消えないジンクス
那和湖の水面を初夏の風が爽やかに渡ってゆく。
澄み切ったシアンブルーの水面には周囲の木々が映り、霧里高原の雄大な景色をその場所にそっくりと真似ていた。
オールを握り、ボートの舵を取っていた裄人は、真向かいで新緑の景色を穏やかな顔で眺めている真里菜にさりげなく言う。
「そろそろ話してくれてもいいんじゃない?」
えっ、と不思議な顔をする真里菜に裄人は笑いかける。
そして相手に警戒心を抱かせないような甘く優しい声で、「今なら二人きりだし話しやすいだろ?」と促した。
「実はさ、ちょっと気になる事を聞いちゃったんだ。真里菜ちゃん、大学に休学届け出しただろ?」
それを聞いた真里菜の顔色がわずかに変わる。そしてその小さな口元から、誰から聞いたんですか、という声が漏れた。
「俺の周りってお節介な人間が多くてね」
裄人は困ったような顔をしてみせると肩を竦める。
先日、大学のキャンパスで顔を合わせた桜子が勝ち誇ったような顔で真里菜の休学のことを伝えてきた時の光景が鮮明に甦った。
「それに真里菜ちゃんが浮田教授のゼミを取っているのも前から不思議に思ってたんだよ。あのゼミの時間ってさ、本来なら真里菜ちゃんの学科の人間なら取っておくべき授業があるじゃん。だから真里菜ちゃんはどうしてそっちを取らないんだろうって思ってた。でもそのお節介な一人が俺に教えてくれたよ。浮田教授は欧州の文化に詳しいからなんだろ?」
「は、はい。私、昔からヨーロッパがすごく好きで……。特にあちらの食器が大好きなんです。一日中見ていても飽きないくらい大好きで」
裄人は「へぇ、すごいね」と言うと、オールを漕いでいた手を止める。二人を乗せたボートは湖の中央でゆらゆらと停滞を始めた。
「それとさ、俺、真里菜ちゃんのお父さんの単身赴任先って国内だって勝手に思い込んでたけどそうじゃないんだって?」
「父は今イタリアにいます。今年日本に戻ってくるはずだったんですが、期間が延びることになったみたいで……」
「それで大学に届けを出してお父さんの所に行こうと決めたってことか」
「はい、向こうに行って色んな物を見てきたいんです。私、今回父が引き続き向こうに残る事になったから今すぐに行く事を決めましたが、多分大学を卒業したら一人でも行っていたと思います」
「いつこっちに戻ってくるとかは決めてるの?」
真里菜は申し訳無さそうに目を伏せる。
「いえ……。具体的な帰国予定日は決めていないです」
「決意、固そうだね」
「ごめんなさい……。この事も休学届けを出してからは早く言わなくちゃって思っていたんですけど、裄人さんとはお知り合いになったばかりでなかなか言い出せなくて……」
裄人はまったく気にしていないような表情で軽く笑うと前髪を掻きあげる。
「いいんだ。それが真里菜ちゃんの決めたことならね」
「私、裄人さんのこと忘れません、絶対に」
顔を上げた真里菜に、「俺もだよ」と裄人が答える。
「でも振られたのになんかすごくスッキリしてる。俺自身に問題があって振られたからじゃないからかな?」
「私、本当はもっと裄人さんのこと知りたかったです……。私、男の人のお知り合いはほとんどいませんが、裄人さんみたいな優しい方、初めてお会いしました」
「ははっ、よく誤解されるんだけど、俺そんなにいい奴じゃないよ? 人並みに嫉妬とかもするし」
「えっ裄人さんが嫉妬することなんてあるんですか?」
「これでも恋愛面に関しては結構不遇な人生送ってきてるんだよ。嫌なジンクスも持ってるしね」
「嫌なジンクスってなんですか?」
裄人は真里菜には分からない程度の困った表情を浮かべ、その問いには答えなかった。そして代わりに言う。
「真里菜ちゃん、俺、君の事好きだったよ」
それは気負ってもおらず、かといって落胆もしていない、まるで単なる挨拶のような、そんな気軽な口調だった。
「向こうに行っても頑張って。俺も応援してるから」
「は、はい。ありがとうございます…」
真里菜が少々ぎこちない動作で頭を下げる。
裄人は再びオールを握り、ボート乗り場へ戻るために移動を始めた。
「俺もまた新しい恋を見つけなくっちゃなぁ。見つかるといいけど」
「いえ、裄人さんならどんな女性だって好きになります」
「そっかな?」
真里菜はスムーズ、というには程遠い動きで小さく頷いた。
「は、はい、私が保証します」
「ははっ、真里菜ちゃんの保証なら大丈夫かな。あ、そういえばこの間面白いことがあったんだよ! 孝太郎の奴がさ…」
裄人は愛想笑いを駆使し、話しの内容をさりげなく変えていく。
幼い頃から自分が本当に欲しい物はいつも手に入らなかった。
でも初めて本当に好きになったこの女性は物ではない。
だからジンクスは起きないんじゃないかと密かに期待していたのだが、どうやらそれは単なる淡い期待に過ぎなかったようだ。
── やっぱ俺ってこのジンクスからは逃れられない運命なんだなぁ
オールと作り笑顔を巧みに操り、真里菜を諦めることを決めた裄人は頭上の空を眺める。
遥か上空の澄み切った青空に、極細の筆で描いたような細い一筋の白い雲が見えた。
薄い雲の先が糸のように淡く途切れてしまっているその様子が、今の裄人には自分たちのこの恋の行く末のように映っていた。