第8話 少女の名前は『サヤ』。忘れられた溜池の底で呼ぶ声
「うわっ!!」
「ちょっ、夕凪!?」
抜こうと足に力を入れた瞬間、ひやり、と冷たい何かが触れた。
ただの土じゃない。
足首のあたりで、何かが絡みつく。
――掴まれた。
「っ……!」
反射的に身体が固まる。
土の中から、冷たい指が何本も、生きているみたいにまとわりついてきた。
足首。ふくらはぎ。膝。
ずぶずぶと沈む感覚が強くなる。
「夕凪!!」
千景が叫ぶ。
「千景!!足が抜けない!」
差し出された千景の手を掴むと思いっきり引っ張ってくれた
でも、足は抜けなかった。
これは土じゃない。
『底なしの沼』だ。
こちらに来い、と、足元が言っている。
「ありゃま、こりゃやべぇな」
耳元で、低い声がした。
オロチだ。
「なぁ、俺言ったろ?変な水の音がしたらすぐ呼べって。呼ばれてないけど来てやったぞ、オカ研会員」
「水の音なんてしなかった!いきなり登場よ」
「落ち着け、まずは息を整えろ。
沈むときに一番危ないのは、『自分で暴れて余計に沈むこと』だ」
「今、そんな冷静なアドバイス必要!?しかもそれ、海難事故的なヤツ!ここ森の中!」
こんな時なのに『神様』にツッコミいれていた。
「オロチ、これ、どうすれば……!」
「鈴だ。昨日と同じだ」
「でも、ここ鈴ない!」
「お前の口があるだろうが」
オロチが、私のおでこを軽くはじいた気がした。
「鈴の代わりに、声を鳴らせ。祝詞の真似事でいい、“ここは神域だ”って宣言してやれ」
「そんな急に……!」
足は、なおも沈み続けている。
膝まで飲み込まれるのは時間の問題だ。
「オカ研会員。考える暇はない。『神社の娘として』身体が覚えてる言葉の一つくらいあるだろ。それを唱えろ。俺がその言葉を補強してやる」
息を吸う。
喉が震える。
昔から、父の手伝いで何度も聞いてきた言葉。
正確じゃなくてもいい。
これは正式な祭祀じゃない。私が、ここも「光徳の延長」だって主張するための声だ。
「――かしこみ、かしこみ……」
舌がもつれそうになるのを、無理やり押し込める。
「ここは光徳の……神々の、御前……!私を勝手に引きずり込むな……!」
意味として成立しているかは怪しい。
でも、声に出した途端、周囲の空気が震えた。
ざわり、と森の葉が一斉に鳴る。
土の中の何かが、少しだけたじろいだ気がした。
「いいぞ。そのまま続けろ」
オロチの声が耳元で笑う。
「『おまえがいる底はここじゃない』って教えてやれ。ここは人が歩く場所で、お前はそこを歩く側だって、叩き込め」
「ここは……私が、歩く場所!!あなたがいていい場所はここじゃない!!!」
あまりにもシンプルすぎる主張だ。
でも、それが今の私に言える、精一杯の線引きだった。
胸の奥で、何かがカチリと音を立てたような気がした。
足元の冷たさが、じわ、と引いた。
土が、吐き出すように私の足を押し戻す。
膝まで沈みかけていた足が、ぐっと浮き上がる。
私はバランスを崩して、尻もちをついた。
「痛ぁ……!」
「夕凪!」
千景が駆け寄ってくる。
彼女の手を借りて立ち上がると、足元の土は、さっきと同じ黒い湿り気をたたえていた。
ただ、もう掴みかかってくる気配はない。
「今の、何……?」
「この前、言ったろ?『底の女』だよ」
オロチが、窪地の縁に腰かけていた。
相変わらず、影の薄い青年の姿で。
「多分、お前、完全に好かれてしまったんだろうな。チャンスを狙って、ストーキングされてた」
「……どういうこと?」
「底になれるものを探してた。で、『代わりになれそうなヤツ』を見つけた。そりゃあ隙あらば、掴みにくるさ」
ぞくり、と背筋が冷える。
さっきの感覚。
自分が「底」にされる感覚。
沈んでいきながら、上を見上げるイメージが、頭から離れない。
「夕凪……」
「うん……泥だらけだけど、生きてる」
私はスカートについた土を払った。
私が千景に振り向くと、彼女はこちらを見ていなかった。
「……あ、あの人、誰?」
「……え?」
千景の目線を追うと、明らかにオロチの方を見ていた。
「ほぅ、やはり見えるか」
オロチが頬杖をついたまま、千景を見ていた。
「千景、もしかして見えてる?」
「……う、うん。あの蛇みたいな目の人、誰?夕凪の知り合い?」
正直、返答に困った。
「面倒事を解決するための『お手伝い神様』だよ」
オロチは小さく笑っている
「ねぇ、なんで千景まで、オロチのこと見えてるの?」
オロチは小さく溜息をついて立ち上がった。
「怪異の瘴気に触れて、俺の力も浴びて、しかも“オカ研”とか言って、自分からこっち覗き込んでるようなメガネっ娘だ。見えるようにならんほうがおかしい」
「あのパーカーのお兄さん、浮いてるよね……神様って話、ガチ目?」
「あー、うん。ガチ目。 家、光徳のちっさい祠。」
「なぁ、メガネっ娘。これも縁だ。手伝ってやってくれ」
「え、ちょっと!」
私が驚いて制止するまえに千景の返事が飛んだ。
「はい、喜んで!」
(……うん、そう言うと思った。そういう子だよね、この子。)
千景の目はワクワクを隠しきれない、いや、むしろワクワク全開だった。
そのとき。
耳の奥で、微かな声がした。
女の子の声。
『……さ……や……』
それは、風のせいかもしれない。
木の葉が擦れる音が、そう聞こえただけかもしれない。
でも、はっきりと、そう聞こえた気がした。
「今、何か……」
「うん、聞こえた」
「聞こえたか」
オロチが、少しだけ目を細める。
「『底になった』やつの名前だろうな」
「……どういうこと?」
「久しく自分の存在を忘れられていたんだ、ましてや“底”の名前なんてな。だが、今はこうして、少なくとも二人の人間には気付いてもらえた。だから、アピールしたいんだろ。」
オロチは、窪地の真ん中に立った。
「でも、本人は最初っからずっと覚えてる。自分が沈んだ時の、空の色も、土の匂いも、全部な」
私は、さっき沈みかけた足元、オロチが今浮いている下を見つめた。
湿った黒い土。
その奥に、誰かの指先がまだ潜んでいる気がする。
「……『さや』」
私は、小さくつぶやいた。
「もしそれがあなたの名前なら――」
そこまで言って、自分で笑ってしまう。
何を言えばいいのか分からない。
ごめん、なのか。
ありがとう、なのか。
どちらも違う気がした。
「夕凪」
千景が袖を引っ張る。
「そろそろ戻ろ。暗くなるよ」
「……うん、そうだね」
私たちは、森をあとにした。
背中に、湿った視線がまとわりつくような気配を感じながら。
◇
境内に戻る頃には、空はすっかりオレンジ色になっていた。
社務所の窓から、父の声が聞こえる。
「おう夕凪。裏はどうだった」
「いつも通り、鳥が元気だったよ」
口からでた言葉の半分くらい嘘で、すこし心がチクチクした。
「そうか。あんまり奥まで行くなよ、野鳥の森は迷うからな」
「分かってるって」
私は靴を脱いで、社務所に上がった。
足首についた土は、まだ少し冷たい気がした。
その夜、私は久しぶりに、ひどく喉が渇く夢を見た。
ひび割れた土。
焦げるような日差し。
その真ん中で、誰かが、じっと空を見上げている。
名前は……、聞けなかった。
ただ、遠くで雷の音がしていた。




