彼が呼ばなくなった理由 【後編】
「ねぇ桃乃ちゃん、そんなに緊張しなくてもいいよ? なにもここで取って食いやしないからさ」
一体何を言われるのだろうと助手席で身を固くする桃乃に、裄人が笑みを浮かべながら優しく言う。そんな裄人らしいジョークに桃乃はクスッと笑うと即座に切り返した。
「うぅん、裄兄ィなら分かんないよ!」
「おっそうきましたか! ハハッ、参った参った! 今ので桃乃ちゃんが普段俺をどんな目で見てるかよ~く分かったよ!」
一本取られたな、と言いつつ裄人は声をあげて笑った。そしてその笑いが収まると次は考え込むような表情に変わる。
「ん~、でもそうだなぁ……、確かに桃乃ちゃんはとっても可愛い女の子だけどさ、俺にとってはあくまでも “ 可愛い妹 ” って感じなんだよね。そう、葉月ちゃんと一緒でさ」
裄人はそこで一旦シートから身を起こすと、車内に流れていた音楽を消す。
「それに弟が好きな女の子取れないしね」
「エ……ッ?」
サラリと言った裄人の言葉に桃乃の胸は一瞬ドキッとした。
「桃乃ちゃんさ、本当はとっくに気付いてるんだろ? 冬馬が桃乃ちゃんのこと大好きなことさ。分かるよな、あれだけしょっちゅう冬馬の奴が分かりやすいことしてればなぁ。ねぇ?」
裄人はダッシュボードの上にあった外国産の煙草を手に取り一本口に咥えたが、桃乃の方を見て「吸わないほうがいい?」と尋ねる。
桃乃がコクリと頷いたので裄人は涼やかなその水色の箱を元の場所に戻した。
「ね、桃乃ちゃんはさ、冬馬のことどう思ってるの?」
しかし桃乃は正面を向いたまま何も答えない。
「もしかして嫌い? もし冬馬のこと本当は嫌がってて困ってるなら、俺があいつにちゃんと言い聞かせるけど……?」
桃乃は眼差しを伏せ、正面を見たままでポツリと呟く。
「……冬馬は私のこと、本当に、す、好きなの……?」
「何言ってんの。もう好きも好き、超大好きでさ、桃乃ちゃんしか見えてない状態じゃん?」
「だって、冬馬は私のことを桃太郎って呼んでバカにしてるみたいなんだもん……」
「あぁそれね……」
裄人は小さく笑うと前髪を掻き上げた。
「俺知ってるよ? なんであいつが桃乃ちゃんのこと、そうやって呼ぶようになったのか。これはたぶん俺しか知らないだろうなぁ」
「えっ本当!? ねぇ教えて裄兄ィ!」
「うん、もちろん教えちゃうよ。でも俺から聞いたことは冬馬には内緒ね? ……えっと、確か一昨年だよね、ウチと桃乃ちゃん家でさ、霧里高原にキャンプに行ったの覚えてる?」
「う、うん」
「冬馬と桃乃ちゃんがあの時中二で葉月ちゃんが確か九歳、俺が大学入った年だったな。実のところ俺さ、本当はあのキャンプ行きたくなかったんだ。冬馬はいいけど俺もう十八だったしさ、今さら家族で仲良くキャンプなんてやってられないじゃん?」
裄人は相槌を求めるように言った。
「だから最初は行かないつもりだったんだ。でも途中で気が変わってね。俺その当時思ったんだよ。たぶんこれが家族最後のレジャーになるんだろうなってさ。冬馬だってそのうち親とレジャーや旅行になんて行きたがらなくなるだろうな、ってね」
裄人が運転席に深く座り直した時、いつも好んで使っているフレグランスの香りがフワッと車中に広がる。
「だからここは俺が少々我慢して、西脇家最後の家族全員の思い出を作っとくべきかな、って思ったわけ。そんで結局俺も一緒に行ったわけですよ」
裄人は「ちょっとは殊勝なとこあるだろ?」と言うと桃乃の方を見て笑う。
「で、あの高原にある川原でテント張ったじゃん? 俺達は釣り始めてさ。桃乃ちゃんと葉月ちゃんは浅瀬の方で泳ぐ、ってことになって。ね、この先覚えてる?」
裄人は小さな微笑みの中に悪戯っぽい表情を混ぜながらそう尋ねる。
「お……覚えてるわよ! 裄兄ィと冬馬が……!」
桃乃は真っ赤になりながら裄人を思いきり睨んだ。
「そうなんだよね、俺ら見ちゃったんだよね桃乃ちゃんのハダカ」
「裸じゃないでしょっ!?」
完熟トマトのような顔色で桃乃は叫んだ。
「あ、失礼失礼。厳密に言えば下着姿だったね。可愛いかったな~、確か白のフリルついたブラだったよね? 真ん中にちっちゃいリボンついててさ」
「裄兄ィッ!」
桃乃の剣幕に裄人は運転席で身を竦めた。
「だ、だってあの時桃乃ちゃんいつまで経ってもテントから出てこないからさぁ、どうしたのかなと思って冬馬と覗いてみたんだよね。そしたら桃乃ちゃんちょうど着替えてたんだもん」
「だからって普通覗く!?」
「ごめん、ごめん。まぁでもあの時、もう十八だった俺は中二の女の子の下着姿なんか見ても別になんとも思わなかったんだけどさ、あの冬馬くんはちょっと違ったわけですよ」
当時のその光景を再び思い出した裄人は、こみ上げてくる笑いを堪えながら続きを話す。
「あの後の冬馬の様子、ずっとおかしかったんだぜ? もう “ 心ここにあらず ” って感じでボーッとしちゃってさ。釣竿に魚がかかってもあいつ全然気付かないんだ。傍で見ていてもあれはマジで面白かったよ。でね、俺思うんだ。たぶんあの時から冬馬は桃乃ちゃんを、幼馴染の女の子から一人の女性として初めて意識しはじめたんじゃないかなぁ、って」
“ 一人の女性として意識しはじめた ” という裄人の言葉を聞いて、桃乃の頬は一気に赤くなり、同時に胸の中心を突かれたような衝撃を受ける。
「そ、そんなこと無いと思う……」
「いいや、間違いないって。ね、桃乃ちゃん、思い出してごらんよ。あいつ、あのキャンプの時までは桃乃ちゃんのことを普通に “ 桃乃 ” って呼んでいただろ? でも俺の知る限りではあれ以降なんだ、桃乃ちゃんのこと一切名前で呼ばなくなったの」
裄人に言われて桃乃は必死に自分の記憶を手繰ってみた。
思い返してみるとそのキャンプの前までは冬馬は自分のことを普通に「桃乃」と呼んでいたような気がする。そして「桃太郎」と呼ばれ出した記憶は確かにすべてそのキャンプの後だった。
「だから冬馬は桃乃ちゃんのことバカにしてそんな風に呼んでるわけじゃないと思うよ。たぶん、あいつの一種の照れ隠しなんだとは思うんだけどね。あいつは不器用だからなぁ。要領が悪いっていうか、そういうところ全然俺に似てないんだよね。可哀想に、ウチの堅物オヤジそっくりだよ」
車中からウィンドーの外を眺めていた裄人は、山道の草むらに乗り捨てられている汚れた自転車に目を留める。
「あ、そうそう、それともう一つこっそり教えて上げられることがあるな。あいつ、クロスバイクも買っただろ? あのリアキャリア、……あ、後ろの荷台のことね、あれ、きっと桃乃ちゃんを乗せるためだけにつけたんだと思うよ。俺、あれ買いに行く時に一緒に行ってやったんだけどさ、サイクルショップの店員達に “ せっかくの綺麗なフォルムが損なわれるから止めたほうがいい ” って何度言われてもあいつ、必要だからって言い張って頑として譲らなかったんだ」
「……!」
あの自転車にまつわる隠された事実を聞いた桃乃は、黙ったまま膝の上に置いてある自分の手をギュッと握りしめる。
「しかもあの車体の色ってオレンジだろ? オレンジは桃乃ちゃんが昔から大好きな色だもんなぁ」
ついにこらえきれなくなり、桃乃は顔を上げ、勢い込んで裄人に訊ねた。
「ねぇ裄兄ィ、本当にそうなの!? 本当に私のために冬馬はオレンジ色の自転車を選んだり、荷台をつけたりしたの!?」
「うん、そうだと思うよ。それしか考えられないじゃん。リアキャリアなんか特にさ。普通はあんなのわざわざつける必要ないからね」
「…………」
それを聞いて再び俯く桃乃の反応を見た裄人がさりげなく次の秘密情報を流す。
「冬馬の奴さ、本当は別の高校に推薦の話しもあったんだ。だけど桃乃ちゃんがカノンを目指しているのを知ってあいつ、カノンを受けることにしたんだよ。知ってた?」
「ホ、ホント……!?」
「本当本当。まぁあいつも健気っていえば健気だけどさ、問題は桃乃ちゃんにその気持ちが全然伝わってなかったってことだよね。……で、お兄さんの話は以上で終了なのですが、肝心の桃乃ちゃんの気持ちはどうなのかなぁ? ね、俺にだけコッソリ教えてくれない?」
しかし桃乃はそれには答えずに別のことを口にした。
「……実はこの間冬馬とケンカしたの……」
「あ、そうなの? あぁ、それでか! いや実はね、最近冬馬の奴、なんか妙にピリピリして常に考え込んだ顔してんだよね。母さんと俺、密かに心配してたんだ。そっか、桃乃ちゃんとケンカしてたからだったのか。そっかそっか」
“ 妙にピリピリしている ” という冬馬の様子を聞いて桃乃の胸が痛んだ。
「どう? この裄人お兄さんでよかったら仲直りの橋渡しするけど?」
「うぅん、いい。自分でするから……」
「そっか、桃乃ちゃんがそうしてくれるのならもちろんその方が絶対いいよ。でも何かあったらすぐ俺に言ってね。俺はいつでも桃乃ちゃんの味方だからさ。……あ、もうこんな時間か」
バックレストを元の定位置に戻し、手馴れた様子でギアを素早くチェンジすると裄人は車をゆっくりと発進させる。
「よし、じゃあそろそろお嬢様を邸宅へお返ししないとね」
自宅に送ってもらうまでの帰り道、再び裄人の一方的な愛車自慢が延々と始まっていたが、もう桃乃の耳には全く届いていなかった。車外を流れる景色を眺めながら桃乃は一人考え続ける。車窓の外はすでに暗くなり始めていて、頭の中で色々と考え事をするのには最適の環境だった。
( 冬馬がそんなに私のことを好きだったなんて…… )
裄人の声をBGMに、冬馬のことだけに意識を集中して考えてみる。
こうして思い返してみると確かに今までの冬馬の行動はすべて裄人の言う通り、色々と自分を気にかけていてくれた為の行動だったのかもしれない、と今は素直に思えるようになっていた。
過去の冬馬との会話や、冬馬が今まで自分にしてくれた様々な事。それら一つ一つを思い出す度に、その思いは揺るがない確信へと変わっていく。ただ、二年前から「桃太郎」と呼ばれるようになったことが嫌でたまらないあまりに、自分自身がその事実に気がついていなかっただけだったのだ。
例え変なアダ名で自分のことを呼んでいても、いつも、どんな時でも、ずっと冬馬は自分に優しかったことに今更ながら桃乃はやっと気付いた。
( 私……、今度冬馬と会ったら一体どんな顔をすればいいのかな…… )
冬馬と二人できちんと話しがしたい、桃乃は外の景色を眺めながらそんなことをいつまでもグルグルと考えていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
時刻はもうすぐ夜の十一時になる。
倉沢家に桃乃を送り届けた後、すぐさま携帯で親しい女友達の一人を呼び出して二度目のドライブと洒落こんでいた裄人は上機嫌だった。
軽やかにハミングをしながら車のキーを目線の高さにまで持ち上げて足取り軽く二階へと昇る。
( そうだ 冬馬に桃乃ちゃんを車に乗せたことを話しておいたほうがいいな )
後でバレておかしな誤解をされるよりも正直に言っておいたほうがいい、と判断した裄人は自分の部屋に入る前に冬馬の部屋をノックした。
「冬馬く~ん、ちょっといいかい?」
返事は無かった。
しかし部屋の中からは確かに人がいる気配がする。
裄人はそっと冬馬の部屋のドアを開けてみた。そして中にいた弟の姿を見て思わず叫ぶ。
「冬馬!? お前何やってんだよ!?」
机に向かっていた為、ドアに背を向けていた冬馬は裄人の大声でようやく振り返った。
「なんだ兄貴か」
まだ制服姿の冬馬はそう言うと再び前を向いてしまった。
ヘッドフォンをかけて音楽を聴いていたせいで裄人のノックがよく聞こえなかったらしい。
裄人は慌てて室内に入ると部屋のドアを急いで閉める。
「おいっ何やってんだよ! もしオヤジに見つかったらどうなるか分かってんのか!?」
「……ほっといてくれよ」
冬馬は椅子に座って腕組みをしたままイライラしたように裄人の方を見る。
「だってお前……あっ、それもしかしたら俺のじゃないか!?」
「前から思ってたけど兄貴のこれ、旨くねぇよなぁ。それにキツすぎ」
冬馬は裄人の部屋から勝手に持ってきた煙草を口に咥えたままフゥッと紫煙を吐く。
「それよりお前早くそれ消せって! オヤジに見つかったらヤバイっての!」
「兄貴だって高校の時にはもう吸ってたじゃん」
「俺は高校の時は隠れて吸ってたよ! 部屋で堂々となんか吸ってなかったぞ!?」
「いいからほっといてくれって」
「お前この頃なんかイライラしてるよな……」
「だから吸ってるんだろ。吸うと少しは落ち着くんだ」
裄人は冬馬のあまりの不機嫌な様子に困惑しきっていた。
そして今日桃乃に冬馬の気持ちを勝手に伝えたことを今言っても大丈夫だろうかと一人悩み始める。
「……兄貴、考え事してるから一人にしてくんない?」
冬馬はヘッドフォンのボリュームを上げた。
ヘッドフォンから激しいロックの音が微かに漏れ聞こえてくる。
今はやはり話すべき状況ではない、と判断した裄人は、冬馬の要求通り部屋を出ていくことにした。
「冬馬、今日はそれでもう止めておけよ。スポーツマンが煙草なんか吸ってどうすんだ。それともう俺の部屋から煙草勝手に持っていくなよ。な? 分かったな?」
冬馬からの返事は無かった。
その様子を見た裄人は小さく息を吐く。
( 今日の桃乃ちゃんとのドライブの話しをしたら何されるか分かんないな…… )
ピリピリとした空気の中で制服姿のまま煙草をくゆらす冬馬の背中を見ながら、裄人は廊下に出ると静かにドアを閉めた。
背後でドアがそっと閉められる音がすると冬馬はまた大きく煙草の煙を吐き出す。
冬馬が煙草を吸い始めたのは半年ほど前の頃で最初はただの好奇心からだった。
裄人が好んで吸っているこの外国産煙草はかなり癖があり、最初のうちは紫煙をろくに肺に入れることも出来なかったが、度々裄人の部屋から一本、二本と煙草を勝手に取ってきてふかすうちにある程度は慣れてきていた。やがて煙草を吸うと妙に気持ちが落ち着くことに気がつき、今ではイライラした時にはこうやって煙草をふかすようになっていたのだ。
しかしここ最近、煙草を吸っても少しも気持ちが落ち着かないことに冬馬自身、とっくに気がついていた。そしてその理由も。
( 七海中か…… )
ヘッドフォンからは脳髄に響き渡るくらいの大音量でハードロックのサウンドがガンガンと鳴り響いている。白杜中学時代、何度か訪れたことのあるその中学を冬馬は必死で思い出していた。
「白杜のバスケ部がこっちに来て試合してた時、よくお前の試合見に行ってたんだ」
初めて教室で顔を合わせた時、要は確かにそう言っていた。
今はかなり薄れてしまっている自分の記憶から七海中で顔を知っている人間を冬馬は思いつく限り思い出してみる。
しかしいくら記憶の底をさらってみても七海中のバスケ部のレギュラーメンバーと自分と同学年のメンバー、そしてマネージャーくらいしか思い出せなかった。
あとは最初に七海中に対抗試合に行った時に挨拶をしにきた生徒会長くらいだ。
その記憶の断片の中にはどう考えても要と会った記憶が無かった。
気がつくと煙草は咥えているすぐ側の部分まで灰になっている。
冬馬はフゥ、と最後の煙を吐き出すと傍らにあった空のコーヒー缶に吸殻を突っ込む。
そのまましばらく冬馬は考え事を続けていたがやがてヘッドフォンを外すと窓際に寄り、向かいの倉沢家の二階を眺めた。そして桃乃の部屋に灯りが点いているのを見た時、心臓の中心がぎゅっと縮まったような軽い痛みを覚える。それはあの日の朝、電車に乗って去っていた桃乃を再びカノンの通学路で見つけた時と同じ痛みだった。
あの時もう一度声をかけようとしたのを直前で止めたのは、振り向かない華奢な背中に気後れしてしまったからだ。
ペダルをひと漕ぎする度、桃乃との距離が近づく。その度に胸の痛みが増していき、結局は桃乃を避けるようにクロスバイクで追い越してしまった。
声をかけずに桃乃を置き去りにしてきたあの日以来、今までのように気軽に桃乃の側に行く勇気を無くしてしまっている自分に、冬馬は焦りを感じ出していた。
( これからどうすりゃいいんだよ…… )
乱暴に制服を脱ぎ捨てると桃乃の部屋の灯りから視線を逸らし、カーテンを荒々しく後ろ手で閉める。そして珍しく何も予習をせずにシャワーだけを浴び、ベッドに横たわると疲れきった顔でそのまま浅い眠りへと入っていった。