の仰る通り、俺は笹目を助けることで自分の中にヘドロのように溜まっているあの時の罪悪感を少しでも減らしたかったのかもしれません……」
封書を手にしたまま、誠吾は低い声で今の気持ちを吐露する。
「……ですが、俺は一昨日笹目の見舞いに行った時、あいつが泣きじゃくりながら迷惑をかけてごめんなさい、と俺に謝った震える背中や、笹目の母親が、どうか退学させないで欲しいと必死にすがってくる姿を見て俺は決心したんです。絶対に笹目を退学処分にはさせない、と」
誠吾は自らの手で「辞職願」と書いた封書を黒岩の前に静かに置いた。
「そしてそれが出来なければ俺はここを辞めよう、とその時決めたんです。……理事長、ここに赴任したばかりの頃、理事長には随分とご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。そして俺は柳川先生にも迷惑をかけっぱなしでした」
誠吾は一歩後ろに下がると黒岩に向かってもう一度深く一礼をした。
「黒岩理事長、今までお世話になりました」
そして誠吾は失礼します、と言うと静かに理事長室を出ていった。
残された黒岩はたった今誠吾が置いていった辞表を手に取った。そして眼鏡を外すとそれをデスクの上に置き、長々と深い息を吐いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
その日の昼休み、桃乃は沙羅からチクチクと責められていた。
「あ~あ、あたし、モモとは親友になれたと思ってたのになぁ……。親友に彼氏のこと教えないなんてありえないよ」
「だ、だってあの時はまだ彼じゃなかったもん……」
「それは金曜に電話で聞いたけどさ、じゃあなんで今まで全然冬馬のこと教えてくれなかったの?」
「だ、だってそれまではただの幼馴染だったわけだし……」
「あたし前にモモに聞いたよね? 『 男子校舎に知り合いはいる?』って。そしたらモモ、『 いないよ 』って言ってたじゃないのよ~!」
「そ、それはね、わざわざ言うことでもないかな、と思って……」
「ホラ~! そこが親友じゃないってことなのよ~!」
「分かったから、これからはちゃんと言うから……ね?」
桃乃がそう言った途端、沙羅は「ヤッター!」と大声を出しながら手を合わせて喜び、桃乃の側にズイ、と顔を寄せる。
「モモのその言葉を待ってたのよ! じゃ早速教えてちょーだい! ねぇねぇ、三日前の金曜の夜、冬馬はなんて告白してきたの?」
「えっ! そ、それは言えないよ沙羅……」
「あっズルーイ! だって今『これからはちゃんと言う』って言ったじゃないの」
「で、でも、そういうのって自分の心の中だけに仕舞っておきたいもん……」
沙羅はふーん、と言うと口を尖らせて腕組みをした。
「う~ん、まぁその気持ちも分からないでもないけど…………、ううん、やっぱり分からない! だってさ、もしあたしが要から告白されたら喜んで全部モモに話すと思うもん!」
「ねぇ沙羅、本当にあの人のこと好きになっちゃったの?」
沙羅は元気一杯で「うん!」と返事をする。
「実は要が最初モモと喋ってるの見た時はなんかお調子者っぽくてあまり好きじゃなかったんだ。でもね、あの後あたしと一緒に帰ってる間、ずーっと愛想悪かったの。そんな要の素の部分見たら急に興味湧いてきちゃったんだよね」
「沙羅って愛想悪い人がタイプなの?」
「ううん、そーじゃなくて、なんて言ったらいいのかなぁ……。要ってさ、きっと寂しがり屋だと思うんだよね。でもそれを何とか隠そうとしてわざと強がったりしてるの。そこが可愛いなぁ、と思ったわけね」
「そ、そう……」
桃乃は箸で鳥唐揚げをつかんだまま呆気に取られて沙羅の話しを聞いていた。
「でも困ったよね、モモ」
「えっ何が?」
「だってさ、モモの彼氏の冬馬と、あたしの好きな要ってなんだかすっごく仲悪そうじゃない?」
「あ!」
桃乃は思わず叫んだ。その拍子に鳥唐揚げが弁当箱の中に落下する。
「どしたのモモ?」
「そういえば冬馬言ってたの。今週中にあの柴門って人に話しをつけに行くって……」
「エエッ!? それ危険だよモモ~!」
「沙羅もやっぱりそう思う……?」
「思う思う! モモ、なんとかしなきゃ!」
「うん。今日の夜、冬馬にもう一度話して止めてもらうように言うわ」
「そのほうがいいよ! もし先生にケンカしてる所なんか見つかったら停学は絶対に間違いないもん!」
しかし二人が冬馬と要の身を案じて話し合っている頃、すでに冬馬はそれを実行に移していた。
昼休みに入り、また机の上に足を投げ出して座っている要の前に冬馬が無言で近寄る。
「なんだよ」
三日前に思いきり面子を潰された要が下から冬馬を睨みつける。
「今日の放課後、屋上に来い」
冬馬はそう言い捨てると教室の外へと一人出ていってしまった。