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0話 ???

湖は、死んでいた。


波一つない水面は、まるで巨大な鏡のように夜空を映し出している、かつてはここから笑い声が聞こえた。水辺で誰かと並んで座って、他愛のない話をした。でも今は何も聞こえない。あの頃の温度は、もうどこにもない。


残っているのは、血の匂いだけだ。


どれが自分のものか、相手のものか、もはや区別もつかない。鉄錆の匂いが湖畔が漂い、水の上にゆっくりと広がっていく。この戦いが始まってから、どれほどの時間が経ったのだろう。一時間か、三時間か。あるいは、もっと長い時間が経っているかもしれない。痛みで時間の感覚が狂っていた。


ある美しくも恐ろしい湖畔で、彼らは対峙していた。


1人は、この世界の未来を背負った『光』。


そしてもう一人は、かつてこの世界の輝きでありながら、今はたった一人の為の未来である『闇』。


長きに渡った彼らの戦いは、今、終止符を打とうとしていた。


彼らは皆、満身創痍であった。


もう、立ち上がることさえ困難だろう。空気を吸うたびに、肋骨のあたりが鈍く軋む。肺の中に何かが滲んでいるのかもしれない。腕は重く、指先の感覚が薄れていく。それでも今まで立ち続けていられたのは、意地だけだった。信念だけだった。


しかし、そんな中でも最後まで未来を背負おうとした『光』の一撃は、凄まじいものであった。


体が、ぐらりと傾く。足が言うことを聞かない。地面が近くなる。


それでも、膝をつかず『闇』はこの世を嘆く。


「お前が正しいのかも、しれない…」


その言葉が口をついて出た瞬間、私は自分に驚いた。


ずっと、認めたくなかった。認めてしまえば終わりだと思っていた。認めることは、この道を選んだ自分を否定することだと。


でも、本当はずっと前から解っていたのかもしれない。


「それでも、私は…!」


言葉の続きは、出てこなかった。


地面に叩きつけられた衝撃が、内臓を揺さぶる。水と鉄の匂いが顔の近くまで迫ってきて、目の前が暗くなる。唇の端に、鉄の味が滲んだ。


必死に戦ったが、勝てそうにない。


(…なぜだ)


倒れたまま、天を仰ぐ。空は信じられないほど静かで、星が、ひどく遠い。


(私は間違えたのか。この道が、間違いだったのか)


負けるつもりはない。この信念を曲げるつもりもない。


曲げてしまえば、何を失うか分かっているから。


失う訳にはいかない。何に変えても。例え、この世界が滅ぶとしても。世界と交換だとしても。皆が私を憎んでも。


それでも、何にも代え難い大切なものが出来たのだ。


(違う道があったのだろうか)


薄れゆく意識の中で、私はずっと考え続けていた。お前が言うように、違う道が。


…あったとしても、私は選べなかっただろう。


『光』として生きることは、私にはできなかった。守られる側でいることも、誰かの正義のために戦い続けることも、私にはできなかった。私には、ただ一つしか選べなかった。彼女が笑っていられる場所を守ることだけが。


なれるならば、お前のようになりたかったよ。


お前に救われる。守られる者は幸せだな。


どうか。どうか。


彼女だけは、救われてくれ。


意識が朦朧とする。


視界の端から色が消えていく。辺りが、赤黒く染め上げられていく。もう、体に力が入らない。この指先が、彼女の体温を最初に感じたのはいつだったか。もう思い出せない。もっと早く、君を連れ出していればよかった。まだ、過ごせていない日々が、山ほどある気がした。


私は静かに瞼を下ろし、この生を手放そうとした。


その時——。


風が、動いた。


空気が変わった——という表現が一番近いと思う。それまで重苦しく淀んでいた戦場の空気が、ふっと軽くなった。まるで、誰かが窓を開けたみたいに。


気配があった。足音はなかった。いつの間にか、そこにいた。



血と泥で汚れた視界の端に、一つの影が映り込んだ。


倒れ伏す私と、最後のトドメを刺そうと立ち上がろうとしていた者との間に、1人の人物が立っていた。


銀色の髪が、風に揺れている。


細い体躯。線の細い、どこか儚げな後ろ姿。


月明かりを受けた銀髪が、水面の反射と溶け合って、まるで光の中から生まれたもののようだった。


その手には、一本の銀色の杖が、ごく自然に握られていた。


場違いだった。この血と怒気が満ちた戦場に、この人物はあまりにも場違いだった。

まるで、静かな図書館に迷い込んだ午後の光みたいに。


その人物は、状況を観察するかのように目線だけを我々に向けた。


まるで、道端の石を眺めるような目だった。


しかし、私を見た時、僅かに瞳が揺れたように見えた。


気のせいかもしれないが。


悲しそうに見えたのだ。


あの目だけが、今でも頭から離れない。私の痛みを、全部知っているような目だった。


「……ねぇ」


声が聞こえた。静かな、穏やかな声だ。戦場には似合わない、あまりにも普通の声音だった。その声を聞いた瞬間、戦場の空気が一瞬止まったような気がした。


「もう、そこまででいいんじゃないかい?」


その言葉に先ほどまで私と戦っていた彼は怒ったような、そんな反応をしていた。


血を流し過ぎたせいか。声が遠くなっているようだ。良く聞こえない。


何度か言葉を交わした様子だった。


彼は納得できなかったのか、強大な魔力が練り上げられていくのを感じた。大地の底から引き出されるような、圧倒的な重さの魔力だった。


地響きを伴う、圧倒的な威圧。


私は思わず、また目を閉じようとした。


その時。


その人物は、ため息をついた。


杖を、静かに持ち上げる。その瞬間——杖の表面に刻まれた文様が、銀白色に輝いた。光が手元から穂先へと流れていく。演唱は、なかった。ただ、圧倒的な光だけがあった。


「光魔術:クエーサー 『———』」


世界が、白く染まった。


まぶしい。まぶしくて、目を細める。


痛みが消えていく。体の重さが、消えていく。


それはとても穏やかで、まるで眠りに落ちるようだった。


────────────────


気がついたら、彼らはいなかった。膨大な魔力も、地響きも、何もかもが消えていた。残ったのは、静寂と、かすかに漂う光の残滓だけだった。


その人物は、まだそこに立っていた。杖を下ろして、何でもないような顔で、空を見上げている。


私は震える声で、なんとか言葉を絞り出した。


「……あなたは、一体」


その人物は振り返らなかった。だが、僅かに笑っているような気がした。


その背中は、あまりにも小さかった。あんな細い体のどこに、世界をひっくり返すような力があったのだろうか。


気がついた時には、その銀色の後ろ姿は、霧の向こうに消えていた。


まるで最初から、いなかったように。



後から聞いた話では、彼女もその魔術師を知らないらしい。名前も、素性も、どこから来たのかも——何もわからない。


わかっているのは、ただ一つ。


銀色の杖を持った、儚げな魔術師が、スッと現れて、スッと消えた——ということだけだ。


不思議だと思うことは沢山あった。


何故、あの場に居たのか。あの魔術は何なのか。彼らはどこに行ったのか。


—何故、私を助けたのか


あの人物の、悲しそうな目が、頭から離れなかった。




── この話は、その少し前から始まる ──


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