表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

悪役令嬢のおとぎばなし

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/08/15

エルゼミナ・エーレンヴェルが、ヴァルター王太子を好きになったのは、六歳の春だった。


正確には、好きになろうと決めた。


「エルゼミナ。こちらがヴァルター殿下ですよ」


母にそう紹介されて顔を上げると、金色の髪をした少年が立っていた。青い瞳。白い頬。少しだけ緊張した顔。


その姿を見た瞬間、エルゼミナは思った。


ああ。この方が、わたくしの王子さまなのね。


「エルゼミナ・エーレンヴェルです」


覚えたばかりの礼をしてみせる。ヴァルターもぎこちなく頭を下げた。


「ヴァルターだ。よろしく」

「はい!」


その日の帰りの馬車で、エルゼミナは母に尋ねた。


「お母様。わたくしは、いつか殿下のお妃になるのですか?」

「そうなるよう、両家でお話を進めていますよ」

「まあ」


嬉しかった。


その夜、侍女に読んでもらったおとぎばなしには、美しいお姫さまと立派な王子さまが出てきた。たくさんの困難を乗り越えて、最後には二人で幸せになる。


エルゼミナは頁に描かれた王子の顔を指でなぞった。


「ヴァルター殿下みたい」

「でしたら、お嬢様はお姫様ですね」

「わたくしが?」

「ええ。きっと、とても素敵なお姫様になりますよ」


それからエルゼミナは、一生懸命にお姫様になった。


礼儀を覚えた。外国語を学んだ。歴史を学び、法律を学び、税制を学んだ。王族の系譜を頭に入れ、地方貴族の名前と領地を覚えた。ダンスも楽器も刺繍も、苦手なものほど練習した。


ヴァルターの好きな紅茶を覚えた。苦手な菓子も覚えた。馬に乗った日の夜はよく眠ることも、考え事をすると右手の人差し指で机を二度叩くことも、人前では平気な顔をするくせに雷が少し苦手なことも。


全部、知っていた。


だって、いつか妻になるのだから。


王子さまのことを一番よく知っているのは、お姫様でなければならない。


十三歳で正式に婚約が結ばれた日、ヴァルターは照れくさそうに言った。


「これからもよろしく、エルゼミナ」

「はい、殿下」

「そんなにかしこまらなくていい」

「では、ヴァルター様?」

「……それでいい」


エルゼミナは嬉しくて笑った。ヴァルターも笑った。その顔が、とても好きだった。


だから、ずっと続くと思っていた。


十六歳になって王立学院へ入っても。十七歳になって王妃教育が本格化しても。


十八歳になって、聖女が現れても。


「ニナと申します」


聖女ニナは、栗色の髪を肩で切り揃えた小柄な少女だった。平民の生まれだという。地方の礼拝堂で傷ついた子どもに触れたところ、傷が瞬く間に塞がった。


調査の結果、百年以上現れていなかった聖女であることが判明し、王都へ迎えられて神殿と王家双方の保護下に置かれた。


「まあ。あなたが聖女様なのですね」


初めて会った日、エルゼミナは笑顔で手を差し出した。ニナは慌てて頭を下げる。


「こ、公爵令嬢様……!」

「エルゼミナで結構ですわ。これからお会いする機会も多いでしょうから」

「はい!」


素直で、よく笑う少女だった。悪い人ではない。それはすぐに分かった。


ヴァルターもニナを気に入ったようだった。王家の代表として神殿との調整に顔を出し、学院でも何かと世話を焼いている。


けれど、それは当然だとエルゼミナは思った。聖女なのだから。国にとって大切な方なのだから、王太子が親しくするのは当たり前だ。


「最近、殿下とよくお話しになるのですね」

「ち、違います! 殿下には色々教えていただいているだけで!」

「分かっていますわ」


エルゼミナは笑った。本当に、分かっていた。


だから何も問題はない。


おとぎばなしでも、聖女は王子さまを助けるものだ。それくらいは知っている。


少し気になったのは、そのあとだった。


「フリーダ・ベルマンです」


子爵令嬢フリーダは、聖女とはまるで違う娘だった。淡い茶色の髪をきれいに編み、よく通る声で笑う。社交的で、誰とでもすぐに話せる。


成績は中の上。ダンスはそこそこ。家柄も、特別というほどではない。ベルマン子爵家は堅実な家ではあるが、王家と婚姻を結ぶような格ではなかった。


なのに。


「殿下。先ほどの講義なのですが」

「ああ、あれか」

「先生の説明、少しおかしくありませんでした?」

「やはりそう思ったか?」

「殿下も途中から眉間に皺が寄っていましたもの」

「見ていたのか」

「あれだけ分かりやすければ、誰でも気づきます」

「そんなにか?」

「ええ。かなり」


ヴァルターが声を立てて笑った。


「それは困ったな」

「王太子殿下が講義中ずっと難しい顔をしていたら、先生もやりにくいでしょうね」

「では次から気をつけよう」

「無理だと思います」

「即答か」

「だって、また気になるところがあれば同じ顔をなさるでしょう?」


フリーダも笑う。ヴァルターは何か言い返そうとして、結局また笑った。


エルゼミナは少し離れた場所から、その横顔を見ていた。


見たことのない笑い方だった。肩の力が抜けている。王太子ではなく、ただの十八歳の青年のような顔。


エルゼミナは首を傾げた。


不思議だった。


ヴァルターが考え事をすると眉間に皺が寄ることくらい、エルゼミナも知っている。もっと前から知っている。


彼が人差し指で机を二度叩く癖も、雷が苦手なことも、紅茶に砂糖を入れないことも。


フリーダより、ずっとたくさん知っている。


なのに。


ニナなら分かる。聖女だから。


でも。


フリーダは、何なのだろう。


夕方、馬車へ向かう途中で尋ねてみた。


「フリーダ様とは、よくお話しになりますのね」

「同じ授業を取っているからな」

「そうでしたの」

「それだけだ」

「まあ。わたくし、何も申しておりませんわ」

「……そうだな」


ヴァルターは少しだけ目を逸らした。


それからも、偶然は続いた。図書室で会った。中庭で会った。廊下で会った。委員会の仕事で一緒になった。雨の日にフリーダが傘を忘れ、ヴァルターが馬車まで送ったこともあった。


エルゼミナは数えていた。別に疑っていたわけではない。ただ、王妃になる者として、王太子の周囲を把握しておく必要があるだけだ。


一度なら偶然。


二度も、まあ偶然。


三度。四度。五度。


ずいぶん、偶然とは便利な言葉なのね。


そう思っただけだった。


卒業を三か月後に控えた冬の日、ヴァルターに呼び出された。


王宮の小さな応接室。昔、二人で菓子を食べたこともある部屋だった。エルゼミナはいつもの席に座った。


「何でしょう?」


ヴァルターは向かいに座らなかった。窓辺に立ったまま、何度か口を開いては閉じる。


人差し指が、窓枠を二度叩いた。


考え事をしている時の癖。


「エルゼミナ」

「はい」

「婚約について、話したいことがある」

「結婚式のお話でしたら、お母様と王妃陛下が――」

「違う」


ヴァルターが遮った。エルゼミナは黙った。


「僕は……この婚約を、一度考え直したい」


意味が分からなかった。


だから尋ねた。


「どうして?」

「君が悪いわけではない」

「では、どうして?」

「そういう問題ではなくて」

「わたくしは何か不足しておりますか?」

「違う」

「王妃教育の成績でしょうか」

「違う」

「外交儀礼?」

「そうじゃない」

「では、どうして?」


エルゼミナは笑ったまま首を傾げた。


ヴァルターは答えなかった。けれど、その沈黙で分かってしまった。


「フリーダ様?」


肩が揺れた。


ああ。


やっぱり。


「……彼女のせいではない」

「ニナ様ではなく?」

「ニナは関係ない!」

「そうですか」


それなら、もっと分からなかった。


聖女ならまだ分かるのに。神に選ばれた特別な娘なら、おとぎばなしで王子さまと結ばれても不思議ではないのに。


どうして、フリーダなのだろう。


エルゼミナはきちんと礼をして部屋を出た。泣かなかった。怒らなかった。


ただ、その夜は一睡もできなかった。


どうして。


どうして。


どうして。


朝になるまで考えた。


答えは出なかった。


だから、ニナに聞いてみた。


「ヴァルター様は、あなたのことがお好きなのかしら?」


神殿の庭で、ニナは目を丸くした。


「え?」

「あなたなら分かる気がするの」

「な、何がですか?」

「聖女ですもの」


エルゼミナは微笑んだ。


「わたくしより、ずっとお姫様らしいでしょう?」

「そんなこと……」

「殿下は、わたくしとは結婚したくないそうよ」

「そんな」

「おかしいでしょう?」


ニナは困ったように黙り込んだ。


「……おかしいわよね?」


答えはなかった。


エルゼミナは少し寂しくなった。だから、その日はそこで別れた。


次にフリーダと話した。


「殿下がお好き?」


単刀直入に尋ねると、フリーダは真っ青になった。


「エーレンヴェル公爵令嬢、それは」

「好きなの?」


長い沈黙。


そして。


「……はい」


フリーダは答えた。


エルゼミナは、なるほどと思った。


「そう」

「申し訳ありません」

「どうして謝るの?」

「でも」

「好きになることは、悪いことではありませんでしょう?」


本当にそう思った。


好きになることは、悪くない。エルゼミナだって、ヴァルターが好きなのだから。


「わたくしも大好きよ」


だから笑った。


「一緒ね」


フリーダは何も言えなかった。


その三日後、ヴァルターから手紙が届いた。


婚約について、改めて話がしたい。


二人きりで。


王宮離宮の薔薇園で待つ、と。


エルゼミナは手紙を丁寧に畳んだ。支度を終え、鏡の前で髪を整える。


その時、化粧台の隅に置かれていた銀色の小さなナイフが目に入った。果物を切ったり、花の茎を整えたりするために使う細身のものだった。


エルゼミナはしばらくそれを見つめた。


そして、手に取った。


鞄へ入れる。


なぜそうしたのかは、考えなかった。


冬の薔薇はほとんど咲いていなかった。月も薄い。夜の庭は青暗く、遠くに王宮の灯りだけが浮かんでいた。


エルゼミナが薔薇園へ入ると、ヴァルターはもう来ていた。


「エルゼミナ」

「お待たせしました?」

「いや」


ヴァルターは一歩、こちらへ来た。


そして、止まった。


彼の視線が、エルゼミナの向こうへ向く。


低い生垣の陰。


白い服が見える。


ニナだった。


眠っているように、薔薇の根元へ横たわっていた。


少し離れた場所にはフリーダもいた。淡い茶色の髪が、濡れた石畳に広がっている。


ヴァルターの顔が強張った。


「……何をした」


エルゼミナも振り返った。


「ああ」


ニナ。


フリーダ。


二人とも、静かだった。


「お話をしましたの」

「エルゼミナ」

「ニナ様は聖女でしょう?」


一歩、近づく。ヴァルターが一歩、下がった。


「だから、最初はニナ様なのかと思いましたの」

「来るな」

「でも違いました」


もう一歩。


「フリーダ様だったのですね」

「来るな!」


大きな声だった。


エルゼミナは足を止めた。


「どうして?」


ヴァルターの顔を見る。


怯えている。


どうして。


「わたくしですよ?」


返事がない。


「エルゼミナです」


幼い頃から一緒だった。好きな紅茶も知っている。雷が苦手なのも知っている。


王太子になったら何をしたいかも聞いた。結婚したらどこへ行こうかと話したことだってある。考え事をする時の癖も、困った時の顔も、たくさん知っている。


フリーダより、ずっと。


「あなたの婚約者でしょう?」

「……もう違う」

「え?」

「婚約は解消する」


どうして。


「ニナを殺して」


どうして。


「フリーダまで殺して!」


どうして。


「僕が君を愛せると思うのか!」


どうして。


どうして。


どうして。


エルゼミナは一歩、進んだ。ヴァルターが下がった。


「近づくな!」

「ヴァルター様」

「来るな!」

「好きです」

「やめろ!」

「ずっと好きでした」

「やめろ!」

「今も好きです」


手を伸ばした。


ヴァルターが、その手を払いのけようとした。


その時だった。


二人の間に、何か硬いものがぶつかった。


ヴァルターが息を呑む。エルゼミナも見下ろした。


銀色の小さなナイフが、ヴァルターの胸に刺さっていた。


柄を握っているのは、自分の手だった。


「あら」


見覚えはあった。


今夜、自分で鞄へ入れたものだ。


どうして持ってきたのだったかしら。


エルゼミナは少し考えた。


けれど、答えは出なかった。


ヴァルターがエルゼミナを見る。


青い瞳。


六歳の春と同じ色。


「エル……ゼ……」

「はい」


膝から崩れた身体を、エルゼミナは慌てて抱きとめた。


危ないところだった。


石畳に頭を打ってしまう。


「大丈夫ですか?」


返事がない。


「ヴァルター様?」


頬に触れる。


まだ温かい。


「ねえ。好きって言って?」


唇がわずかに動いた。けれど、声は出なかった。


「聞こえませんでした。もう一度、好きって言ってくださいな」


返事がない。


「ヴァルター様」


返事がない。


エルゼミナは困った。


全部、なくしたのに。


ニナも。


フリーダも。


もう誰も邪魔をしない。


ヴァルターは自分の腕の中にいる。


どこにも行かない。


なのに。


どうして。


「どうして?」


頬が少しずつ冷たくなっていく。


エルゼミナは彼を抱いたまま、辺りを見た。


薔薇のそばにはニナ。


少し向こうにはフリーダ。


腕の中にはヴァルター。


赤いものが、自分の白いドレスにも広がっていた。


まるで薔薇みたい。


その時、ふと分かった。


「ああ」


エルゼミナは笑った。


そういうことだったのね。


おとぎばなしには、王子さまとお姫様がいる。聖女がいることもある。別の娘が王子さまに恋をすることもある。


そして。


悪い女もいる。


嫉妬して、怒って、誰かを傷つけて。


時には、大好きな王子さままで殺してしまう。


ずっと、自分がお姫様だと思っていた。


間違ってはいなかった。


ただ。


「わたくし、悪いお姫様だったのね」


それだけだった。


不思議と、ほっとした。


王子さまと結ばれるお姫様ではなかった。


ただ、悪いお姫様だった。


ちゃんと自分にも役があった。


最初から最後まで、これはおとぎばなしだったのだ。


そう思えば、分からなかったことが全部、きれいに収まった。


エルゼミナは、冷たくなっていくヴァルターの頬に自分の頬を寄せた。


「ねえ、ヴァルター様」


返事はない。


それでも構わなかった。


ヴァルターはもう、どこにも行かない。誰にも取られない。


ずっと自分の王子さまだ。


エルゼミナは微笑んだ。


そして、もう一度だけ囁いた。


「わたくし、あなたが大好きよ」

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


このお話は、最初から最後までエルゼミナから見たお話です。

エルゼミナにとっては、二人と「お話をした」だけですから。

……本人の中では。


きっと最後まで、そうだったのでしょう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
静かに壊れていくような狂気が滲み出ていて良かった。王家も王子と聖女を殺られたのは罪に問わなくてはいけないけど、王子のやらかしがデカすぎて情状酌量というか明らかに病んでて正気じゃないから対応に困るやつ。…
10年以上の間柄で婚約しているにも関わらずこうした扱いをされるなら壊れて当たり前だと思っています。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ