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そしてあの娘はボイル海老になった



 その日は朝からかなり気温が上がっていた。

 職員室でバサバサと団扇を扇ぎながら、珍しく難しい顔で考え込んでいる様子の誠吾がいる。

 今日で新学期が始まって三回目の金曜日。そして定例会議の日だ。

 自分の担当クラスの笹目梨絵のことを今日の会議であの黒岩理事長に報告しなければならない。

 梨絵になぜ体育をずっと見学しているのかをまだ聞き出していない誠吾は焦っていた。


(今日 笹目が出てくれれば問題ないんだがなぁ……)  


 そんな一縷の望みを胸に、誠吾は次の女子一年一組と二組の合同授業に向かう。グラウンドに着くともう女生徒達は全員集まっており、けらけらと楽しそうに騒いでいた。


「皆揃ってるかー! じゃあ整列!」  


 誠吾の掛け声で女生徒達はお喋りを止め、きちんとクラス毎に三列に並ぶ。


「さぁ今日は走り高飛びをやるぞー! お前達のピチピチパワーをこれでもかっていうぐらい目一杯見せてくれよー!」


 途端に女生徒達がドッと爆笑する。


「やだー! 先生なんかエローい!」

「“ ピチピチパワー ” だって! 死語よ死語!」

「それにさー、矢貫先生が言うとエッチっぽく聞こえない?」  


 女生徒達に一斉にからかわれて誠吾は頭を掻いた。


「俺が言うとそんなにやらしくなるか?」

「なるなるー!」

「セクハラ一歩手前って感じー?」

「あーそれ言える言える! なんか妙にオジサン臭いのよね、先生はさ。まだ二十六歳なのにー!」  


 生徒達は口々に誠吾をからかうがその言葉には悪意はまったく感じられない。

 好き勝手に色んなことを言っても、気さくなこの体育教師を慕っているのだ。


「お前らから見りゃ、どうせ俺はオジサンだよ! じゃあ出席を取るぞ! 一組! 相田! 安西! 飯島!」


 女生徒達全員の顔を見渡し、その中に梨絵の姿があることを確認した誠吾は出席を取り始めた。


「よし全員いるな。じゃあさっき俺がバーを用意しといたからそっちに移動するぞ! 駆け足!」

 

 誠吾は首にかけている愛用の青いホイッスルを口に咥え、一定のリズムで軽快に鳴らしながら先頭に立って走り出した。

 バーのある場所へ到着すると全員を体育座りさせ、本日の予定を説明する。


「いいか、今日はまず最初に背面飛びから始めるぞ。できればベリーロールまで行くのが今日の目標だ。じゃ早速一組から飛んでもらおうか」

「先生! その前に先生がまずお手本見せてくれなくっちゃ!」

「そうよそうよ!」

 

 女生徒達から茶々が入り、梨絵のことで頭が一杯だった誠吾は一人慌てる。


「お、おう、そうだったな。よし、じゃあ見本を見せるか。全員瞬きしないで見ておけよ!」  


 誠吾は一メートルほどの高さだったバーを一気に押し上げた。


「えーっ先生そんなに高くして大丈夫 ?」

「いいから見とけって! じゃ背面で飛ぶぞ!」

 

 そう叫ぶと誠吾はバーから充分な距離を取った。


「せんせー頑張ってー!」


 女生徒の応援を背に、最初はゆっくり、そしてバーが近づくにつれドンドンとそのスピードを上げて、タン、という軽やかな音と共に誠吾はバーに向かって飛んだ。

 首にかけていたホイッスルが同時にフワリと空中に舞う。その背中はバーの上を難なく超えた。


「先生スゴーイ!」

「やったぁ!」


 その華麗なジャンプを見た女生徒達から大きな歓声が上がる。

 マットの上から立ち上がると誠吾は女生徒達を促した。


「ま、ざっとこんなもんだ。じゃあ早速順番に飛んでみろ。踏み切る時は力強く、バーの上に落ちないように気をつけてな」

 

 誠吾の指示で女生徒達はバーを元通りに低く下げ、順番にバーに向かって飛び始めた。誠吾はしばらくその様子を見ていたが、やがてそっとその場から離れると少し離れた木陰に座っている梨絵に近寄り、その場にしゃがむ。


「笹目……今日も見学か?」  


 梨絵は誠吾の顔を見た。  

 おとなしそうな顔をしているが芯の強そうな瞳の梨絵は、小さな声だがはっきりと答える。


「はい」

「なぁ笹目。お前一度も体育に参加してないだろ? どうしてなんだ?」

「生理でお腹が痛いんです」

 

 その返事を聞いた誠吾は一瞬唸り、困ったような顔をする。


「でもお前、もう三週間も経つのにずっと見学の理由はそれだろ? 俺、男だけどさ、さすがにそれはおかしいと思うぜ?」

「私、生理不順なんです」


「……ん~……」  


 梨絵の返事に誠吾は先ほどよりも長く唸った。


「笹目、それが本当なら病院に行ったほうがいいんじゃないのか?」


 梨絵は誠吾の顔をじっと見つめる。


「先生、嘘だと思ってるんでしょ?」  

「そ、そこまで言ってないけどさ……」

 

 慌てた様子で馬鹿正直に答える誠吾を見て、固い表情だった梨絵の顔がほんの少しだけ緩んだ。


「……先生、私、妊娠してるんです」

「な、なにぃっ!?」

「嘘です」

「おっお前、教師をからかうなっ」

 

 一瞬本気で驚いた誠吾は梨絵を叱った。


「すみません、先生」

 

 梨絵は再び固い表情に戻るとペコッと頭を下げた。

 走り高飛びをしている方角からはキャーキャーと楽しそうな声が聞こえてくる。

 誠吾は再び説得を始めた。


「なぁ笹目、今日の体育に出てくれないか?」

「…………」

「実はさ、もし今週も笹目が体育に出なかったら来週お前は学審会にかけられることになってるんだ」


 梨絵は少し驚いた表情を見せた。肩上で切り揃えられた髪が小さく揺れる。


「学審会って『学生審問会議』のことですか?」

「あぁそうだ。指導で態度を改めない生徒に限って処罰をする、なんて建前はあるけどな、結局あの審問会に呼び出された生徒は最低でもかならず停学は食らっちまう。お前をそういう目に遭わせたくないんだよ」  


 それを聞いた梨絵はなぜか挑戦的な目で誠吾を見た。


「先生、なんだかんだ言って結局は私のためじゃなくて先生の保身のためなんでしょ? 自分の担当クラスから停学者が出るなんて困りますもんね」

「バカ言うな。別に俺はそんなことになっても屁とも思わねぇよ。だけどな、この学園で一度停学処分を食らうとその先は厳しくなるんだぞ? どんなに筆記テストが出来てもまず間違い無く大学への推薦はして貰えない。それに次にまた何か問題を起こせば停学経験者はすぐにまた学審会への呼び出し、場合によっちゃ退学勧告だ」

 

 誠吾はポンと梨絵の肩に手を置いた。


「なぁ、頼むから今日は出てくれないか。そうすればとりあえずは今日の会議でお前のことをなんとか庇えることができるんだ」

「…………」

 

 再び沈黙した梨絵は遠くを見て何かを考えているようだった。


「な? 笹目」

 

 梨絵はそれまで合わせていた誠吾との視線を外し、小さく頷く。


「……分かりました。今日の体育出ます」

「そうか!」

 

 その返事に安堵した誠吾は日焼けした手で梨絵の手を掴み、立たせる。


「よしっ行くぞ!」  


 梨絵は誠吾の後をついて歩きながら一瞬下腹部に手を当てた。

 しかし前を歩いている誠吾はそんな梨絵の様子にまったく気付いていない。


「おーい、ちょっとストップ! 次は笹目が飛ぶから入れてくれな!」

 

 今まで一度も体育に参加していなかった梨絵が来たので、女生徒達は急にザワザワと騒ぎだす。


「ねぇモモ。あの子、体が弱いわけじゃなかったのかなぁ?」

「うんそうだね……」

 

 コッソリ話しかけてきた沙羅に相槌を打ちながら桃乃はこちらに歩いてくる梨絵を見た。気のせいか、太陽の下に出てきた梨絵の顔色はあまり優れないように見える。


「笹目、いいぞー!」


 嬉しそうな大声で誠吾が梨絵を促す。

 梨絵は一度走り出そうとする素振りを見せたが、急に口を片手で覆い、わずかに俯いた。やがて手を外し上を向いて大きく息を吐くと、一瞬の間を置いてバーに向かって走り出す。

 バーの手前で勢い良く踏み切った梨絵の身体は宙に高く浮き、バーの上をかすることなく綺麗に飛びきった。


「よし! クリアーだ!」


 しかしそう嬉しそうに叫んだ誠吾の声に急に緊張感が走る。


「……笹目!? おいっどうしたっ!?」  

「う……うぅ……」


 落下したマットの上で体を丸め、ボイルされた海老のような姿で急に苦しみだした梨絵に誠吾が駆け寄った。


「キャーッ! 血っ!?」

 

 一人の女生徒の金切り声がグラウンドに響き渡る。


「さっ笹目ッ! しっかりしろっ!」  


 誠吾は梨絵の身体を何度も揺さぶる。

 走り高飛び用のくすんだ緑色のマットの上は、倒れている梨絵の下腹部あたりからじわじわと滲み出してきている鮮血で真っ赤に染まり始めていた。




 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆              



 その日の定例会議は定刻通りに始まった。

 黒岩の会議開始の挨拶を聞きながら緑は隣の席を見る。しかしその席に着なれないスーツを着て、いつも窮屈そうに座っている誠吾の姿は無い。


「もうご存知の先生方もいらっしゃるかと思いますが、本日、一年女子の体育の授業中に事故が発生したという報告を受けております」


 梨絵の事故のことを知らなかった職員達がざわめいたので、黒岩は「お静かに」と威圧感をこめた口調で場を完全に静めた。そして細めの銀縁の眼鏡を一度押し上げ、今日起きた事故の詳細をいつもの沈着冷静な声で職員達に説明し始める。


「本日、走り高飛びの授業中に一人の女生徒が腰から落ちた際激しい出血を起こし、意識不明になったとのことですぐに救急車を手配致しました。授業を担当されていた矢貫先生はそのまま付き添いで病院に向かいました。先ほど連絡が入りましたのでもうまもなくこちらに戻ってくると思います。矢貫先生には戻り次第、ここで報告していただきます。では一年の先生方から今週の報告をお願い致します」


 ゆっくりと黒岩が椅子に着席した際、いつもシンと静まり返る会議室だが今日はさらにその静寂が重く感じられた。


「で、ではまず私から……」

 

 黒岩から一番近い席に座っていた一年物理担当の関澤(せきざわ)寛司(かんじ)が萎縮しながらも立ち上がる。


「え~、私の担当する一年物理は特に授業の遅れもなく、生徒も皆優秀ですので滞り無く進んでおります。中には物理に非常に関心がある生徒もいて、授業が終わった後私の元に来て色々と質問してくる生徒もおり、嬉しく思っております」

「学生が勉学に熱中するということは彼らの本分でもありますからね。素晴らしいことです。関澤先生の教えもいいからでしょう」

 

 黒岩は関澤を誉めた。


「いえいえ、とんでもありません。私の教えなど……」

 

 関澤がそう恐縮した瞬間、第一会議室の扉がガチャリと開いた。


「……遅れて済みませんでした……」  


 第一会議室に現れた誠吾を黒岩がギロリと睨む。

 病院から戻って会議室に直行してきた誠吾はジャージ姿のままだったのだ。


「関澤先生ありがとうございました。では今戻ってきましたので次は矢貫先生に早速報告していただきましょう」

 

 黒岩は関澤に向かって手で座るように合図をした。誠吾の服装については今は不問にすることにしたらしい。


「さぁ矢貫先生」

 

 黒岩に促され、誠吾は会議室に入る。そして空いている席の椅子を引き、そのままそこに立ち尽くした。  

 その場で沈黙を続ける誠吾のせいで、会議室内の時の流れが止まったままかのように感じる。

 緑はそっと横目で誠吾の顔を見上げたが、いつもは日に焼けて血色のいいその顔に今はまったくと言っていいほど血の気が無かった。

 

「矢貫先生、早く報告を」

 

 黙って突っ立ったままの誠吾に黒岩の叱責が飛ぶ。



「……りゅ、流産しました……」  



 会議室内で発した誠吾の第一声は少し震えていた。


「笹目梨絵は妊娠していました……。だから体育の授業にも出なかったんです……。そ、それを俺が無理に体育に参加するように言ったから笹目は……。俺が、俺が悪いんです……!」

「矢貫先生、それは矢貫先生のせいではないでしょう。その女生徒が妊娠していたことを先生は知らなかったのですから。授業に生徒達を参加させるのは教師の当然の職務です。それよりも問題はその女生徒が妊娠していたという事実です。矢貫先生、相手は誰か分かったのですか?」

「……笹目が個人的に受けている家庭教師の青年だそうです……」


 黒岩の尋問は素早く、そして執拗に続く。


「女生徒のご両親のほうは?」  

「……連絡を取ったら病院に駆けつけてきました…。ご両親も今回の妊娠のことはまったく知らなかったようです……」

「女生徒は今どうしていますか?」

「……まだ病院にいます……。検査のために後二、三日入院することになるかもしれません……」

「結構です。分かりました。いずれにせよ、その女生徒の体調が戻り次第、学審会にかけることにいたします」

「……やっぱり笹目を学審会にかけるんですか……?」

「当前のことです。当学園で妊娠したなどという生徒を置いておけると思いますか? 規則にのっとり学審会は行いますが、女生徒には退学していただかなければならないでしょうね」

「そ、そんな! 退学だなんて!」

 

 誠吾は青い顔で叫んだ。

 しかし黒岩はいつも通りの冷静な声で答える。


「矢貫先生、当学園はカノン慈愛学園ですよ? カノンという名の通り、規範に沿った行動を取れない生徒はこの学園には一切必要無いのです」


「……あんたって人は……!」  


 椅子が大きく後ろに倒れる音がした。  

 倒れた椅子もそのままに誠吾はズカズカと黒岩の元へと詰め寄ると、右拳で黒岩の机の上を壊れるぐらいの勢いで叩いた。机が割れんばかりのその激しい音に黒岩を除く職員全員がビクッと体を竦める。


「なんで……どうしてそうも規則、規則でしか物事を考えられないんだ! 笹目は今回の流産で身も心も傷ついているんです! なぜそんな可哀想な生徒をゴミでも捨てるかのように弾き出すんですか!」

「規則は重要ですよ、矢貫先生」  


 黒岩は今の誠吾の行動にもまったく動じないで再び眼鏡の淵を押し上げる。


「社会とはすなわち規則で成り立っている世界です。そして社会の規則はこの学園の規則よりもずっと煩雑で膨大です。ここでの規則が守られないようでは、社会に出てもまともにやっていけるわけがありません。そうは思いませんか? 矢貫先生」

「理事長ッ! あんたの言っていることは正しいことかもしれないがそんなのはただの紙の上の絵空事と同じだ! そんな杓子定規なやり方だけでは解決できない問題だってこの社会には一杯あるでしょう!? それが分からないんですか!」

「……どうやらこの問題では矢貫先生と話し合ってもいつまでも平行線のようですね」  

 黒岩は眼鏡の淵ごしに誠吾に冷たい目線を向ける。

「もう結構です。では席におつき下さい。まだ会議は終わってませんので」  


 黒岩を見下ろす誠吾の両拳が震えていた。その拳を見た緑は咄嗟に立ち上がる。


「矢貫先生! 席について下さい! 次は私が報告いたします!」  


 しかし誠吾は緑のほうを一瞬チラッと見ただけで席につこうとはしなかった。


「……俺は…………これで失礼しますっ!」

 

 黒岩にそう怒鳴るように告げ、誠吾は足取り荒く会議室を出ていってしまった。

 会議室のスリ硝子越しに足早に去っていく誠吾のシルエットが凄いスピードで移動していく。


()っ……」


 今は会議中だということを忘れ、一瞬でも誠吾の後を追おうとした自分自身に緑は驚く。

 会議室内は再び水を打ったように静かになった。



( バカ……こんなことしちゃってどうする気なのよ…… )



「では柳川先生、報告をお願い致します」

 

 呆然と立っていた緑の耳に抑揚の無い声で黒岩から報告を急かす言葉が響いてきた。



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