錯綜する恋模様 【 前編 】
誠吾が怒りに我を忘れて第一会議室を飛び出した頃、桃乃は沙羅と一緒に一年二組の教室にいた。
二人は今日の放課後、興味のある部活の見学に回っていたのだ。
「ねぇ沙羅、もうこんな時間だよ」
「そうだね、だいぶ暗くなってきたしどのクラブに入るか相談しながら帰ろっか?」
「うん」
並んで教室を出た後、廊下を歩きながら沙羅が悔しそうに言う。
「あ~自分の体が三つくらいあったらいいのになぁ」
「沙羅は入りたい部が多すぎるのよ」
「だってさ、せっかくだもん、色んなことをやってみたいじゃない?」
「でもさ、本当にそろそろ決めようよ沙羅」
桃乃は靴箱から外靴を取り出し、気の多い沙羅を促す。
「じゃあやっぱり球技関係がいいな、あたし!」
「球技? 琴はどうしたの?」
「だって今日の見学で足痺れちゃったんだもん! テニスとかバレーとかバスケとかにしようよ!」
バスケ、と聞いて桃乃の脳裏に冬馬が浮かぶ。
裄人とのあのドライブ以降もまだ桃乃は冬馬と顔を合わせてはいなかった。
( 冬馬、バスケ部に入ったのかな…… )
そう思いながら沙羅と正門に向かって歩いていると、男子校舎に隣接されている体育館の方から微かにホイッスルの音が聞こえてきた。
それに気付いた沙羅はワクワクした声で体育館を指差す。
「モモ、ちょっと外から覗いてみようよ!」
「えっダメだよっ。そっちの校舎や体育館には入っちゃいけないでしょ?」
「入らないってば。外から見るだけだもん、全然問題ないって! 行こ行こ!」
沙羅は桃乃の手を取り、強引に男子用の体育館の窓まで引っ張る。
「わぁ~! やってるやってる~! ほら、モモも見てごらんよ!」
沙羅に何度もしつこく言われて結局桃乃もそっと体育館の中を覗いてみた。
中では体育館を半分に分けてバレー部とバスケ部で熱心に基礎体力を上げる運動をしている真っ最中だった。規則正しく鳴り続けるホイッスルの音に合わせ、バレー部は腹筋、バスケ部は腕立て伏せをしている。
( 冬馬だ……! )
体育館の中に冬馬の姿を見つけた桃乃は、心の中でそう叫んだ。
背番号14をつけた冬馬は必死に腕立て伏せをしている。額から流れ落ちる汗がコートにいくつもポタポタと落ちていき、大量の汗のせいで前髪が大きく乱れていた。
桃乃は吸い寄せられるように腕立て伏せを続けている冬馬の姿だけを目で追う。
「よ~し腕立て終了!」
「腹筋終了!」
ホイッスルが最後に大きく鳴って止まり、バレー部とバスケ部のキャプテンの声がそれぞれ体育館に響いた。
元々地声の大きい沙羅がさらに大きなボリュームで叫ぶ。
「Wao ! みんな一生懸命だね!」
「シッ、沙羅! 気付かれちゃうよ!」
桃乃は慌てて沙羅をたしなめたが、一人の部員が沙羅の声に気付いた。
「あれっ? 見ろよ、あんな所から見学してる子がいるぜ?」
タオルで汗を拭いていた冬馬はそれを聞き、他の部員と同じように窓の方を見た。
その時、桃乃と冬馬の視線が完全に合う。
汗を拭く手を止めて驚いたような顔をしている冬馬から慌てて目を逸らし、桃乃はすぐにその場から逃げるように離れた。
「あれっモモ? どうしたのー?」
正門に向かって走り出した桃乃を沙羅は急いで追う。
桃乃達が走り去って行った後の光景を見た冬馬は、片手を上げてバスケ部キャプテンの新開潤一の前に駆け寄った。
「キャプテン!」
冬馬の呼びかけに潤一が振り返る。
「どうした西脇?」
「あの、今少しだけ抜けていいですか?」
「まだストレッチと基礎練が終わったばかりだぞ? もうバテちまったのか?」
「いえ、そうじゃないんスけど……すぐ戻ってきますから!」
「……おい西脇、そういうことは練習に入る前に済ませとけよな」
潤一はどうやら冬馬がトイレに行くと思ったようだ。
「すいませんっ!」
冬馬はそう言うや否や、稲妻のように体育館から飛び出して行った。潤一はバスケットボールを手に、その様子を見て呆れたように呟く。
「……西脇の奴、相当切羽詰ってたみたいだな……」
冬馬は体育館を飛び出すと男子校舎の玄関まで必死に駆ける。
胸騒ぎがしていた。
桃乃が走り去った後すぐにどこからか要が現れ、その後を追っていった所を冬馬は見てしまったのだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「モモ~、モモってばちょっと待ってよ~!」
沙羅は先を走る桃乃の名を呼び続ける。体育館から大きく離れると桃乃はやっと足を止めた。
「ふぅ、やっと追いついた! ねぇモモ、どうして急に走り出したの?」
「だ、だって沙羅が大きい声出すからよっ。中の人に見つかっちゃったじゃないっ!」
「なんで? 別にいいじゃない。外から見ていただけだもん」
正門前で桃乃と沙羅がそう言い合っているところに突然要が現れる。
「やぁ」
「あっ……!」
要の姿を見て桃乃は小さく息を呑んだ。
桃乃と沙羅の前にやって来た要は二人に向かってもう一度笑いかける。
「久しぶりだね桃乃ちゃん」
「あれっモモ、男子に知り合いいたんだ?」
「あ、君の名前はなんていうの? 俺、一年四組の柴門要。この間桃乃ちゃんの彼氏候補に立候補させてもらったんだ」
「え~っ! そうなのモモ!?」
沙羅は青みがかった瞳をクリクリと動かしながら桃乃と要を交互に見る。
「そんなの全然知らなかった~! なんでモモ教えてくれなかったのよ? あ、あたしは南沙羅! モモと同じ一年二組よ。沙羅って呼んでくれて構わないから」
「じゃ俺のことも要でいいぜ。ちなみに沙羅ちゃん、君って実は結構有名人なんだよ?」
「エ、あたしが!?」
「そう。今年の新入生に背が高くてハーフの美女がいるって俺らの間でかなり噂になってるんだ」
「ホントッ!?」
沙羅は白い肌をピンク色に染めて喜んだ。
「本当本当。結構キミのこと狙ってる奴いるから気をつけたほうがいいよ?」
要はポケットに手を突っ込んだ体勢で小さく体を揺らしながら喋り続ける。
「それよりもうだいぶ暗くなってきたしさ、良かったら駅まで送ってってあげようか? 人数多い方が楽しいじゃん?」
「あたしは全然構わないけど、モモはどう?」
「私……」
桃乃は困った顔で沙羅の顔を見返した。“ 柴門要には近づくな ” と言われた冬馬の言葉が頭に残っていたからだ。
要は足音を殺して桃乃の前にまでスゥッと近づくと、身をかがめてその顔を覗き込んだ。
「相変わらず警戒してんなぁ……。俺ってそんなに悪い奴に見える? これでも紳士のつもりなんだけど?」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
桃乃が一歩後ずさった時、男子校舎の方角から怒号が響く。
「柴門ッ! 」
聞き覚えのあるその声に桃乃が男子校舎に目をやると、バスケのユニフォームとシューズのままで息を切らした冬馬がこちらに走ってくるのが見えた。
「冬馬……!」
驚いた桃乃が口の中で呟く。冬馬は今にも掴みかからんばかりの勢いで要の前にまで一気に詰め寄った。
「お前一体どういうつもりだ!」
「あ? どういうつもりって言われてもなぁ……。あぁ! じゃあよ、こういうつもりだ、って言ったらお前どうする?」
要はニヤッと笑い素早く身を翻すと、桃乃の背後に回り後ろから覆い被さるようにその肩を抱いた。
「キャッ!?」
驚いた桃乃が小さく叫ぶ。
冬馬の顔色が変わったのを見て、要はまるで見せつけるように桃乃の肩をしっかりと抱き、面白そうに続けた。
「おっとストップ、ストップ! 女の子の前で乱暴なことしようとしちゃいけないなぁ。この娘がビックリして泣いちゃっても知らないぜ?」
「いいからその手を離せってんだよ!」
「おいおい西脇、それはお前に指図されることじゃないだろう? だってお前、別にこの娘の彼氏でもなんでもないんだからよ。その点、俺はこの間桃乃ちゃんに彼氏希望してるってことはもう伝えてるからな。ねっ、そうだよね、桃乃ちゃん?」
要は桃乃の肩を更に密着させるようにグイと引き寄せる。
「ほらほら、熱血少年はサッサと青春に汗を流してきてくれよ。俺はこれからこの娘達を駅まで送らなきゃならないんだ」
しかしそう言いつつも要は更に冬馬を煽る。
「……なぁ西脇、でもよ、もしお前がどうしてもやるっていうんなら今ここで相手してやってもいいぜ? だけど一つ言っておくがな、俺は空手の有段者だ。大怪我しても構わないんならかかってきな」
要に肩を押さえられながらも桃乃は「冬馬やめて!」と叫んだ。
「そうそう、桃乃ちゃんの言う通りだ。この娘の前でぶざまな姿晒したくなかったらサッサと尻尾巻いて行っちまえよ」
「てめぇ……!」
その挑発に冬馬の体内の血液が一気に逆流を始める。我慢の限界を超えたその表情はすでに憤怒の表情に変わっていた。
桃乃が再び「ダメッ冬馬!」と叫んだのと同時に、
「ちょっとターイム!」
と沙羅が両手を広げて冬馬の前に立ち塞がる。
「もう! こんな所でケンカなんかしたらさ、あなた達すぐに学生審問会議っていうのにかけられちゃうよ!?」
沙羅は冬馬を見上げて強い口調で続けた。
「あたし、あなたのことよく知らないけど暴力で解決するなんて野蛮だわ! モモが要と一緒に帰ってほしくないならちゃんとモモにそう言えばいいじゃない! そうすればモモがどうするかきちんと決めるわよ。ねっモモ?」
今この四人の中で完全に主導権を握ったのはどうやら沙羅のようだ。
「ホラ、だから要もモモを離して。あなたに送ってもらうかどうかはモモに決めてもらうことにするから!」
沙羅から催促され、要は渋々と桃乃の肩から手を離すとそのまま数歩後ろに下がった。そして今度は冬馬が桃乃の前にまでゆっくりと歩み寄る。
どんな顔で冬馬を見ていいのか分からない桃乃は伏目がちに視線を上げた。冬馬は桃乃を視線を合わせると、一呼吸置き、静かな声で伝える。
「桃乃……この間は本当に悪かった……。でもあいつと一緒に帰らないでくれ。俺が桃乃をちゃんと駅まで送るから……。頼む……」
( 冬馬、今ちゃんと私の名前呼んだ……!? )
「桃太郎」ではなく、約二年ぶりにやっと自分の名前を呼ばれた桃乃は驚く。
つい今しがたまでの要に向かっての燃えるような目は今は静かで穏やかな色に変わり、冬馬は桃乃の顔を見下ろして再度懇願した。
「頼む、桃乃……」
しばらくお互いを見つめ合っていた二人だったが、やがて桃乃が小さく「うん……」と頷いたのを見ると、沙羅は少し気の毒そうな顔をして要の方に体を向けた。
「残念だけど今日は要の負けみたいね」
要はチッと舌打ちをし悔しそうな顔をするとクルッと背中を向けた。去ろうとする要を沙羅は慌てて呼びとめる。
「あ、ちょっと待ってよ要! どうせだからさ、あたしを送っていってくれない?」
「……はぁ !?」
「だってなんかあたしお邪魔っぽいみたいだし……。エスコートするレディが二人から一人になっただけじゃない。ね? いいでしょ? 帰り道で愚痴のひとつも聞いてあげるから!」
沙羅はそうまくしたてると強引に要の腕を取って引っ張る。
「ほら行こ行こ! じゃモモ、あたしは要に送ってもらうから今日はここでバイバイ!」
「えっ沙羅 !?」
「じゃ~ね~!」
だがその要はまだ抵抗していた。
「ちょ、ちょっと待てって! 俺はそんな……」
「いいからいいから! 早く早く!」
結局沙羅は半ば引きずるようにして要を連れて行ってしまった。
正門前に静寂が訪れ、思いがけず二人きりになってしまった桃乃と冬馬は恥ずかしさからお互い視線を逸らす。地面に視線を落とした桃乃の視界に冬馬のバスケシューズが映った。
「……冬馬、この靴で外に出ちゃいけないんじゃないの?」
「あ、いけね! 靴履きかえるの忘れてた!」
冬馬はそこで初めて自分がバスケシューズを履いたままなことに気付く。
「ここで待っててくれ。部活早退してくるから」
「ダ、ダメよ冬馬! そんなことしちゃ!」
「でもお前の友達も帰っちゃったし、こんな夜道一人で帰せねぇよ。いいから待ってろ。絶対にここにいろよ!? 絶対だぞ!?」
そうくどいくらいに念を押し、冬馬は身を翻すと男子校舎の中に戻っていってしまった。