第十一章 異国の影、将軍の座
一 疑念の芽
江戸城奥。夜更けの蝋燭が揺れ、慶喜は机に広げられた帳簿を凝視していた。
そこには二つの記録が並んでいた。
「文久二年 生麦事件 賠償金十万ポンド 支払:幕府」
「元治元年 下関戦争 賠償金三百万ドル 支払:幕府」
慶喜(独白)
「薩摩の罪も、長州の罪も……なぜ幕府が払う?
薩摩は英国から武器を得、長州は敗れてなお再起を図る。
財布を失っているのは幕府ばかり。
これでは、仕組まれた流れではないか」
勝海舟が低く言った。
「殿、これは単なる外交の誤りではございません。
“幕府を財布に仕立てる仕組み”が、すでに仕込まれております」
慶喜「仕組み……その仕掛け人は誰だ? 老中か、外国奉行か……。
あるいは、すでに幕府の中に異国の声を代弁する者がいるのか」
炎が揺れ、沈黙が重く城を包んだ。
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二 横浜の銀行の裏側
その頃、横浜・居留地。
外国銀行の窓口には薩摩や長州の使者が並んでいた。
英国商人「銃も大砲も、紙一枚の信用で渡すことができる」
薩摩藩士「……金を持たずに武器が買えるのか」
英国商人「銃声の先には必ず返済が待っている。我らはどちらが勝とうと儲かるのだ」
奥の帳簿棚には、薩摩・長州・幕府それぞれの借用証書が積み重なっていた。
紙切れ一枚が、国の未来を縛りつける。
若き渋沢栄一もその場にいた。幕臣として欧州制度を学ぶ彼は心中で呟く。
渋沢(独白)
「資本とは力そのもの……。
銃や剣よりも人を動かす。
利用せねば、利用されるだけだ。
この仕組みを理解せぬ限り、日本は喰い尽くされる」
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三 薩摩と英国
鹿児島藩邸。大久保利通と西郷隆盛が密談していた。
大久保「借財は膨らんでも構わぬ。勝てば新政府の金で払える」
西郷「……志を金に縛らせとうはない」
大久保「志だけで戦はできぬ。資本を用いよ。それが時代の理だ」
西郷は黙した。己の純粋な志が資本の網に絡め取られていくのを感じながら。
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四 ロッシュの誘い
江戸城。フランス公使ロッシュが慶喜を訪ねた。
その背後にはナポレオン三世の第二帝政の影があった。欧州では普仏戦争の前兆が漂い、フランスは極東での足場を急いでいた。
ロッシュ「徳川将軍家こそ、日本を束ねる柱。
フランスは陸軍、海軍、金融すべての制度を提供いたします。
幕府は、欧州の覇者フランスと手を携えるべきです」
慶喜(独白)
「英国は薩摩を、フランスは幕府を。
日本は英仏代理戦争の盤上に置かれている……」
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五 将軍就任をめぐる思惑
京の朝廷。公家たちが囁いた。
公家A「慶喜公ならば幕府を立て直せよう」
公家B「いや、あの御仁は狡猾に過ぎる。朝廷を軽んじるやもしれぬ」
薩摩藩邸。大久保が吐き捨てた。
「慶喜が将軍となれば、いずれ討つことになろう。だが、いまは泳がせるがよい」
江戸城。家臣が報せを持ってくる。
「殿、朝議より。将軍職を慶喜様にとの勅命が」
慶喜は静かに目を閉じた。
慶喜(独白)
「将軍の座……それは誉れか、それとも呪いか。
避ければ国は裂かれる。受けねばならぬ、この国を守るために」
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✍ 補足(史実)
•生麦事件(1862)、下関戦争(1864)の賠償金はいずれも幕府が支払った。これは「幕府=財布」とする構図を固定化させ、幕府財政を圧迫した。
•横浜の外国銀行(香港上海銀行など)は、日本の銀と絹を世界市場に直結させ、資本主義=グローバルの仕組みを浸透させた。
•渋沢栄一は幕府随行で欧州制度を学び、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる。
•薩摩は英国、幕府はフランスと結び、日本は英仏代理戦争の舞台とされつつあった。
•慶喜は1866年、十五代将軍に就任。就任をめぐり朝廷・薩摩・幕臣・外国がそれぞれ異なる思惑を抱いた。