第一章 血に濡れた大義
あなたの知っている「明治維新」は、本当に正しいのだろうか。
作品紹介
第二部 徳川慶喜編
将軍・徳川慶喜。
彼は果たして「無責任な将軍」だったのか。
それとも――血を流さず国を守ろうとした、孤独な戦略家だったのか。
幕府を背負いながら、彼はなぜ最後に「大政奉還」という決断を選んだのか。
その一手が本当に日本を救ったのか、それとも幕府を滅ぼすだけの敗北宣言だったのか。
江戸城の奥、誰も知らない葛藤と密談。
慶喜の胸中には「武力で抗うか」「政権を返すか」という二つの声が常に渦巻いていた。
その傍らには勝海舟の影があり、西郷隆盛の決断が迫っていた。
――もし慶喜が戦を選んでいたら?
――もし彼が大政奉還を先延ばしにしていたら?
日本の歴史は、まるで違う姿になっていたかもしれない。
この第二部では、勝海舟の陰からは見えなかった「将軍・徳川慶喜」の眼差しを追い、
歴史の分岐点に立たされた一人の武家の現実を描いていく。
教科書で習った明治維新。
そこには「坂本龍馬の大活躍」「西郷隆盛の豪快な決断」「徳川慶喜の無血開城」といった、美しい物語が並んでいます。
しかし――
果たしてそれは本当に“史実”なのでしょうか?
もしも英雄像が、後世の政治的都合や思想的な編集によって作られた“虚像”だとしたら?
本作『真・明治維新 漢たちの大義』は、
勝海舟、徳川慶喜、西郷隆盛という三人の目線を中心に、
**「虚像」ではなく「真実に近い明治維新」**を描く歴史小説です。
史実7割+創作3割のバランスで構成し、司馬史観に美化されたイメージをやわらかく訂正。
史実を補足する「豆知識」や、当時の方言・言葉遣いも盛り込み、
まるでその場に居合わせたかのような 臨場感とREALITY を追求しています。
一 安政の大獄
安政五年、江戸。
牢屋敷の奥、湿った土の匂いが漂う石牢に、蝋燭の炎が揺れていた。
捕らえられた男は、吉田松陰。
その目は光を失わず、むしろ燃え盛る焔のようだった。
奉行役「吉田寅次郎、おぬしは何ゆえ幕府を乱す。尊皇だ攘夷だと叫び、若者を煽るなど、逆賊の所業にほかならぬ!」
松陰「逆賊? 違う! この国を滅ぼすは黒船でも異国でもない! 志を失った幕府そのものだ! 私は国を救わんとして声を上げた!」
奉行役は机を叩き、怒声をあげる。
奉行役「志で国が救えるものか! 政は秩序、力で支えるものだ!」
松陰「力に志がなければ、それは暴政! 秩序に大義がなければ、それは腐敗! あなた方のやり方こそ、この国を沈める元凶だ!」
牢番が思わず目を伏せた。
その心に揺らぎが走る。
牢番(小声で)「……馬鹿な。逆賊の言葉に……胸を打たれるとは……」
外の通りを行く庶民たちも、牢内から漏れる声に耳を澄ませる。
「また誰か捕まったらしいぞ……」
「尊皇だと? 攘夷だと? どっちにせよ、腹は膨れぬわ」
「いや、異国に食い物にされるぐらいなら、あの若ぇ者たちに賭けてもいい……」
松陰の声は、鉄と土に閉ざされた牢を越え、人々の胸に届いていた。
やがて奉行役は吐き捨てる。
奉行役「吉田寅次郎、斬首を申し渡す!」
蝋燭の火が揺れ、松陰の影が長く壁に伸びた。
その瞬間、幕府は「思想そのものを斬る」という選択を下したのである。
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二 桜田門外ノ変
万延元年三月三日。
雪が江戸を覆い、白き静寂が街を閉ざしていた。
桜田門外。彦根藩の駕籠が進む。吐く息も凍る寒気の中、数十の影が雪を踏みしめる。
浪士A(低声)「あれが井伊の駕籠だ……」
浪士B「条約を結び、国を売った大老……。あの男を討たねば、日本は異国に呑まれる!」
浪士C(震える声)「これが正義か……? 俺は、人殺しになる……」
浪士リーダー「黙れ! 俺たちが動かねば、この国は滅ぶ! ――斬れぇぇ!」
銃声が轟き、雪煙が舞い上がる。
駕籠の戸が割られ、悲鳴が響く。
血を浴びた井伊直弼は、必死に声を振り絞った。
直弼「馬鹿な……! 私を斬れば、この国は混乱に沈むぞ!」
浪士A「混乱を招いたのはお前だ!」
浪士B「開国は亡国! 血で償え!」
刀が閃き、白雪に鮮血が散った。
井伊直弼は崩れ落ち、その息は白い霧と共に消えた。
町人たちが遠巻きに息を呑む。
「……大老が、斬られた……?」
「幕府の柱が……斬られたのか……!」
その噂は一日も経たぬうちに江戸全体を駆け抜けた。
「お偉方ですら命はない――」
恐怖と驚愕が、庶民の心を覆った。
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三 慶喜の視線
江戸城奥。報を受けた徳川慶喜は、じっと雪空を見上げていた。
傍らの家臣が震える声で問う。
家臣「殿……幕府はもはや血でしか己を守れませぬか」
慶喜「……血で守るか。血を避けて国を守るか。いずれを選んでも、必ず誰かの正義を踏みにじることになる」
その目は恐怖ではなく、冷徹な計算を宿していた。
慶喜(独白)
「近年、将軍の座は死の座となりつつある……。
十二代・家慶は病に伏して急逝。十三代・家定もまた若くして命を落とした。
十四代・家茂に至っては、戦を前に二十歳で息を引き取った。
だが――本当に病死なのか?
それとも、口に出せぬ力が働いたのか……。
いまや大老すら雪の中で斬られる。
将軍も、決して例外ではあるまい」
――だが、それはまだ序章にすぎなかった。
さらに血と策謀にまみれた幕末が、これから江戸を呑み込んでいくのである。
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豆知識・補足: 将軍たちの「異常な死」
ここで史実を整理しておこう。
• 十二代将軍・徳川家慶
ペリー来航(嘉永6年6月)のわずか1か月後、嘉永6年7月に享年60で急死。
• 十三代将軍・徳川家定
在職わずか5年余り。安政5年(1858)、享年34で急死。
• 十四代将軍・徳川家茂
慶応2年(1866)、大坂城にて20歳で病死と記録。出陣直前であったため、毒殺説も流布した。
この三代の死は、記録上も事実である。
ペリー来航からわずか十数年の間に、三人の将軍が相次いで亡くなったことは、当時の人々にとっても「幕府中枢の異常事態」と映った。