第26話 崇神 vs 祟神
「でも、俺はノゾミとは違う……。必ず戻る。絶対にだ。」
そう言うと、オロチはまた歩き出した。
「ここから先は、俺とアイツの殴り合いだ。おまえらは、絶対に手ぇ出すな」
いつもの、少し投げやりな声。
でも、その背中は見たことないくらい静かで、まっすぐだった。
私と千景は、黙って頷くしかなかった。
さっきまで見せられた、ノゾミさんの最後の記憶がまだ頭から抜けない。
あれと同じ場所に、オロチが行こうとしている。
「でも――」
そう言いかけた言葉を、オロチの横顔が制した。
「言っとくけど、本気出した俺、つえーから安心しろって」
そう言って、オロチは前だけを見据えた。
サヤは、少し離れた場所で水面の上に立っていた。
腰までの黒髪が、底なしの水に溶けている。
着物の裾は、見えない流れにゆらゆらと揺れていた。
あの笑っているような、泣いているような目が、真っすぐオロチを見ている。
『ことごとく邪魔してくれるよね』
「お生憎様、ヤンデレ女は嫌いなんでな、言う通りにするつもりはねぇよ」
オロチが舌打ちしながらも、いつもの調子で返す。
けれど、その声の奥にある硬さは、さっき私が視た記憶の中と同じだった。
――ああ、これから本当に、神様たちの戦いが始まるんだ。
ぞわりと、背筋が粟立つ。
『……もういいや。』
沙耶が囁いた。
『今度は、わたしが祈る番』
「あ?どういう意味だ?」
『前は、みんながわたしに祈って、雨を乞うた。だから、今度は、わたしが空に祈るの』
『この街ぜんぶ、沈むくらいの雨を――って』
空気が軋む。
それはまるで卵の殻をゆっくりと潰すような音に似ていた。
「――ちょっ、さやちゃん!!そんなこと」
『あなたたちの願いのために、私の命を捧げた。それなのにわたしを忘れて。祠を壊して。
水の上に道をかけて。ここを、何もない場所にした』
沙耶の声は、怒りと、泣きたいくらいの寂しさで、震えていた。
『だったらせめて、一回くらい、私の願いだって聞いてもらう』
ぽつ、と。
鶴ヶ島市内に冷たいものが落ちはじめた。
一粒、また一粒と、それは徐々に増え、はっきりと分かるほどに。
ただの夕立ではない。
空のあちこちから引き寄せられた水分が、この街周辺に向かって集まり始めている。
「やりたきゃ勝手にやれよ」
オロチの瞳孔が、縦に割れる。
蛇の神としての気配が、じわりと溢れ出した。
「その前に、俺がお前を消し去ってやるよ」
続けて、静かに言った。
「……さぁ、悪戯の時間は終わりにしようぜ、サヤ」
オロチの周辺から赤黒い光が弾けた。
その光は、まるで蛇がとぐろを巻くように、オロチの周りに形を取る。
そして、オロチの肌が、鱗状に変わり始めた。
人の姿を飲み込み、巨大な大蛇の輪郭が、闇の中に浮かび上がる。
「――蛇神顕現。」
その言葉が発せられると、不気味な地響きが聞こえ、大地が揺れ始めた。
オロチを取り巻いていた輪郭がじわりじわりと実体を見せはじめる。
ノゾミと戦ったあの夜から、長い間、封印していた“本当のオロチ”が再び姿を現した。
それは、夜空を埋め尽くすような黒だった。
大蛇の胴体がとぐろを巻き、見上げるほどの高さとなる。
鱗は湿った岩肌のように光り、隙間から青白い光が漏れている。
頭は、私たちよりずっと高い位置にあるのに、目の前で睨まれているような圧迫感。
その金色の蛇の目の奥に、見慣れたオロチの色があった。
「……これが、オロチ」
「デカすぎ。――いや、知ってたけど。知ってたけどさ……」
千景が情けない声を出す。
でも、その目は涙で滲んでいた。
大蛇の頭が、サヤを見下ろした。
『本気を見せてくれるのね、オロチ』
サヤは嬉しそうに笑い、両手を広げると、水底から黒い水柱がいくつも立ち上る。
「――祟神顕現。」
水面から伸びる黒い影が、サヤの体を包む。
長い髪が横なぐりの雨みたいに広がり、裾がほどけて水になった。
サヤの後ろに、巨大な女の影が立ち上がる。
底なしの溜め池から見上げたような、歪んだ月を背負って。
そして、サヤと女の影は、まるでインクが水に溶け込むように、すうっと一つになった。
髪の一本一本が水の蛇みたいにうねり、腕を動かすたびに何十もの水の槍に形を変える。
『オロチの未来とわたしの未来……どちらが残るべき未来かしらね、ふふ』
その瞬間、世界が爆ぜた。
サヤが腕を振るうのと同時に、蛇神オロチが地を蹴った――そんな動きが見えた気がしたけれど、あまりにも速すぎて、私の目にはただ二つの光が動き出したようにしか映らなかった。
濁流が縦横無尽に走る。
蛇の胴が、山ひとつ締め上げるみたいにフィールドの中をうねる。
鱗が軋む音と、水が弾ける音と、雷鳴。
あらゆる音が混ざり合って、耳の奥が痺れる。
「うわっ……!」
足元がぐらりと揺れた。
水面が突然盛り上がり、私たちの立っている場所を丸ごと持ち上げる。
「夕凪、伏せて!」
千景が私の肩を掴んで引き倒してくれた。
次の瞬間、さっきまで私の頭の位置に、何本もの水の槍が通り過ぎる。
それが蛇の胴にぶつかり、鱗の表面で弾けて黒い霧になった。
霧が一瞬だけ、サヤの笑っている横顔の形をとる。
『あはは!それじゃ足りないよ、オロチ』
その声に蛇神オロチは、まるで地鳴りのような咆哮を返す。
耳で聞こえるというより、胃の底を殴られるような声。
それだけで全身の毛穴が開いて、膝が笑う。
でも、怖いより先に思った。
――この感覚、ノゾミさんの記憶の中で感じたのと同じだ。
あの時も、こんな風に叫んでいた。
「……っ、千景」
震える膝を押さえながら、私は隣の友達の袖を掴んだ。
「ここ、いつまでも居られない。どこか、出られるとこ探さなきゃ」
「う、うん……っ」
千景も顔を引きつらせながら頷く。
オロチとサヤの戦いは、さっきまで私たちがいた場所を何度も飲み込みながら続いていた。
蛇神の胴が通り過ぎるたびに、水底ごと削り取っていくみたいな衝撃が走る。
サヤの影が腕を振るたび、天井から巨大な水柱が落ちてくる。
一撃一撃が、私たちみたいな人間からすれば、それだけで十分「終わり」に出来る威力だ。
そのど真ん中で、二柱が同じような顔をして笑っている。
異常な光景なのに、どこか美しくて、目を逸らせない。
だからこそ、余計に怖い。
「……千景。どこか、薄いところ、分かる?」
さっき千景が、縛手を霧に変えた時のことを思い出した。
このフィールドは、水と祈りと呪いで出来ている。
だったら。
「うん……試してみる」
千景は震える手で、神楽鈴を握りしめた。
周囲を見回し、水の揺れ方や音の響きが少し違う場所を探す。
蛇神とサヤがぶつかり合った衝撃の余波で、結界の膜がところどころ薄くなっているように見えた。
彼女は、そのひとつに狙いを定める。
「……ここ。なんか、ちょっとだけ雰囲気が違う気がする」
千景が神楽鈴を鳴らした。
――ちりん
澄んだ音が響く。
この底の世界には似合わない、乾いた空気の音。
音が触れた場所の水膜が、じわりと揺らいだ。
そこに、千景がもう一度神楽鈴を突き立てる。
じゅっ、と湿度を伴う音と共に、結界に少しだけヒビが入った。
向こう側に、懐かしい夜の空気が一瞬だけ覗く。
「……行けそう!」
千景が叫ぶのと、背後で蛇神オロチが大きく身を捩じらせるのが同時だった。
水柱が、こちら側へと倒れてくる気配がする。
「夕凪!ここ広げて!!」
「うん、分かった!」
私は禊槍を構え、ぐるりと体を捩じりながら、千景が開けた穴めがけて槍を振りぬく。
「開けぇーーっ!!」
衝撃が加わった結界は、ガラスが割れるようにその一部が吹き飛ぶ。
私たちの世界の風が、こちらの世界に吹き抜けて、髪が揺れた。
「千景、行こう!!」
私たちはお互いの手を取り、半ば転がるように、そのひび割れの向こうへ飛び込んだ。




