悪役令嬢のおとぎばなし
エルゼミナ・エーレンヴェルが、ヴァルター王太子を好きになったのは、六歳の春だった。
正確には、好きになろうと決めた。
「エルゼミナ。こちらがヴァルター殿下ですよ」
母にそう紹介されて顔を上げると、金色の髪をした少年が立っていた。青い瞳。白い頬。少しだけ緊張した顔。
その姿を見た瞬間、エルゼミナは思った。
ああ。この方が、わたくしの王子さまなのね。
「エルゼミナ・エーレンヴェルです」
覚えたばかりの礼をしてみせる。ヴァルターもぎこちなく頭を下げた。
「ヴァルターだ。よろしく」
「はい!」
その日の帰りの馬車で、エルゼミナは母に尋ねた。
「お母様。わたくしは、いつか殿下のお妃になるのですか?」
「そうなるよう、両家でお話を進めていますよ」
「まあ」
嬉しかった。
その夜、侍女に読んでもらったおとぎばなしには、美しいお姫さまと立派な王子さまが出てきた。たくさんの困難を乗り越えて、最後には二人で幸せになる。
エルゼミナは頁に描かれた王子の顔を指でなぞった。
「ヴァルター殿下みたい」
「でしたら、お嬢様はお姫様ですね」
「わたくしが?」
「ええ。きっと、とても素敵なお姫様になりますよ」
それからエルゼミナは、一生懸命にお姫様になった。
礼儀を覚えた。外国語を学んだ。歴史を学び、法律を学び、税制を学んだ。王族の系譜を頭に入れ、地方貴族の名前と領地を覚えた。ダンスも楽器も刺繍も、苦手なものほど練習した。
ヴァルターの好きな紅茶を覚えた。苦手な菓子も覚えた。馬に乗った日の夜はよく眠ることも、考え事をすると右手の人差し指で机を二度叩くことも、人前では平気な顔をするくせに雷が少し苦手なことも。
全部、知っていた。
だって、いつか妻になるのだから。
王子さまのことを一番よく知っているのは、お姫様でなければならない。
十三歳で正式に婚約が結ばれた日、ヴァルターは照れくさそうに言った。
「これからもよろしく、エルゼミナ」
「はい、殿下」
「そんなにかしこまらなくていい」
「では、ヴァルター様?」
「……それでいい」
エルゼミナは嬉しくて笑った。ヴァルターも笑った。その顔が、とても好きだった。
だから、ずっと続くと思っていた。
十六歳になって王立学院へ入っても。十七歳になって王妃教育が本格化しても。
十八歳になって、聖女が現れても。
「ニナと申します」
聖女ニナは、栗色の髪を肩で切り揃えた小柄な少女だった。平民の生まれだという。地方の礼拝堂で傷ついた子どもに触れたところ、傷が瞬く間に塞がった。
調査の結果、百年以上現れていなかった聖女であることが判明し、王都へ迎えられて神殿と王家双方の保護下に置かれた。
「まあ。あなたが聖女様なのですね」
初めて会った日、エルゼミナは笑顔で手を差し出した。ニナは慌てて頭を下げる。
「こ、公爵令嬢様……!」
「エルゼミナで結構ですわ。これからお会いする機会も多いでしょうから」
「はい!」
素直で、よく笑う少女だった。悪い人ではない。それはすぐに分かった。
ヴァルターもニナを気に入ったようだった。王家の代表として神殿との調整に顔を出し、学院でも何かと世話を焼いている。
けれど、それは当然だとエルゼミナは思った。聖女なのだから。国にとって大切な方なのだから、王太子が親しくするのは当たり前だ。
「最近、殿下とよくお話しになるのですね」
「ち、違います! 殿下には色々教えていただいているだけで!」
「分かっていますわ」
エルゼミナは笑った。本当に、分かっていた。
だから何も問題はない。
おとぎばなしでも、聖女は王子さまを助けるものだ。それくらいは知っている。
少し気になったのは、そのあとだった。
「フリーダ・ベルマンです」
子爵令嬢フリーダは、聖女とはまるで違う娘だった。淡い茶色の髪をきれいに編み、よく通る声で笑う。社交的で、誰とでもすぐに話せる。
成績は中の上。ダンスはそこそこ。家柄も、特別というほどではない。ベルマン子爵家は堅実な家ではあるが、王家と婚姻を結ぶような格ではなかった。
なのに。
「殿下。先ほどの講義なのですが」
「ああ、あれか」
「先生の説明、少しおかしくありませんでした?」
「やはりそう思ったか?」
「殿下も途中から眉間に皺が寄っていましたもの」
「見ていたのか」
「あれだけ分かりやすければ、誰でも気づきます」
「そんなにか?」
「ええ。かなり」
ヴァルターが声を立てて笑った。
「それは困ったな」
「王太子殿下が講義中ずっと難しい顔をしていたら、先生もやりにくいでしょうね」
「では次から気をつけよう」
「無理だと思います」
「即答か」
「だって、また気になるところがあれば同じ顔をなさるでしょう?」
フリーダも笑う。ヴァルターは何か言い返そうとして、結局また笑った。
エルゼミナは少し離れた場所から、その横顔を見ていた。
見たことのない笑い方だった。肩の力が抜けている。王太子ではなく、ただの十八歳の青年のような顔。
エルゼミナは首を傾げた。
不思議だった。
ヴァルターが考え事をすると眉間に皺が寄ることくらい、エルゼミナも知っている。もっと前から知っている。
彼が人差し指で机を二度叩く癖も、雷が苦手なことも、紅茶に砂糖を入れないことも。
フリーダより、ずっとたくさん知っている。
なのに。
ニナなら分かる。聖女だから。
でも。
フリーダは、何なのだろう。
夕方、馬車へ向かう途中で尋ねてみた。
「フリーダ様とは、よくお話しになりますのね」
「同じ授業を取っているからな」
「そうでしたの」
「それだけだ」
「まあ。わたくし、何も申しておりませんわ」
「……そうだな」
ヴァルターは少しだけ目を逸らした。
それからも、偶然は続いた。図書室で会った。中庭で会った。廊下で会った。委員会の仕事で一緒になった。雨の日にフリーダが傘を忘れ、ヴァルターが馬車まで送ったこともあった。
エルゼミナは数えていた。別に疑っていたわけではない。ただ、王妃になる者として、王太子の周囲を把握しておく必要があるだけだ。
一度なら偶然。
二度も、まあ偶然。
三度。四度。五度。
ずいぶん、偶然とは便利な言葉なのね。
そう思っただけだった。
卒業を三か月後に控えた冬の日、ヴァルターに呼び出された。
王宮の小さな応接室。昔、二人で菓子を食べたこともある部屋だった。エルゼミナはいつもの席に座った。
「何でしょう?」
ヴァルターは向かいに座らなかった。窓辺に立ったまま、何度か口を開いては閉じる。
人差し指が、窓枠を二度叩いた。
考え事をしている時の癖。
「エルゼミナ」
「はい」
「婚約について、話したいことがある」
「結婚式のお話でしたら、お母様と王妃陛下が――」
「違う」
ヴァルターが遮った。エルゼミナは黙った。
「僕は……この婚約を、一度考え直したい」
意味が分からなかった。
だから尋ねた。
「どうして?」
「君が悪いわけではない」
「では、どうして?」
「そういう問題ではなくて」
「わたくしは何か不足しておりますか?」
「違う」
「王妃教育の成績でしょうか」
「違う」
「外交儀礼?」
「そうじゃない」
「では、どうして?」
エルゼミナは笑ったまま首を傾げた。
ヴァルターは答えなかった。けれど、その沈黙で分かってしまった。
「フリーダ様?」
肩が揺れた。
ああ。
やっぱり。
「……彼女のせいではない」
「ニナ様ではなく?」
「ニナは関係ない!」
「そうですか」
それなら、もっと分からなかった。
聖女ならまだ分かるのに。神に選ばれた特別な娘なら、おとぎばなしで王子さまと結ばれても不思議ではないのに。
どうして、フリーダなのだろう。
エルゼミナはきちんと礼をして部屋を出た。泣かなかった。怒らなかった。
ただ、その夜は一睡もできなかった。
どうして。
どうして。
どうして。
朝になるまで考えた。
答えは出なかった。
だから、ニナに聞いてみた。
「ヴァルター様は、あなたのことがお好きなのかしら?」
神殿の庭で、ニナは目を丸くした。
「え?」
「あなたなら分かる気がするの」
「な、何がですか?」
「聖女ですもの」
エルゼミナは微笑んだ。
「わたくしより、ずっとお姫様らしいでしょう?」
「そんなこと……」
「殿下は、わたくしとは結婚したくないそうよ」
「そんな」
「おかしいでしょう?」
ニナは困ったように黙り込んだ。
「……おかしいわよね?」
答えはなかった。
エルゼミナは少し寂しくなった。だから、その日はそこで別れた。
次にフリーダと話した。
「殿下がお好き?」
単刀直入に尋ねると、フリーダは真っ青になった。
「エーレンヴェル公爵令嬢、それは」
「好きなの?」
長い沈黙。
そして。
「……はい」
フリーダは答えた。
エルゼミナは、なるほどと思った。
「そう」
「申し訳ありません」
「どうして謝るの?」
「でも」
「好きになることは、悪いことではありませんでしょう?」
本当にそう思った。
好きになることは、悪くない。エルゼミナだって、ヴァルターが好きなのだから。
「わたくしも大好きよ」
だから笑った。
「一緒ね」
フリーダは何も言えなかった。
その三日後、ヴァルターから手紙が届いた。
婚約について、改めて話がしたい。
二人きりで。
王宮離宮の薔薇園で待つ、と。
エルゼミナは手紙を丁寧に畳んだ。支度を終え、鏡の前で髪を整える。
その時、化粧台の隅に置かれていた銀色の小さなナイフが目に入った。果物を切ったり、花の茎を整えたりするために使う細身のものだった。
エルゼミナはしばらくそれを見つめた。
そして、手に取った。
鞄へ入れる。
なぜそうしたのかは、考えなかった。
冬の薔薇はほとんど咲いていなかった。月も薄い。夜の庭は青暗く、遠くに王宮の灯りだけが浮かんでいた。
エルゼミナが薔薇園へ入ると、ヴァルターはもう来ていた。
「エルゼミナ」
「お待たせしました?」
「いや」
ヴァルターは一歩、こちらへ来た。
そして、止まった。
彼の視線が、エルゼミナの向こうへ向く。
低い生垣の陰。
白い服が見える。
ニナだった。
眠っているように、薔薇の根元へ横たわっていた。
少し離れた場所にはフリーダもいた。淡い茶色の髪が、濡れた石畳に広がっている。
ヴァルターの顔が強張った。
「……何をした」
エルゼミナも振り返った。
「ああ」
ニナ。
フリーダ。
二人とも、静かだった。
「お話をしましたの」
「エルゼミナ」
「ニナ様は聖女でしょう?」
一歩、近づく。ヴァルターが一歩、下がった。
「だから、最初はニナ様なのかと思いましたの」
「来るな」
「でも違いました」
もう一歩。
「フリーダ様だったのですね」
「来るな!」
大きな声だった。
エルゼミナは足を止めた。
「どうして?」
ヴァルターの顔を見る。
怯えている。
どうして。
「わたくしですよ?」
返事がない。
「エルゼミナです」
幼い頃から一緒だった。好きな紅茶も知っている。雷が苦手なのも知っている。
王太子になったら何をしたいかも聞いた。結婚したらどこへ行こうかと話したことだってある。考え事をする時の癖も、困った時の顔も、たくさん知っている。
フリーダより、ずっと。
「あなたの婚約者でしょう?」
「……もう違う」
「え?」
「婚約は解消する」
どうして。
「ニナを殺して」
どうして。
「フリーダまで殺して!」
どうして。
「僕が君を愛せると思うのか!」
どうして。
どうして。
どうして。
エルゼミナは一歩、進んだ。ヴァルターが下がった。
「近づくな!」
「ヴァルター様」
「来るな!」
「好きです」
「やめろ!」
「ずっと好きでした」
「やめろ!」
「今も好きです」
手を伸ばした。
ヴァルターが、その手を払いのけようとした。
その時だった。
二人の間に、何か硬いものがぶつかった。
ヴァルターが息を呑む。エルゼミナも見下ろした。
銀色の小さなナイフが、ヴァルターの胸に刺さっていた。
柄を握っているのは、自分の手だった。
「あら」
見覚えはあった。
今夜、自分で鞄へ入れたものだ。
どうして持ってきたのだったかしら。
エルゼミナは少し考えた。
けれど、答えは出なかった。
ヴァルターがエルゼミナを見る。
青い瞳。
六歳の春と同じ色。
「エル……ゼ……」
「はい」
膝から崩れた身体を、エルゼミナは慌てて抱きとめた。
危ないところだった。
石畳に頭を打ってしまう。
「大丈夫ですか?」
返事がない。
「ヴァルター様?」
頬に触れる。
まだ温かい。
「ねえ。好きって言って?」
唇がわずかに動いた。けれど、声は出なかった。
「聞こえませんでした。もう一度、好きって言ってくださいな」
返事がない。
「ヴァルター様」
返事がない。
エルゼミナは困った。
全部、なくしたのに。
ニナも。
フリーダも。
もう誰も邪魔をしない。
ヴァルターは自分の腕の中にいる。
どこにも行かない。
なのに。
どうして。
「どうして?」
頬が少しずつ冷たくなっていく。
エルゼミナは彼を抱いたまま、辺りを見た。
薔薇のそばにはニナ。
少し向こうにはフリーダ。
腕の中にはヴァルター。
赤いものが、自分の白いドレスにも広がっていた。
まるで薔薇みたい。
その時、ふと分かった。
「ああ」
エルゼミナは笑った。
そういうことだったのね。
おとぎばなしには、王子さまとお姫様がいる。聖女がいることもある。別の娘が王子さまに恋をすることもある。
そして。
悪い女もいる。
嫉妬して、怒って、誰かを傷つけて。
時には、大好きな王子さままで殺してしまう。
ずっと、自分がお姫様だと思っていた。
間違ってはいなかった。
ただ。
「わたくし、悪いお姫様だったのね」
それだけだった。
不思議と、ほっとした。
王子さまと結ばれるお姫様ではなかった。
ただ、悪いお姫様だった。
ちゃんと自分にも役があった。
最初から最後まで、これはおとぎばなしだったのだ。
そう思えば、分からなかったことが全部、きれいに収まった。
エルゼミナは、冷たくなっていくヴァルターの頬に自分の頬を寄せた。
「ねえ、ヴァルター様」
返事はない。
それでも構わなかった。
ヴァルターはもう、どこにも行かない。誰にも取られない。
ずっと自分の王子さまだ。
エルゼミナは微笑んだ。
そして、もう一度だけ囁いた。
「わたくし、あなたが大好きよ」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
このお話は、最初から最後までエルゼミナから見たお話です。
エルゼミナにとっては、二人と「お話をした」だけですから。
……本人の中では。
きっと最後まで、そうだったのでしょう。




