第十八章 孤独な将軍
一 寛永寺の影
慶応四年春。
上野・寛永寺の奥に、徳川慶喜は身を潜めていた。
戦場に立たず江戸へ退いた将軍。
市井では「逃げた」「賊軍」と罵る声が飛んだ。
だが同時に「戦を避けて江戸を救った」と安堵する声もあった。
慶喜(独白)
「余は武士の誉れを捨てた。
だが百万人の民を守るためなら、笑われてもよい。
最後の将軍とは、孤独を背負う役目にほかならぬ」
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二 勝海舟との密談
ある夜、勝海舟が寛永寺を訪れた。
勝「殿。薩摩の西郷殿と交渉に臨みます。
江戸を火の海にせぬために、ここで全てを決めねばなりませぬ」
慶喜「……余は戦を避けた。それが正しき道と信じている。
だが、余の退きが本当に国を守ることになるのか」
勝は静かに頭を垂れた。
勝「殿が退かれたからこそ、道が開けたのです。
この交渉が成れば、江戸百万の命が救われましょう。
それこそが“将軍家の大義”にございます」
慶喜の目がわずかに潤んだ。
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三 無血開城
慶応四年四月十一日。
江戸城の門が静かに開かれ、城は新政府軍に明け渡された。
城下に火の手は上がらず、町人は戸口からその様子を見守った。
母が幼子を抱きしめ、老人が深く手を合わせた。
町人「江戸が……焼かれずに済んだ……」
その報せは瞬く間に広まり、人々は涙を流して喜んだ。
西郷隆盛も勝海舟も、剣を抜くことなく合意を成し遂げた。
世界史においても稀な「大都市の無血開城」であった。
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四 孤独の果てに
寛永寺に戻った慶喜は、静かに庭の桜を見上げた。
慶喜(独白)
「余は臆病者と呼ばれよう。
だが江戸百万の民が生き残ったのなら、それでよい。
徳川の名は滅びても、日本は残る――」
桜の花びらが夜風に舞い、彼の肩をかすめた。
その姿は、孤独でありながらも確かな決意に満ちていた。
こうして徳川慶喜の選択は、
血ではなく知恵によって江戸を守り、
新たな日本への橋渡しとなったのである。
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⭐︎ 補足(史実)
•孝明天皇の崩御(1867年1月30日)
孝明天皇は強硬な攘夷派で、幕府にも薩長にも都合の悪い存在だった。
慶応2年に突然崩御し、直後に14歳の明治天皇が即位。
この出来事により薩長は「錦の御旗」を掲げる正当性を得て、一気に倒幕の大義を確立した。
その死は自然死とされるが、タイミングの妙から暗殺説が絶えず、幕府・薩摩・外国勢のいずれにも「動機」があったと指摘されている。
•フランスの幕府支援
駐日公使ロッシュの主導で、幕府はフランスから軍事・経済支援を受けた。
・横須賀造船所の建設
・フランス式伝習隊の設立(陸軍訓練)
・艦船・武器の輸入
しかし幕府の財政難もあり、規模は限定的で薩長の英式最新兵器には及ばなかった。
結果として 英=薩長 vs 仏=幕府 の構図が生まれたが、両国とも本気で勝敗を決めるというよりは、
「どちらが勝っても日本を資本主義の秩序に組み込む」 ための分担のように見える。
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⭐︎ 豆知識
•「大樹様」は将軍を呼ぶ尊称。現代で言う「将軍様」は当時はあまり使われなかった。
•横須賀造船所は後に日本海軍の拠点となり、明治期以降も国防の中心施設として使われ続けた。
•無血開城(1868年4月11日) は「江戸百万人の命を救った」と同時に、列強諸国からも高く評価された。
大都市を戦わずに明け渡した例は世界的に見ても稀であり、日本の近代史の大きな転換点となった。