第23話 雨と罪
「おい……、やめろ。」
体を拘束されているオロチが何かを察したように暴れ出した。
「やめろ!――それは見せるな、おい!やめろっ!!!」
サヤは指先から黒い水を一滴、ふわっと浮かび上がらせると、指先でパチンと弾いた。
また視界が滲み、その奥から見たことのない景色が浮かび上がってきた。
今までいたサヤのフィールドの足元の感触が、すうっと遠ざかって――代わりに、鼻を刺すような土と雨と焦げた匂いが押し寄せてきた。
まぶたを閉じた覚えはないのに、目を開けた時には、私はもう別の場所に立っていた。
どこかの山奥だ。
切り立った稜線の向こうで、黒い雲が渦を巻いている。谷あいに小さな集落があったらしい痕跡――崩れかけた石垣と、流れ去った家の土台だけが、濡れた土の上に取り残されていた。
空は、裂け目みたいに白い稲光を走らせている。
そのまぶしさに思わず手で顔を覆った瞬間、私は気づいた。
――この手は、私の手じゃない。
細くて、けれど節の固い、雨に濡れた指。
右手には、小さな石を集めた腕輪が二つ。
左手には銀の腕輪をしていた。
胸の奥で、誰かの心臓がドクン、と鳴った。
「……ノゾミ」
背後から聞こえた低い声が、そう呼んだ。
振り返るより先に、身体が勝手に応える。
「いるよ、オロチ」
自分の喉を通ったその声は、私のものとは違う。
少し低めで落ち着いていて、よく通るのに、どこか柔らかい。
私はノゾミの体の中で、ノゾミとして喋っていた。
傍らには、見慣れた黒髪の青年――オロチが立っていた。
今と違って髪は後ろで綺麗に纏められ、黒に近い紺の狩衣と袴に近い装束。
神職が着るような重たいものではなく、動きやすそうな。
――恐らく戦闘特化に改良された専用品
肩口にかけて、蛇の鱗のような文様が浮かんでいる。
その周りを取り囲むように、四人の祓い士たちが陣形を組んでいた。
一人は、山伏の装束を着た年配の男。
もう一人は、私と似たような袴姿の女性。
あとの二人は、まだ若い。
みんな額に汗を浮かべて、山の上空を睨んでいる。
「結界、持ちません!」
若い男の祓い士が、震える声で叫んだ。
「雷と雨が、両方来てます! これ、山ごと落とす気です!」
「そうみたいだね。困ったなぁ」
ノゾミの言葉はどこかふわっとした感じがしたが、その声の芯は揺れない。
「これ以上、人里に行かれても困るよね、ここで止めるしかないかぁ」
オロチが、横目でノゾミを見る。
「なぁ、ノゾミ。他の連中、もうギリギリだぞ。神憑きの祓い士で構成した増援呼ばなきゃ、座せる余地、もうねえだろ」
ノゾミは、ふぅ、と息を吐いた。
「……確かにね。さすがにこの部隊構成じゃ、レベルが違いすぎるかもねぇ」
視線の先。谷底に残った祠の残骸が見えた。崩れた石段。半分土砂に埋もれた社。祠の前にあったはずの大きな木は、真っ二つに裂けて黒く焦げている。
そこへ、一筋の稲光が落ちた。
鼓膜が破れそうな音と共に、崩れかけの社が、さらに粉々になって散る。
山全体が、びりびりと震えた。
オロチが舌打ちをする。
「土地神やら山々の八百万の神々を丁重に扱うこともなく、豊かな人間社会の為に集落ごとダムの中にサヨウナラ。あまつさえ、現世の依り代である社や祠も破壊したまんま。
――そりゃ怨みが全部ごちゃまぜになって、こうもなるわな」
「――ねぇ?オロチ。つまりさ……」
ノゾミは、そこから目をそらさずに続けた。
「これって、神じゃなくて、神の怒りの残滓、そのものだよね」
「……確かに輪郭が曖昧すぎる。実体は存在してねぇ。って事か。」
ノゾミの足元で、水たまりが揺れた。
山肌を叩く雨は冷たいはずなのに、その水たまりの中だけ、どろりと黒ずんでいる。
雷光に照らされて、黒い水の中で何かが、ぎらりと光った気がした。
「自分ちを好き勝手に荒らされたら、神さまじゃなくても怒るよねぇ」
ノゾミの声には、怒りよりも、哀れみが混じっている。
「これは祟り神じゃなくて、神の負の感情。だから、座っていう概念なんか通用しない。
……滅するしかないかもね」
オロチはしばらく黙っていた。
雷鳴の合間に、遠くの斜面が崩れ落ちる音がした。
谷底の川が濁流になって、岩を巻き込みながら吠えている。
「……ノゾミ」
ようやくオロチが口を開いた。
「一回ぐらい、撤退って選択肢、選べねえのかよ」
ノゾミが、少しだけ笑った。
「それが出来るような人間なら邪滅槍扱う許可出ないよね、はは」
「命残せなきゃ、その槍も振れねえだろ、バカ」
オロチが吐き捨てるように言った時、空が、ちかちかと瞬いた。
次の瞬間、天と地のあいだに、一本の光の柱が落ちる。
まるで山ごと貫こうとするような、真っ白な雷。
「来る!」
山伏の男が、急いで数珠を掲げる。
他の祓い士も一斉に祝詞を叫んだ。
結界の光が、一瞬だけ谷を覆う。
しかし――
雷は、その光をやすやすと噛み砕いた。
結界が、紙みたいに裂ける。
山伏の男の足元から、土砂が爆ぜて吹き飛んだ。身体ごと宙に浮かび、岩と一緒に谷の底へと叩き落とされる。
「っ……!」
女性の祓い士が悲鳴を上げる間もなく、そのすぐ隣に二撃目の雷が落ちた。
光と衝撃と音が一度に押し寄せ、身体の感覚が一瞬飛ぶ。
耳鳴りの向こうで、女性の祓い士の声が聞こえた。
「ノゾミ様、あなただけでも撤退してください! ここはもう――」
その声も、途中でぶつりと途切れた。
視界の端で、誰かが黒い影に呑まれていく。
谷全体が、怒りと叫びの残響で満ちていた。
ノゾミの手が、無意識に大幣の柄を握りしめる。
「――境の白幣よ、邪鎮となり鎮め給へ。」
彼女の唇が、いつもの祝詞を紡いだ。
手の中の大幣が細く長い槍へと姿を変える。
白い光を帯びた穂先が雨のカーテンを切り裂くように輝いた。
ノゾミは槍を構え、前へ出る。
オロチも一歩出た。
彼の足元で、地面が蛇のようにうねり、黒い鱗を持った地脈が浮かび上がる。
「若造どもは撤退しろ!」
オロチが叫ぶ。
「下の結界まで下がって、神憑きの増援を急がせろ!! 上は俺らが押さえる!」
残った若い祓い士が、その言葉に顔を引きつらせながら叫ぶ。
「し、しかし、ノゾミ様は――」
「バカ野郎、俺がいるだろうが! 命あっての窓だ! 行け!!」
オロチが怒鳴ると、彼は歯を食いしばり、山の斜面を駆け下りていった。
山上に、残るのは二人だけ。
ノゾミと、オロチ。
「……二人きりに、なっちゃったね」
「愛を育む場所にしちゃ、邪魔者が多過ぎねぇか?」
互いにやり取りを交わした、その瞬間。
谷の上空に、黒い穴が開いた。
雲が渦を巻き、中心にぽっかりと空いた暗い円。その縁を、紫がかった稲光が走り続けている。
そこから、何かがこちらを覗き込んでいた。
「あー、これ凄いねぇ。」
「一体?いや、何百、何千の軍勢か、これ? こんなん一騎当千しろとか、アホかよ」
目があるわけじゃない。顔の形も無い。ただ、無数の落雷と雨脚のパターンが、人の感情みたいにうごめいている。
怒りの骸。
止まることを忘れた怒りが、雷と雨の形をとって座している。
それは暗い円の中から、ぬらぬらと落ちてきた。
雷と雨を纏った無数の腕のようなものが、山頂から谷底へと山肌を舐めるように滑り降り、その速度を急激に増しながら、こちらへと向かってきた。
「――纏鎖・八岐縛!!」
オロチが、地面に掌を叩きつけた。
山肌を這うように、八本の黒い鎖がうねり出る。
鎖は雷雨の腕に絡みつき、その動きを束ねようとする。
しかし、雷は鎖を焦がし、次の瞬間には鎖そのものを焼き切ってしまった。
「くそっ……力押しかよ!」
「――来る!」
ノゾミが邪鎮の禊槍を前に突き出す。
「――禊槍・灼禊穿!!」
落雷が、槍先にぶつかる。白と紫の光が、弾けるようにぶつかり合った。
圧縮された高密度の邪鎮の光が雷撃を割り、光が爆ぜる。直撃は避けた。
だが、衝撃波だけで足元の岩が砕け飛ぶ。
「っ……!」
膝が揺れたところに、第二波が来る。
「まだ――」
ノゾミが体勢を立て直そうとした時、オロチが前に出た。
「――地禍・八岐崩!!」
山の斜面が蛇の胴体のようにうねり、雷の腕を下から殴り上げる。
雷光と土砂が絡み合い、一瞬だけ雷の軌道が乱れた。
二人の連携は、見事だった。
雷の腕が振り上がるたびに、槍が線を引いてその軌道を押し返す。
地脈が揺れて足場をずらし、直撃を避ける。
何度も、何度も。
攻撃の隙を突いて技を繰り出すが、手ごたえがほとんど感じられない。
降りしきる雨も止む気配がない。
雷鳴は、忘れられた祈りの声みたいに、何度も同じ場所に落ちる。
どれくらい時間が経ったのか、分からなかった。
ただひとつ分かるのは――この戦いは、ずっと平行線のままだということ。
「きりがねぇ。削れてる気も全然しねえぞ、ノゾミ!」
「そうだね、完全な持久戦だね。私らが尽きる前に神憑きが来てくれればいいけど!」
戦いは一進一退を繰り返し、長い膠着状態が続く。
しかし、祟り神は、決して一歩も退かない。
邪滅の槍は、その座のすべてを断ち切るには届かない。
息が、白くなっている。
夏じゃないのかもしれない。
季節の感覚さえ、わからなくなっていた。
消耗していくのは、いつだって実体のある方だった。




