表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

18/18

第十八章 孤独な将軍

一 寛永寺の影


慶応四年春。

上野・寛永寺の奥に、徳川慶喜は身を潜めていた。


戦場に立たず江戸へ退いた将軍。

市井では「逃げた」「賊軍」と罵る声が飛んだ。

だが同時に「戦を避けて江戸を救った」と安堵する声もあった。


慶喜(独白)

「余は武士の誉れを捨てた。

 だが百万人の民を守るためなら、笑われてもよい。

 最後の将軍とは、孤独を背負う役目にほかならぬ」



二 勝海舟との密談


ある夜、勝海舟が寛永寺を訪れた。


勝「殿。薩摩の西郷殿と交渉に臨みます。

 江戸を火の海にせぬために、ここで全てを決めねばなりませぬ」


慶喜「……余は戦を避けた。それが正しき道と信じている。

 だが、余の退きが本当に国を守ることになるのか」


勝は静かに頭を垂れた。


勝「殿が退かれたからこそ、道が開けたのです。

 この交渉が成れば、江戸百万の命が救われましょう。

 それこそが“将軍家の大義”にございます」


慶喜の目がわずかに潤んだ。



三 無血開城


慶応四年四月十一日。

江戸城の門が静かに開かれ、城は新政府軍に明け渡された。


城下に火の手は上がらず、町人は戸口からその様子を見守った。

母が幼子を抱きしめ、老人が深く手を合わせた。


町人「江戸が……焼かれずに済んだ……」


その報せは瞬く間に広まり、人々は涙を流して喜んだ。


西郷隆盛も勝海舟も、剣を抜くことなく合意を成し遂げた。

世界史においても稀な「大都市の無血開城」であった。



四 孤独の果てに


寛永寺に戻った慶喜は、静かに庭の桜を見上げた。


慶喜(独白)

「余は臆病者と呼ばれよう。

 だが江戸百万の民が生き残ったのなら、それでよい。

 徳川の名は滅びても、日本は残る――」


桜の花びらが夜風に舞い、彼の肩をかすめた。

その姿は、孤独でありながらも確かな決意に満ちていた。


こうして徳川慶喜の選択は、

血ではなく知恵によって江戸を守り、

新たな日本への橋渡しとなったのである。



⭐︎ 補足(史実)

•孝明天皇の崩御(1867年1月30日)

孝明天皇は強硬な攘夷派で、幕府にも薩長にも都合の悪い存在だった。

慶応2年に突然崩御し、直後に14歳の明治天皇が即位。

この出来事により薩長は「錦の御旗」を掲げる正当性を得て、一気に倒幕の大義を確立した。

その死は自然死とされるが、タイミングの妙から暗殺説が絶えず、幕府・薩摩・外国勢のいずれにも「動機」があったと指摘されている。

•フランスの幕府支援

駐日公使ロッシュの主導で、幕府はフランスから軍事・経済支援を受けた。

・横須賀造船所の建設

・フランス式伝習隊の設立(陸軍訓練)

・艦船・武器の輸入

しかし幕府の財政難もあり、規模は限定的で薩長の英式最新兵器には及ばなかった。

結果として 英=薩長 vs 仏=幕府 の構図が生まれたが、両国とも本気で勝敗を決めるというよりは、

「どちらが勝っても日本を資本主義の秩序に組み込む」 ための分担のように見える。



⭐︎ 豆知識

•「大樹様たいじゅさま」は将軍を呼ぶ尊称。現代で言う「将軍様」は当時はあまり使われなかった。

•横須賀造船所は後に日本海軍の拠点となり、明治期以降も国防の中心施設として使われ続けた。

•無血開城(1868年4月11日) は「江戸百万人の命を救った」と同時に、列強諸国からも高く評価された。

大都市を戦わずに明け渡した例は世界的に見ても稀であり、日本の近代史の大きな転換点となった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ