絡み合う本音
夕影に染まる山道を降り始めた裄人の歩調は早い。
苛立っている弟とこれから顔を合わせなければならないので足取りは重いのだが、それでも早足気味になってしまっているのは坂道の傾斜がきついせいだ。
下り出して数分後、桃乃がついてきていないかを確かめるために一度立ち止まって後方を振り返る。
桃乃はおとなしくあの場に残ってくれているらしく、上り坂の先に人影は見当たらない。
目線を下に戻し再び歩き始めると、いくらもしないうちにこの坂道を駆け上がってきている冬馬の姿が見えた。
山道の途中で顔を突き合わせた途端に弟が激しく兄を責める。
「兄貴! なんで桃乃を連れ出した!?」
温和な兄は憤る弟の態度に不信感を持ちながらも、これ以上その感情を刺激しないように気を配りながら言葉を選ぶ。
「桃乃ちゃんに聞きたいことがあったから…」
「ふざけんな!! 前に言っただろ!? 桃乃の言う事に兄貴はいちいち反応すんな!!」
冬馬は荒い息を吐きながら燃えるような目で兄を睨みつける。
しかし裄人は眉根を寄せ、さらに怪訝そうな顔で激昂するその顔を黙って見つめるだけだ。
「もう二度とこんなことをするな!! 桃乃に近づかないって約束しろ兄貴!!」
そこまで詰め寄っても裄人は何も答えない。
「聞いてんのかよ!? 黙ってないで何とか言えよ!!」
「……なるほどね」
夕陽が沈みゆくにつれ、鮮やかな朱の色が暗い赤色に変化しだしていた。その茜色の中にある黒みがかった部分を背後に従え、裄人が静かに答える。
「ようやく確信が持てたよ」
「何がだよ!?」
「お前、俺に桃乃ちゃんを取られるんじゃないかってビビッってんだな。そうだろ?」
「ちっ違う!!」
冬馬の動揺した姿を目の当たりにした裄人はわずかに顔を伏せ、くくっと声を殺して笑った。
「やっぱり図星か。だから俺が真里菜ちゃんと別れる事になるって言ったらあんなにムキになって理由を聞いてきたんだな」
「何がおかしいんだよっ!?」
冬馬が吼える。
だが、怒鳴りはしたが内心は脅えていた。共に同じ屋根の下で暮らしてきた兄がそんな笑い方をするのを初めて聞いたせいだ。
「おかしいっていうより呆れたよ」
裄人は素の表情に戻ると、軽蔑に近い冷めた視線を弟に浴びせる。
「桃乃ちゃんが可哀想だよ。あの子が昔俺を好きだったからって今もそうやってお前に疑われたままなんてさ」
「う、うるせぇよ! 兄貴が桃乃に近づかなければいいだけなんだ!! だから近づくな!!」
しかし裄人はかすかに口の端を上げ、その弟の願いを無下に拒む。
「悪いけどそれは呑めない要求だよ、冬馬」
「どっどういう意味だよ!?」
「嫌だから嫌って言ってるだけだよ。だって俺、真里菜ちゃんと別れてフリーになったし、前は桃乃ちゃんのことを妹としてしかみられなかったけど、今はそうでもなくなってきてるしね」
薄笑いを浮かべた裄人は右の掌をスッと前に出し、まるで死の宣告のように冬馬の顔を真っ直ぐに指さす。
「お前だってそうやって俺に取られるかもしれないっていつまでも脅え続けるのはもう嫌だろ? なら望みどおりに奪ってやるよ。お前の大事なあの桃乃ちゃんをさ!」
そう宣告した直後、いきなり裄人は背を向けて走り出した。桃乃のいる場所へ向かって。
「まっ待てよ兄貴っ!!」
一瞬反応が遅れた冬馬も必死に兄の後を追い始める。
だが追いつくことができない。
ここまで全力で走り続けもう余力がほとんどないことに加え、相手は裄人だ。
自分が越えたくても越えられなかった相手。
ついに本気を出した兄の背が、コンプレックスという歪んだ塊を抱えた冬馬にはどこまでも遠くに感じる。
「兄貴!! 待てよっ!!」
その足を止めさせようと冬馬は必死に叫ぶ。
しかし裄人は立ち止まるどころか振り返ることすらもしない。
数メートル先を走る裄人のジャケットの裾が激しくはためいている。手を伸ばしても届きそうに無いその裾はただ踊るように動いているだけなのに、動揺している冬馬の目にはその動きが “ 桃乃を諦めろ ” と諭しているようにすら見えていた。
残照が作り出す裄人の影は自分に向かって伸びている。
だが、その影すらにも追いつけない。
その無情な現実に絶望の感情が湧きあがる。
視界の先に裄人の車が見えてきた。ゴールはもうすぐだ。
逢う魔が時の色を反射させた車の横には桃乃が立っていて、心配げな表情で自分たちを見ている。
艶やかな黒髪が夕風になびくその姿を見た時、冬馬は心の底から思った。
── もう追い越せなくてもいい
俺は兄貴よりも劣っている
兄貴の方がすべてにおいて俺よりも上だ
だから勝てなくてもいい
越えられなくてもいい
でも兄貴 桃乃だけは連れて行かないでくれ
俺の持っているもので兄貴の欲しいものは何でもやる
だから桃乃だけは あいつだけは俺にくれ
頼む兄貴──
しかしその願いは数メートル先を走る兄には届かなかった。
不安そうな顔で自分たちを見ている桃乃に向かって裄人は走りながら片手を上げる。
そして叫んだ。
「桃乃ちゃん乗って!! 早くっ!!」
そう大声で叫ばれた桃乃は一瞬どぎまぎした様子を見せたが、素直に助手席のドアを開けた。青いサマードレスの裾がふわりと大きく翻る。
身をかがめて車に乗り込もうとするその姿を見た冬馬の胸中を、先ほどよりも大きな絶望感が襲った。
このままだと桃乃を兄貴に連れ去られる──、その悲壮にも近い焦りが少年の身体を突き動かす。
「乗るなああ────っ!!!!」
言霊と共に放たれた冬馬のその絶叫に、車に乗り込もうとしていた桃乃は身体を竦めてその動きを止めた。
喉の奥が熱く焼け付くような痛みを覚える中、冬馬は必死に走る。
もう桃乃しか見えていなかった。
いつの間にか自分が兄を追い越していたことにも気付かず、ただひたすらに桃乃の元へと駆ける。
走り寄ってきた冬馬を見上げた桃乃は驚きで目を瞬いた。
額やこめかみに浮き上がっている汗はまだ粒の状態で肌の表面に留まっているのに、両の目尻からはうっすらと一筋の雫が流れ落ちていたせいだ。
「冬馬、泣いてるの……?」
冬馬は荒い息を吐き続けるだけで何も言わない。
ただ、桃乃の手をしっかりと掴んでいた。二度と離さない、いうぐらいの強さで。
「まさか! 汗だよ汗っ! こいつ走りっぱなしだったからね!」
遅れて二人の場所に到着した裄人はすかさずそうフォローを入れると、車内に身を乗り入れてダッシュボードに積むようになったスポーツタオルを取り出し、それを冬馬の頭にバサリとかけた。
タオルですっぽりと顔を覆い隠された冬馬はそのまま固まったように動かない。
「あー負けた負けた! さすが現役の高校生には敵わないな! もう俺は全部の面でお前に抜かされたよ!」
と裄人が爽やかに敗北宣言をする。
「もしかしてどっちが早くここまで着くか競争してたの!?」
「うん、そうだよ! で、見事に俺の負けってことです!」
「二人とも子どもみたい……」
「ははっ、そう言わないでよ桃乃ちゃん! 負けたお兄さんはこれから罰ゲームをしますんで!」
「バツゲームって何をするの?」
「……いやごめん。言い方が悪かったね。これは罰ゲームじゃないよな」
そう清々しい表情で訂正をすると、裄人は自分のジンクスを破る決意を告げる。
「実はさっき物分りのいいふりをして真里菜ちゃんと別れたんだけど、もう一回俺と付き合ってくれるようにお願いしてみることにするよ。このままあの娘のことを諦めようと思ったけど、俺もみっともなくても本気で足掻いてみる。さっき桃乃ちゃんにお説教もされたし、こいつの一途さにも触発されちゃったからね!」
そう言い終ると裄人はスポーツタオルの上から冬馬の頭に手を乗せ、その耳元に顔を近づける。
そして桃乃には聞こえないぐらいの声量で、「しっかりしてくれよ。お前への手助けはこれで最後だからな」とタオル越しに小声で伝えた。
「桃乃ちゃん、部屋のカードキー持ってきてたよね?」
桃乃はうん、と頷く。
「じゃあ悪いけどここから冬馬と歩いて戻ってきてくれるかな? 俺、これから一足先に帰って真里菜ちゃんを俺の部屋に連れていくから。だから冬馬は桃乃ちゃんの部屋に泊めてやってね」
「えっ!?」
「ごめんね桃乃ちゃん。おじさんには男女に分かれるって話でOKもらったけどさ、真里菜ちゃんと今夜一晩かけて色々話し合いたいから、今回は俺の都合でこの部屋割りにさせてほしいんだ。いいかな?」
「い、いいけど?」
恥じらいながらも冬馬との同部屋をすぐに許諾した桃乃に、「ありがとう」と裄人が礼を言う。
「冬馬はもう相当な距離を走ってるから少しここで休ませてから戻ってくるといいよ。こいつの荷物は後で桃乃ちゃんの部屋に俺が届けるから」
「うん、分かったわ」
「勝手ばかり言ってごめんね。じゃお先に!」
裄人の車が見えなくなった後で、桃乃はためらいがちに声をかけた。
「冬馬、大丈夫?」
「……あぁ」
しかし頭にタオルで覆ったままで立ち尽くす冬馬の息はまだ荒い。
「ねぇ、どうして裄兄ィと競争をすることになったの? さっき電話ですごく怒ってたみたいだったけど、裄兄ィに何を言ってたの?」
先ほど絶叫したせいで喉の奥を傷めた冬馬は二度大きく咳こんだ。そして唐突に言う。
「兄貴にお前を奪ってやるって言われた」
「えぇっ!? 何よそれ!?」
「桃乃を取られるんじゃないかってビビッってんだろって言われた」
また激しく咳こんだ後、ついに冬馬は自分の気持ちを包み隠さずに話し始める。
「俺、ずっと怖かったんだ。兄貴はお前のことを妹みたいだって昔から言ってたけど、もし兄貴がお前を妹としてみなくなったらどうしようってずっと脅えてた。いつかまたお前が兄貴を好きになって、兄貴もお前を好きになって、もしお前と兄貴が付き合うことになったらって考えるだけで怖かったんだ」
突然に語られ出した幼馴染の心の内。
冬馬が長年抱えてきたその苦衷を聞いた桃乃は言葉を無くす。
「……中二の時にキャンプでここに来た事覚えてるか?」
「う、うん」
「俺、あの日の夜、兄貴を呼び出して聞いたんだ。兄貴は桃乃が好きなのかって」
すっぽりとかぶっているハンドタオルがわずかに揺れる。
「兄貴は笑って、向かいに住む可愛い妹みたいなもんだよって言った。でも俺はそれ以降も時々兄貴に気持ちを聞いてきたんだ。ずっと不安だったからさ。お前はどんどん女らしくなってくるし、もしかしたら兄貴の気持ちも何かのきっかけで変わるんじゃないかって不安がずっと消えなかった。桃乃が兄貴を好きなことは知ってたしな」
「それは昔のことだって前にも言ったでしょ!?」
冬馬は一瞬だけ黙る。
「……お前、小4の時に兄貴にやるはずだったバレンタインのチョコ、比良敷の橋の下に埋めたことあったろ?」
桃乃が息を呑んだ気配が分かり、冬馬はさらに声を低めた。
「チョコをくれた礼を言おうと思って探してたら、橋の下に何かを埋めていたお前を偶然見かけたんだ。そしてお前がいなくなった後でそれ掘り出して、中を見て初めて分かった。お前が兄貴のことを好きだって事」
「そ、そのチョコどうしたの?」
「川ん中に思いっきりぶん投げてやった」
すげぇショックだったよ、と冬馬が呟く。
そして冬馬は隠していた最後の気持ちを吐露する。
「桃乃、お前が俺と付き合ってくれてんのは兄貴の代わりとしてだろ? でも俺はそれでもいいんだ。たとえ兄貴の代わりでもお前が俺と付き合ってく…」
パシンといういい音が山道に響く。
冬馬の頭を覆っていたハンドタオルが宙を舞ってガードレールにかかった。
左頬を思い切り打たれ、固まっている冬馬に向かって桃乃は怒鳴る。
「冬馬のバカッ!! そんな下らないことを今までずーっと考えてたの!?」
「だ、だってよ、お前の誕生日に百合ヶ丘公園で俺、言ったじゃん。“ 兄貴の事、絶対に忘れさせてやるから ” って。でもお前何も言わないで黙ってたから、だからまだ兄貴のことを好きなんだと思ってさ」
「バカッ!! バカバカバカ!! いつそんな事言ったのよ!? このネックレスを貰った事がすごい嬉しくてそんなの全然聞こえてなかったわよ!」
「マ、マジで……?」
「そうよ! それに私、前にグリーンスケッチの時にも言ったよね!? もう裄兄ィのことは何とも思っていないって!! それじゃ結局冬馬は私のことを全然信用してくれていなかったってことになるじゃない!! もうっ、そんな昔のことをいつまでも勝手に引きずってバカみたい!!」
しかし桃乃はそう叫び終わった後、「でも、冬馬のその気持ち、私もちょっと分かるかも」とテンションを落とした。
「……この間の花火大会の日、杉下さんが冬馬の家に来てたよね?」
「なんで知ってんだ!?」
未紅を呼び出した時の事を思い出した桃乃は恥ずかしそうに俯くと、胸元のネックレスを指先で何度も触る。
「た、たまたま葉月が杉下さんを見かけたみたいで、私が家に戻ったら教えてくれたの。そしたら杉下さんが玄関から出てきて、冬馬がそれを追いかけていったのが窓から見えて……。それで私、次の日杉下さんを呼び出したの」
「ハ!? なんで桃乃がひつじを呼び出すんだよ!?」
「だって杉下さんが家にまで来て冬馬に何を話したのかすごく気になったんだもん。それで杉下さんと話をしている内につい興奮しちゃって、 “ 冬馬は私のものだからっ ” って叫んじゃった」
それを聞いた冬馬はしばらく唖然とした表情で桃乃を見つめていたが、我に返ると急に大声で笑い出す。
「ははははっ! 桃乃、お前何やってんだよ!?」
「だ、だって冬馬を取られたらどうしようって思ったら無我夢中で叫んじゃってたんだもん!」
「バッカだなぁ、俺がお前以外の奴と付き合うわけねぇじゃん!」
「分かってるわよ! 自分でも叫んだあとにビックリしたんだから!」
「あーそうか! それでお前あの日夜に連絡よこして、どうして電話に出れなかったのかって聞いてきたのか!」
「そう」
「じゃあ あれは分かっててカマかけてきたってことだよな?」
「う、うん。ごめんね」
冬馬は少し考え込んでいたが、「あのさ」と口を開く。
「ひつじが来たことをお前に言わなかったのは、あいつが俺と付き合いたいって言ったからなんだ。そういうの、聞きたくないだろ?」
「あ、それも杉下さんから聞いたよ。二番目でもいいから彼女にしてって言われたんでしょ?」
「……すげーな、女ってそういうことまでぶっちゃけあうのかよ?」
呆れ顔の冬馬に桃乃はわずかに赤面する。
「で、でも冬馬はきっぱり断ったんだってね。杉下さんからそれを聞いて私、すごく嬉しかったよ」
「当たり前じゃん。俺、お前しか見てねーし」
荒かった呼吸が落ち着いてきた冬馬がガードレールに軽く腰をかける。桃乃はその隣により添うと、そっと右腕を絡めた。
「ね、冬馬。私、冬馬のこと、裄兄ィの代わりなんて全然思ってないよ? 裄兄ィのことはもう何とも思ってないし、それに今は絶対に誰にも渡したくないくらい冬馬のことが好き。でもね、もう私、これから何があっても冬馬のことを信じる。だから冬馬もこれからは私のこと信じてね」
桃乃はそう言うとガードレールに引っかかっていたハンドタオルを手にする。すると冬馬が横からそのタオルを取り上げ、自分の顔を強く拭った。
「冬馬、さっき泣いてたよね?」
「ハ!? 泣いてねーよ!」
「じゃあまた私の気のせいってこと?」
「だから汗かいただけだっての! ここに来るまでどれだけ走ったと思ってんだよ!?」
拗ねたように口を尖らせる幼馴染に愛おしさがこみ上げる。
「冬馬、帰ろっ!」と右手を差し出すと、その手はすぐに暖かい感触に包まれた。
そして手を握られた桃乃はあらためて知る。
自分が触れられて一番安心するのは、この幼馴染の大きな手なのだと。
「冬馬、今日は夜もずーっと一緒にいられるねっ!」
そう明るく告げると、冬馬が頷く。
それは桃乃の今の感情が移ったかのような喜びに満ちた表情だった。