第28話 帰還
28。帰還
時間の感覚が、どんどん曖昧になっていく。
サヤのフィールドの影響かスマホの電源も落ちたままで、あれから何分、何時間経ったか確認する術もなかった。
サヤに見せられた幻視、父から聞いた話。
どれもが心を締め付けた。
オロチが抱えているものをどうにか出来るほどの力もないし、きっとアイツのことだから、白けた態度を取るんだろうけど、それでも、オロチに一分でも早く帰ってきてほしかった。
とにかく無事を確認したかった。
やがて――
フィールドを覆っていた闇の結界に、大きな亀裂が走った。
「……!」
思わず立ち上がる。
亀裂はみるみるうちに蜘蛛の巣状に広がる。
そして、亀裂の隙間から赤黒い光が漏れ出し、結界が内側から破片となって爆散し、黒い水となって音もなく地面へと消えていった。
私たちはとっさに顔を隠し、身を守った。
雷の音がぴたりと止まった。
水の音もしない。
ひどく静かだ。
消えゆくサヤが作ったフィールドの中央に、誰かが立っていた。
人の姿。
黒い髪。ボロボロになったパーカー。肩で息をしている背中。
仁王立ちで、少し頭をもたげるように立ち尽くしていた。
そして、サヤの姿は、どこにもなかった。
「……オロチ、だ」
胸の奥が、きゅっと締まる。
生きてる。
本当に、帰ってきたんだ。
足が勝手に前へ出る。
「オロチ――!!」
叫ぶ声には、自分でもびっくりするくらい、いろんなものが詰まっていた。
安堵とか、悔しさとか、怖さとか、嬉しさとか。
千景も、泣き笑いみたいな顔で叫ぶ。
「ほら、夕凪!アイツ勝ったんだよ!! 言ったじゃん、アイツ絶対戻ってくるって! 約束守ったんだよ!」
オロチは、振り向かなかった。
ただ静かに立っている。
その背中の輪郭に、何か違和感があると気づいたのは、数メートルほど走った時だった。
肩口から、光が零れている。
それは、月明かりでも、街灯の光でもない。
光の粒だった。
あちこちが破れた黒いパーカーの肩の布地の隙間から、きらきらと細かい光の粒が舞っている。
風もないのに、ふわりと周囲に漂って、すっと消える。
「……え?」
予想もしてなかった姿に足が止まった。
今度は背中だけじゃなく、腕の辺りからも、髪の端からも光が漏れ始めていた。
輪郭が、薄くなっていく。
まるで、そこに立っているのがただの影で、本当の体は、どこか別の場所に引っ張られているみたいに。
「オロチ……?」
呼びかけるが、返事はなかった。
彼の肩が、わずかに震えたように見えた。
その動きが、振り返ろうとした仕草なのか、単に力が抜けているだけなのか、私には分からなかった。
でも、オロチは振り向かなかった。
光の粒子が増えていく。
肩から、背中から、足もとから、じわじわとこぼれ落ちて、空気の中に溶けていく。
慌てて駆け寄ろうとしたところで、膝から力が抜けて、転んでしまった。
嫌な予感しかしない。
急いで立ち上がって、またフラフラと歩き出す。
足に力が入らないし、胸が痛くて、息がうまく入っていかない。
「え、ウソだ……いやだ、やだよ、オロチ。
帰ってきたんだよね? 戻ってきたんでしょ? ねえってば……!」
とにかく言葉が欲しかった。いつもみたいな軽口で。
それを確認するための言葉が口からこぼれる。
さっきまで「必ず戻る」と言っていた声が、どこにもない。
「オロチ!! なんとか言ってよぉ」
千景は泣きながら叫ぶ。
その声が届いたのかどうかも分からない。
最後に、オロチの頭の辺りから、大きな光の塊がふわりと浮かび上がった。
それが、邪鎮の禊槍の方へと流れて来たような気がした瞬間。
私たちは目が眩むほどの光に包まれた。
徐々に視界が戻る。
視線の先、さっきまでオロチがいた場所にはもう誰もいなくなっていた。
オロチの姿は跡形もなく消え、残っていたのは、波紋ひとつ立たない静かな水面だけ。
「……っ、嘘、でしょ……」
声がかすれる。
何かがぷつりと切れたみたいに、足の力が抜けてその場に崩れ落ちた。
胸の奥が、ノゾミさんの記憶を見た時と同じように、じりじりと焼ける。
さっき見た光景と、今目の前で起きたことが、頭の中で重なった。
胸を貫かれたノゾミさんの笑顔。
その前で叫んでいたオロチの姿。
そして今度は、そのオロチが、私たちの目の前から消えていった。
「どういうこと? なんなの?……勝ったんじゃないの?
……意味わかんないよ!」
状況が全く理解出来なかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。
千景は、何度も首を振っていた。
「やだ、やだよ……そんなの、やだ……!
だって、だってあの人、戻るって言ったじゃん……!」
涙で視界が滲む。
しゃがみ込んだ膝の間に顔を埋めてしまいたかった。
全部見たくない。
何も聞きたくない。
そんな、逃げ出したい気持ちだけが、胸の中でぐちゃぐちゃに渦巻いている。
その時だった。
足元が、ひんやりと冷たくなった。
さっきまで乾いていたはずの石畳に、じわり、と水が滲む。
「……え?」
顔を上げると、あのフィールドの黒い水面が静かに波紋を広げていた。
空気が重くなる。
「うそだ。……なんでまたフィールドが……」
空気が軋むような不快な音を立て始めていた。
(――これが祟り神本体が顕現する時、特有の音だ。覚えとけ)
オロチの言葉を思い出す。
「う、ウソだ。……なんで?……どうして」
喉の奥から、無意識に、かすれた声が漏れる。
『ゆうなちゃん。どこに行くの?』
泣いているような、笑っているような優しい声が私を呼び止めた。




