プロローグ
緑に囲まれた小高い丘の一角に建つ『カノン慈愛学園』。
その丘の下に小さな港を一望できる抜群のロケーションと、まるでヨーロッパの建物のようなモダンな外観で人気の私立高校だ。学生には「カノン」という通り名で親しまれている。
カノンの意味は『規範』。
この高校はその学園名がすべての特徴を物語っており、校則がかなり厳しいことで有名な高校だ。
共学高校ではあるが、クラスは男子と女子に完全に分けられており、尚且つ校舎も広い敷地内に大きく離されてそれぞれ建てられている。
しかもグラウンドまでも男子専用グラウンドと女子専用グラウンドが用意されていて、同じ学園内にいても昼食時以外はお互い異性の姿を見かけることはほとんどなかった。
クラスは男女共に一学年六クラス、各クラス二十名足らずの小人数制。
それに加え、徹底しているこの学園の規律の厳しさが、我が子の学力向上と異性関係を心配する父兄達の絶大なる支持を集め続けている大きな要因の一つでもあった。
この学園は慈愛、博愛をモットーとするスクールカラーが売りの一つでもある。
そのため、入学前の個人審査で本人や親がボランティア活動などを行っているかを学園側は必ず問う。
だがそれまで特にそれらの活動に携わる経験が無かったとしても、学力と素行、それに家庭環境に特に大きな問題が無ければ学園への入学は許可されることが多い。
――が、是が非でも我が子をカノンへ入れたいと真剣に願う親の中には面接前に熱心にボランティア活動に従事し、その活動の詳細を面接で得々と語る者まで現れるらしい。
この学園が保護者にとって魅力の高い高校だということがそこからも容易に伺うことができた。
昨日は新入生の親も来校しての入学式が厳粛に執り行われ、新入生にとっては今日が初めての登校日だ。桜の蕾が少しずつ芽吹き始めるこの季節、丘の上に建つ白亜の高校に向かって歩く少女が一人。
少女の名は倉沢桃乃。
肩を少し越したセミロングの濡れるような黒髪と、同じように大きな黒い瞳が特徴の、細身で比較的おとなしい性格の少女だ。
学力は現時点では中の上。
上位ベストランクには入っていないが下位ランクで目立つこともない、ごく普通の学力だ。
しかしそれはあくまでカノンの中のランクであって、カノンの偏差値は他の近隣の私立高校よりも高水準のため、桃乃の学力は決して低いものでは無かった。
憧れのカノンの制服を身に着けられた嬉しさで、桃乃はウキウキしながら歩いていた。長い黒髪がその度に大きく揺れる。
カノン女子の制服は有名なデザイナーブランドの一つで、群青色のジャケットにネクタイ、そして膝上十センチのブラウンチェックタイプのスクールスカートだ。
男子も上のジャケットとネクタイは女子と同じ物で、ボトムは濃いグレーで一番細いスケータータイプ。靴は男女とも黒のローファーだ。
ここの制服で特に桃乃の一番のお気に入りは、今自分の胸元で鈍く光っている青いネクタイだ。
深い海のような鮮やかな色のジャケットの胸元を引き締めるネクタイは、ブルーにほんの少しの光沢が入っていて太陽光の当たる角度によって鈍く輝く。
「あ、あの子カノンの生徒よ」
今朝の電車内に差し込む光でそのネクタイがわずかに光り、それに気付いた他高の生徒がヒソヒソと後ろで噂していたのがたまらなく快感だった。
嬉しさのあまり今にもスキップしそうな歩き方をしていた桃乃の小さな頭に、突然、ポンッと大きな何かが乗せられる。
「きゃっ!?」
頭頂部に感じるゴツゴツした感触。誰かの大きな掌のようだ。
驚いた桃乃は身を翻して後ろを振り返る。
「……なぁ桃太郎、お前なに朝からそんなに浮かれているワケ?」
長身で肩幅のある男子が、うっすらと両目にかかる長い前髪を空いている片手で邪魔そうにかきあげ、桃乃を見下ろしている。
桃乃は一瞬息を呑んだ後、その少年に向かって怒りをぶつけた。
「とっ冬馬……! もう、いきなりなにするのよ! ビックリしたじゃない!」
桃乃に「冬馬」と呼ばれた少年、西脇冬馬は桃乃の頭を軽く叩いた大きな右手を広げながらヘヘッと屈託の無い笑顔を見せた。
「だってよ、お前今にも踊り出しそうな歩き方してたぜ? 公衆の面前で恥かかないように俺が止めてやったんじゃねぇか。感謝してほしいね」
「か、感謝……?」
いきなり驚かせて謝るどころか感謝しろ、と言い出す冬馬に桃乃は唖然とする。
「なぁそれよりよ、なんでお前今朝さっさと一人で行っちまうんだよ? 一緒に行こうと思って朝お前んちに寄ったんだぜ?」
「なっなんで私が冬馬と一緒に登校しなきゃいけないのよ?」
「なんでって……同じガッコじゃねぇか。家だって真ん前だしよ」
桃乃の家と冬馬の家は昔からお向かい同士のご近所さんで二人は幼馴染の間柄だ。
「あっ、わーかったっ! 俺、分かっちゃったよ!」
身長百七十八センチの冬馬は急に相好を崩すと、すかさず長身を折り曲げて二十センチ下にいる桃乃の顔をグイッと覗き込む。
その拍子に冬馬の前髪が自分の前髪に微かに触れ、反射的に桃乃は半歩身を引いた。
「お前さー、嬉しさのあまり恥ずかしいんだろ? この俺と歩くのがさ」
「バッ、バッカじゃないの!?」
桃乃はそう言い放つとプイと顔を背け、さっさと先に歩き出した。
普段はおとなしい桃乃だが、幼馴染の冬馬の前では最近よくこんな態度になってしまう。
後方から冬馬の大声が響く。
「おーい桃太郎~。図星だからってそんなにむくれるなよ~!」
桃乃はなんとかこの幼馴染を振り切ろうと足を早めた。
が、今の二人の歩幅は約倍ほども違うので、すぐにあっさりと追いついてきた冬馬は桃乃の横に並ぶとさりげなく自分のペースを落す。
しかし歩幅を合わせてもらっていることに気付いていない桃乃は、右斜め上の冬馬の顔を見上げて一旦足を止め、再び強い口調で切り出す。
「冬馬っ、いいかげんに私のこと桃太郎って呼ぶのは止めて!」
「は? だって桃太郎じゃん?」
「だから止めてってば!」
―― 幼い時は桃乃のことを「ももちゃん」と呼んでいた冬馬だが、成長するにつれて小学校高学年になってからは「桃乃」、そして中学二年以降はなぜか「桃太郎」と呼ぶようになっていたのだ。
「ま、そんな細かいことにイチイチこだわるなって。どーせどっちも大して変わんねぇじゃん?」
冬馬は桃乃から視線を外し、前方を見たままでハハハッと快活な笑い声を上げた。
そんな冬馬を横目にまた歩き出した桃乃は、(昔はこんな奴じゃなかったのに……)とイライラしてくる気持ちを心の中だけでなんとか抑えることに腐心する。
幼い頃は桃乃より背が低く、「モモちゃん、大きくなったらボクのお嫁さんになってよね」なんて可愛らしいことを言っていた冬馬だったのに、気が付けばいつのまにか背もこんなに大きく追い抜かれて桃乃はさっきみたいに「桃太郎」と呼ばれ、いつもからかわれるようになってしまっていたのだ。
カノンに近づくにつれ通学する生徒の数も少しずつ増え出し、桃乃はできるだけ冬馬と並ばないように歩こうと必死に努力を続けた。
だが元凶の冬馬が「なぁなぁ桃太郎。この間のさ……」などとあれこれと話し掛けてくるため、結局その努力はすべて無駄に終わってしまっていた。
よって今の桃乃に残されたせめてもの抵抗は、冬馬の呼びかけに一切返事をせず、二度と右側に顔を向けないで競歩のようなスピードでスタスタと歩くことだけだった。
ようやくカノンの正門が見えてくる。門柱横に一人の若い女性が立っていた。
グラマラスな体を黒いスーツで包んだ魅惑的な容姿のその女性は、桃乃達の方にゆっくりと視線を向ける。
「おはよう」
年は二十代半ば辺りだろうか。女性の発した声はよく通るソプラノ声だ。
「お、おはようございます」
「おはよっす」
初めて会う女性だったが、たぶんこのカノンの教師なのだろう。その女性は開いていた名簿を一度閉じ、意味ありげに呟く。
「へぇ……新入生が初日からカップルで登校するの、久しぶりに見たわ」
毛先を柔らかくカールさせたロングヘアに唇に綺麗にひかれたパールピンクのリップが艶かしい。
「わっ、私たちそんな関係じゃありませんっ!」
桃乃は赤くなって慌てて否定をした。一方、冬馬は否定も肯定もせず、黙って突っ立っている。
「あなた達新入生ね? 名前教えてもらえるかしら?」
「は、はい。倉沢桃乃です」
「……西脇冬馬ッス」
「倉沢さんに西脇くんね……」
その女性は右手に持っていた「新入生名簿」と書かれた名簿を再び開き、パラパラとページをめくって中に二人の名前が記載されていることを確認する。
「ね、どっちでもいいけど仲良く登校はここまでよ。ウチは男女交際の規律が厳しいの知ってるわよね? この先、女の子は左、男の子は右の校舎に行ってね」
グロスのせいで濡れたような唇の女性はそう言うとそれぞれ進む方向を指差す。
「分かりました」
桃乃はそう返事をすると冬馬の方を一切見ないまま左の校舎の方へ歩いて行く。
正門前でまだその桃乃の後ろ姿を見送っていた冬馬に女性がフフッと笑いかけた。
「ねぇねぇ君、もしかして振られちゃったの?」
感情がすぐ表情に出る性格の冬馬は途端にムッとした表情を浮かべる。
「……そんなんじゃないッスよ」
そして不機嫌な顔のまま、サッと身を翻すと右側の校舎に走り去っていった。
カノンで英語の教科を担当する女性教師、柳川緑は好奇心の混じった目で冬馬の後姿をしばらく目で追った。そして唇の右端を小さく上げて笑うと、新入生名簿を再び開く。
白く細い指が名簿の上をなめらかに滑りはじめた。
やがてその指は静かにその動きを止めたが、その指がさした先は冬馬の履歴表が載っているページだった。