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図書館の夏

作者: 八本正幸
掲載日:2026/08/05

 読書好きの方なら、誰でも図書館につわる思い出の一つや二つはお持ちでしょう。

 今日は、そんな図書館にまつわる、不思議な物語をどうぞ。

 あの夏は暑かった。

 記録的な暑さだと、テレビが連日報道していた。

 高校三年生の月島星也は、市営図書館の学習スペースを利用して、毎日、受験勉強に励んでいた。ここなら、静かで空調が効いていて快適だし、勉強に集中出来ると思ったからだ。家にいるとついつい、テレビゲームをしたり、YouTubeで動画を観てしまったりしてしまう。しかし、そう考えるのは誰も同じと見えて、一〇八席ある学習スペースは、市内の各所にある中学高校の生徒たちで奪い合いとなり、毎朝九時の開館前には、席を得るために行列が出来る有様だった。なので星也は毎日早起きをして、図書館前の行列に加わるのだ。それほど熱心に図書館通いをして、受験勉強に集中するのには、理由があった。明確な夢があったからだ。それは……。

 宇宙飛行士になること!

 父親が地元の天体観測所の職員をしている影響もあり、幼い頃から宇宙への関心が深かったが、決定的だったのは、小学生の時に観た、宇宙飛行士になろうとする兄弟を描いたアニメだった。単なる憧れではなく、中学に入ると具体的に理数系の教科の勉強に力を入れるようになり、同時に体力をつけるためのトレーニングも欠かさない。

 今日も朝の早い時間にランニングをしてから図書館に来た。

 お、今日もいる!

 席取りの行列の先頭に近いところに、長い黒髪をポニーテールにして、水色のノースリーヴのワンピースを着て、日傘を差して紫外線を避けている小柄な少女の姿を見つけて、星也の心は躍った。夏休みになってここに通うようになってから、ほぼ毎日姿を見せる彼女に、心惹かれるものを感じた。いつも質素な身なりをしていて、決して華やかな容姿ではなかったけれど、どこか京人形を思わせる面影も儚げな風情があった。何とか話しかけたいとは思うのだけれど、図書館という場所柄もあり、まだ果たせないでいる。

 やがて開館の時間となった。学習スペースの利用希望者は、入口のところに置かれた箱に手を入れて、番号札を引いて、その日の席番が決められるというシステムだった。

 今日の星也の席番は七八。自分の誕生日、七月八日と同じ番号なので、何となくラッキーな気がした。

 図書館は、中央が吹き抜けになっていて、六角形のフロアが三〇度ずつ交差しながら五層に積み重なったかたちをしている。その最上階の壁面一辺に一六の机と椅子が並び、六面合計で一〇八の学習スペースとなっていた。六角形というのは、蜜蜂の巣にも見られる構造で、衝撃吸収に優れているだけでなく、亀の甲羅とも同じかたちで、長寿のシンボルとして縁起の良いものであると、図書館の入口に飾られた建築模型の説明文に書かれていた。

 番号札を手に、自分の席に向かった星也は、その席を目前に立ち止まり、心臓が高鳴るのを感じた。何と、彼の席の左隣、七七番の席に、あの少女が坐っていたのだ。

 音を立てないように、慎重に椅子を引いたつもりだったのだが、変に力が入ってしまい、逆に大きな音を立ててしまった。その音に反応して、少女が振り返って、眼が合った。とっさに、ちょっと頭を下げると、向こうも小さく会釈を返し、すぐにまた自分の作業に戻って行った。ちらりと見えたのは、机の上広げられたノートに手描きの文字が並んでいるところだった。

 自分も席に着き、参考書を広げたけれど、隣の気配が気になって、なかなか頭に入らない。白い不透明なアクリルの薄い仕切り板の方に意識を集中すると、ペンを走らせる音が、吐息のようにかすかに聴こえた。音は流麗に続いたかと思うと、ふと途絶え、ページを繰るような音がして、また流れ出す。そのペンの動きは、どことなく受験勉強とは異質な、優美なもののように感じられた。

 そんな風にして、午前中の時間は過ぎて行った。お午になると、学習スペースの利用者たちは、ランダムに席を立って、外に食事に行ったり、館内にあるフリースペースで持参した弁当を食べたりする。隣の少女も、席を立ってバッグを持ってフリースペースの方へ向かった。星也も少し間を置いて自作の弁当を手に、彼女の後を追った。

 フリースペースはやはり六角形で、壁際に飲み物の自動販売機が置かれた簡素な部屋だった。学習スペースの利用者だけでなく、閲覧に来た人も使うので、テーブルはほぼ満席状態だった。彼女は、自販機に近い端っこの二人がけのテーブルに坐っていた。星也は立ち止まり、呼吸を整えると、勇気を出して彼女の向かいの席へと向かった。夏休みも残り少なくなって来たこともあり、このチャンスを逃したくなかった。

「あの、ここ空いてますか?」と星也が声をかけると、びっくりしたように顔を上げた少女が、ひと呼吸おいて「はい、どうぞ」と答えた。

 緊張を悟られないように席に着くと、弁当を広げ、無言で食べはじめた。チラリと向かい側を覗くと、彼女はサンドイッチを食べ、持参した水筒から水分を補給していた。中身は紅茶かな? 何となくそう思った。そうだ、彼女にはそれがふさわしい、と。

 食事を終えたタイミングを見計らって、星也は話しかけてみることにした。

「あの、受験勉強、ではないよね」

 少女はちょっと警戒するように表情をこわばらせた。

「あ、ごめん。なんか毎日来ているのは知ってるけど、雰囲気がちょっと違うかなと思ってね、受験勉強と。それで、あの、気になってたんだ、少し……」

 少女が、値踏みをするようにじっとこちらを見ている。あわてて言葉を継いだ。

「あの、僕は受験勉強。大学の理工学部に行くためにね。実は将来、宇宙飛行士になりたいと思っているんだ」

「宇宙飛行士?」

 その言葉に彼女が反応した。警戒心が好奇心にバトンタッチしたように、眼の輝きが変わった。

「そう、宇宙飛行士」

 念を押すように繰り返した。そのちょっと誇張したような言い方が面白かったのか、彼女の口許がゆるみ、

「素敵、ですね」

 と、少し打ち解けたような口調で言った。

 これはいい反応だと思い、自分が宇宙飛行士を目指すようになったいきさつを。かいつまんで話した。彼女はそれを、時々大きくうなずきながら、興味深そうに聞いてくれた。そして、しばしの沈黙の後、口を開いた。

「あの……、笑わないでくださいね。わたし、小説を書いてるんです」

 それは、予想していた答えではなかったけれど、不思議と腑に落ちる回答だった。そう、彼女にはそれがふさわしい……、と。

「なるほど」

「驚かないんですか?」

「うん、なんとなくだけど、そんな感じかなと思ってたんだ」

「ありがとうございます。そう言ってもらえると、なんかちょっと嬉しいです」

 言って彼女は、ほのかに頬を染めた。

 可愛いなと、星也は思った。

 緊張が解けて少し姿勢が楽になったようで、彼女は雄弁に話しはじめた。きっと、誰か話の通じる相手を捜していたのだろう。

「今、高校二年なので、受験勉強が厳しくならないうちに、書きたいものを書いておきたいと思ったんです。ちょうど九月末〆切の公募があって、それにチャレンジしてみようと思って、それでこの夏休み、図書館を利用して執筆に集中してるんです」

「凄いね」星也は素直な感想を口にした。「将来は小説家だね」

「そんな、まだまだです。宇宙飛行士の方が、ずっとずっと凄いと思います」

 そう言われて、悪い気はしなかった。

「ところで」と、気になっていたことを質問してみた。「小説は手描きで書いてるの? なんかペンを走らせる音が聴こえたような気がしたんだけど」

「ごめんなさい、うるさかったですか?」

「いや、そんなことはないよ。かえって心地良かったくらいで……。パソコンのキーを打つよりずっと好きな音だし」

「ありがとうございます。ここではノートに万年筆で書いてます。それを家に帰ってからパソコンで清書するんです」

「ずいぶん手間のかかることをするんだね」

 面倒くさいと言いかけて、手間のかかると軌道修正した自分に「グッジョブ!」と言ってやりたかった。

「そうなんですけどね。でも言葉って、言霊って言うじゃないですか、だから肉筆で書いた方が言葉に魂が宿るような気がするんです。それに、パソコンで打ち直すと、自分の文章をもうひとりの自分が見ているような、ちょっと客観的になれる気がして、それで」

 彼女の言っていることには、確かに説得力があった。最初は単純に可愛い女の子だと思って惹かれていたのだけれど、こうして話してみると、しっかりと自分の夢と考え方を持っていて、もっともっと相手のことを知りたいと思うようになった。

「もしよかったら、その小説、僕にも読ませてもらえないかな? その、完成してからでいいんだけど……」

 君の小説の最初の読者になりたいんだ、というセリフはあまりにクサイと思ったので、呑み込んだ。

「え、ホントですか?」

「ダメかな?」

「いえ、嬉しいです。最初の読者が未来の宇宙飛行士さんだなんて、最高に光栄です」

「いや、まだなれると決まったわけじゃないけど……」

 照れ隠しに頭を搔くくらいしか出来なかったけれど、素直に嬉しかった。

 思わず周囲を見回すと、さっきまで食事をする利用者でいっぱいだった部屋が、がらんとしている。話に夢中になっているうちに、学校だと午後の授業がはじまる時間になっていた。


 翌日、席は離ればなれになってしまったけれど、昼食の時間にまたフリースペースで二人は落ち合い、一緒に食事をした。

 食事が終わると、彼女がA4サイズくらいの厚みのある封筒をバッグから取り出した。

「あの、もしよかったら、これを読んでみてもらえますか?」

 星也は手渡され封筒の中をチラリと覗いてみた。それは紙の束だった。

「小説? 完成したの?」

 彼女は首を振った。

「まだなんですけど、ずっと一人で書いて来て、これでいいのかどうか、実は迷っていたんです。それなので、誰かに読んでもらって感想を聞かせてもらえたらと思ったんです」

「僕で、いいのかな?」

 嬉しさを隠しきれずに、訊いてみた。

「昨日、宇宙飛行士になる夢を聞かせてもらって、この人しかいないって思ったんです」

 彼女の眼は、真剣そのものだった。ちょっとした軽い気持ちなどではなく、全身全霊でそう思っている。そんな風情だった。嬉しいのと同時に、正直なところちょっと重く感じないでもない。

「ありがとう、そう言ってもらえると光栄だよ」

 言いながら、もう一度封筒に手を入れ、紙の束を取り出した。一枚目には『もうひとつの別の緑の世界Another Green World』と、タイトルが大きめのフォントで印字されていた。そしてその傍らに、少し控えめなフォントで「鈴森千草」と、作者名が記されていた。

「あ、あの、後で、おうちに帰ってから読んでもらえますか? 眼の前で読まれると、なんだか恥ずかしい……」

「ああゴメン。それもそうだよね、後でゆっくり読ませてもらうよ」

 星也は紙の束を封筒に戻すと、自分のカバンの中にしまった。それでも、そのことが気になって、午後の勉強はあんまり身に入らなかった。

 やがて閉館の時間になり、入り口のところで彼女と別れる時、「今夜必ず読んで、明日きっと感想を言うからね」と言うと、彼女は「急がなくてもいいから、ゆっくり読んでください」と言って、深々と頭を下げた。その頭の下げ方が、なんだかあまりにも丁寧すぎる気がして、かすかな違和感を感じた。その違和感が何なのかは、その時は気づく手がかりもなかった。それよりも何よりも、一刻も早く彼女が書いた小説が読みたくて仕方がなかったのだ。

 帰宅するとすぐに、自室に閉じこもって、封筒の中の紙の束を机の上に広げると、一心に読み耽った。

 それは、不思議な小説だった。

 語り手は繁樹という名の少年で、彼が城壁に囲まれた不思議な街に引っ越して来たところから物語は始まる。少年の父親は、中央都市でずっと図書館の司書をしていたのだが、このたびこの街の図書館の館長に就任することになったのだ。

 少年は巻き貝のような形をしたその図書館で、ひとりの少女と出会った。双葉という名のその少女は、学校へは通わず、ずっとこの図書館で様々なことを学んでいた。

「ここにある本はすべて生きていて、わたしにいろんなことを教えてくれるの。世界中の、宇宙中の森羅万象を」と少女は言うのだった。

 さらに少女は、植物と話をすることが出来るのだった。

「それは音楽のように、わたしの身体に波紋となって伝わって来るの。そしてそれによって、その植物がどんな気持ちなのかが解るのよ」と。

 少女に心惹かれるようになった少年は、次第に図書館に入り浸るようになった。そして時々少女が、図書館から姿を消していることに気がついた。

 ある日、螺旋階段を下へ下へと降りて行く少女を眼にした少年は、そっと彼女の後を尾けて行った。すると少女は、一階からさらに奥のドアを開けて、地下へと通じる螺旋階段を降りて行く。階段には照明がなくて、真っ暗だったが、少女の進行方向には、螢の光ような仄かな明かりがずっと先導しているのだった。その明かりをたよりに、手すりにつかまりながら恐る恐る階段を降りて行く少年は、

誤って階段を踏み外してしまった。

 その音に気づいた少女が振り返る。

「誰?」

 少女を先導していた明かりが近づいて来て、少年を照らした。それは螢ではなく、青白く発光する妖精だった。

 少年を認めた少女は、とがめることもなく「ついて来て」と言って、手を差し出すのだった。

 少女と手をつないだ少年は、螺旋階段を降りきると、今度は発光妖精に導かれるようにして、水平に続く地下道へと導かれて行った。

 長い地下道だった。もうとうに市街地を外れたあたりまで達したと思われた頃、やっと地上へと通じるゆるやかな上り坂となり、前方に出口の明かりが見えてきた。淡い緑色の光が射し込んでいた。

 地上に出るとそこは、鬱蒼とした森の中だった。街の城壁の東に広がる「ユグドラシルの森」と呼ばれるところで、決して立ち入ってならないと、引っ越して来た時に父親から堅く戒められていた場所だった。

「こんなところへ来て大丈夫なの?」

 不安になって少年が問うと、

「大丈夫」と少女は深くうなずいた。

 森の中は不気味なかたちに枝を伸ばした樹木や見知らぬ草花が生い茂っていたが、獣道と思われる細い通路が、うねるように奥へと続いていた。少女はためらうことなくその道を、奥へ奥へと進んで行く。少年も後を追った。そのまわりを、護衛するように発光妖精たちが飛び交っている。

 かなり長い距離を歩いたなと思われた頃、森の中心とおぼしき場所にたどり着いた。そこにはひときわ高くそびえ立つ大樹が、空を覆い尽くすほどに枝葉を伸ばして、まるで怪獣のように鎮座していた。

「これがユグドラシル、世界樹とも生命樹とも呼ばれている、わたしたちが住むこの世界を支えている大切な樹なのよ」と少女が言った。「だけど今、この樹は死にかけているの。人間たちの愚かな行為によって、大気は汚染され、気候は変動し、海流は乱れ、大地は揺れ、生態系も乱れている。そしてそれらを抑えていたこの樹の寿命も、もうすぐ尽きようとしているの」

 それは少年にも理解出来た。彼が住んでいた中央都市と、それを囲むように点在する工業地帯から排出されるCO2による大気汚染が人類の存続を脅かしていることが叫ばれているにもかかわらず、未だに根本的な解決策が見つかっていないのだ。

「でもひとつだけ、解決策があるの」

「それは?」

「それはね、わたしがこの樹とひとつになること……。そして人間と植物が一体化した、新しい緑の世界を築くことなの」

 少年には少女の言っていることがよく理解出来なかった。

「どういうこと?」

「それはね、こういうことよ」

 そう言ってかすかに微笑むと、少女はおもむろに着ているものを脱ぎはじめた。

「ちょっと待って、何をするの?」

 戸惑う少年を尻目に、少女はどんどん衣服を脱いで行き、下着も取って丸裸になってしまった。

「眼をそらさないで、ちゃんと見てね。わたしが人間であったことの、最後の姿よ」

 それは、少年が今まで見てきた中で、最も美しい姿だった。少女の艶やかな肌は、まるで月の光のように輝いて見えた。

「あなたに逢えて本当に良かった。ありがとう。もし良かったら、今のわたしの姿をずっと憶えていてね。さようなら」

 言って少女は、ユグドラシルに樹に背中を付けて、両手を広げた。すると、樹の表面から細い枝が蔓草のように伸びて来て、少女の身体を覆い尽くした。

「行かないで!」

 金縛りにあったように動けなくなっていた少年が、やっとのことで声を上げると、樹と一体化して次第に緑色になって行く少女が、微笑んだように見えた。

 そして……、


 そこで小説は途切れていた。

 ヒロインの少女を作者の少女と重ねて読んでいたので、未完ではあるものの、その最後の場面には複雑な気持ちに陥った。今までに味わったことのない、哀しいような怖いような、そんな気持ちだった。

 あらためて、表紙に記された作者名を見た。

 鈴森千草……、本名だろうか? それともペンネーム?


 翌朝、図書館へ行くと、いつもの行列に彼女の姿はなかった。今日は遅れて来るのかと思い、背後を気にしていたが、開館時間になっても現れなかったし、昼食の時間にも、フリースペースに姿は見えなかった。読み終えた小説について、感想を言ったり、あれこれと質問もしたかったのだが、なんだか肩透かしを喰ったような気分だった。それとも、体調でも崩したのだろうか? 確認したくても星也は、彼女の携帯の電話番号もメールアドレスも知らなかった。

 翌日も、その翌日も、彼女は図書館に現れなかった。そして、長く暑い夏休みが終わった。

 寂しさと、どうにも割り切れない気分を持てあましたまま、ただ時間だけが過ぎて行った。すがるような気持ちで、市内の電話帳で「鈴森」という姓を探したが、該当する者はなかった。市外から通っていたという可能性もあるが、やはりあれはペンネームだったのだろう。街を歩いていても、つい往来の中に彼女の姿を探したが、見つかるはずもなかった。

 そして、長い月日が流れた。


 ノックの音に我に返る。

「失礼します」

 入ってきたのは、秘書の女性隊員だ。

「そろそろお時間です」

「了解。では行こう」

 言って星也は、手にしていた本を閉じると、それを胸にかかえるようにして席を立つ。

「その本は?」

 秘書が尋ねる。

「大切な地球の思い出だよ」と星也は答えて、その布張り表紙を示す。そこには『もうひとつの別の緑の世界Another Green World』というタイトルと「鈴森千草」という作者名が金箔押しで記されている。「私にとってはお守りのようなものだね」

 あの図書館の夏から、四〇年の歳月が流れている。その本は、大人になった星也が、彼女が残した未完の小説を、自費出版で書籍化したものだ。インターネット等を駆使して、その後も彼女の消息を探ったが、何の手がかりも得られなかった。いつしか彼は、こう考えるようになった。彼女は隣接するもうひとつの別の世界からやって来たのではないか? そしてあの図書館が、ふたつの世界をつなぐ接点となったのではないか、と。それも一時的に……。あの夏の暑さと、図書館の特殊な構造が、次元の扉を開けたのだと。以来、彼は何度もその小説を読み直し、それが生きる指針にもなっている。

 所長室を出ると、回廊を通って中央コントロール室へと向かう。そこには、プロジェクト・チームの面々とともに、手の空いたスタッフが勢揃いしている。

 月島星也は現在、火星軌道上の大型宇宙ステーション「ハニカム」の所長をしている。ステーションの名称の由来は、六角形の形態が、蜂の巣の構造を手本としているからだ。そう、故郷のあの図書館のように……。だから彼は、このステーションの設計から建設、運営のプロジェクトに参加し、所長となったことに、運命的なものを感じている。

「所長、準備は完了です。あとはカウントダウンを待つのみです」

 チーフの言葉にうなずいて、メインモニターを見る。そこには、発射台に据えられた小型ロケットが映っている。

 火星を人類が住めるような環境にするためのテラフォーミング計画の一躍を担う、植物プラントを搭載したロケットだ。プロジェクト名「ユグドラシル」、そしてロケットの名前は「CHIGUSA-1」と命名された。いずれも星也の立案だったが、異を唱える者は少なく、認可された。だけどその名称の、本当の由来を知る者はいない。

 温暖化による海面の上昇と、沿岸都市の水没、そして異常気象による大地の砂漠化により、地球は人が住める星ではなくなりつつある。

「発射10秒前」

 AIが落ち着いた女性の声で告げる。

 隊員たちが見守る中、ゲートが開き、ロケットは蒼白い炎の尾を曳きながら、赤い惑星へと飛び立って行く。

 その先に広がるであろう、もうひとつの別の緑の世界へ向けて……。

 

                                   了

 人の想いは、遠い宇宙の彼方へと届くでしょうか?

 それではまたお逢いしましょう。

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