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7話 見習い女官

 薄絹のような月が、後宮の屋根をなぞるように浮かんでいた。


 夜も更けた針房では、ひとつの灯火が揺れていた。


 


 「……よし、あと袖口だけ」


 芙蓉は眉間に細かい皺を寄せ、刺繍枠に張られた深緑の布地に針を滑らせていた。


 皇帝の礼服——どのような予定で使用されるかわからない。しかし、この刺繍は、新たな文様刺繍の細工である。


 ほうの裾には金糸で瑞雲ずいうんが流れ、背には五爪の龍が螺鈿らでんのようにきらめく。


縫うのがとても難しい。


 だが芙蓉が任されたのは、目立たぬ左胸裏の「裏文様」だった。


 


 「見えぬ場所こそ、粗が許されぬ」


 それが、李瑾からの命だった。


 


 芙蓉は呼吸を整え、そっと針を進める。


 彼女の指先は冷たく、目は赤くなっていた。けれど、その姿に疲れの色はなかった。


 ——この布に、わたしの全てを残す。誰かが見ようと見まいと。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 翌朝。


 芙蓉が布を仕上げた頃には、東の空が白み始めていた。


 女官長・魏氏は、完成した品を受け取りながら、珍しく表情を緩めた。


 


 「見事な仕上がりだ。……あの宦官殿が目をかけるだけのことはあるな」


 「……恐縮です」


 

すこしの暇を頂き芙蓉は休んでいた。

 


 「皇帝の礼服を仕立てたって、本当?」


 「裏に刺した“祥龍”の文様は、彼女が縫ったそうよ」


 「見習いの身で?」


 


 それは賛辞というよりも、疑念と警戒が交じったものだった。


 功を焦る者たちは、芙蓉の存在を快く思わなかった。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 その頃、別の場では玉蘭が濃艶な緋の衣を纏い、帝のもとに控えていた。


 


 「陛下、このかんざし、ご覧になりますか?」


 「おお……瑪瑙の蝶か。よく似合っておる」


 


 帝は口元に笑みを浮かべ、玉蘭をしげしげと見つめた。


 「お前と話すのは愉しいな。遠慮もなければ、言葉も選ぶ。気が利く」


 「……恐縮です。ただ、姉がもし聞けば“慎みなさい”とでも言いそうですわ」


 


 玉蘭は、まるで冗談のように笑った。


 けれど、その言葉には確かな棘があった。


 姉の芙蓉が、地味で慎ましいままに止まっている間に、自分は輝きをまとって帝に近づいている。


 それが何より、玉蘭は誇りに思っている。


 


 周囲では、すでに「玉蘭は次の妃候補」という噂がささやかれていた。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 芙蓉が次に与えられたのは、皇后付きの礼女官・徐様が着る礼服の裾刺繍だった。


 


 「……また良いものを頼むぞ。」


 魏氏の声は厳しかったが、その目はわずかに信頼の色を含んでいた。


 


 芙蓉は静かに頭を下げ、作業台に向かう。

 


 だがその夜。


 針房の帳の外で、誰かが囁く声が聞こえた。


 


 「——あの芙蓉って女官、気に入られてるらしいけど」


 「どうせ、宦官に取り入ったんでしょう? 李瑾様って、美丈夫だし」


 「見た目が清楚だからって……腹の中はどうだか」


 


 芙蓉は、ただ黙っていた。


 針を持ち、布に向かい、余計な言葉を飲み込む。


 


 けれど、心の奥にはほんのわずかな痛みがあった。


 李瑾様は、わたしにそんな思いを向けてはいない。


 あの方の目にあるのは、ただ事実と誠実だけだ。


 


 その時、帳がすっと開かれた。


 李瑾だった。


 


 「……よく働いているな、芙蓉」


 彼はそう言うと、そっと机に紙包みを置いた。


 開くと、中には指先を守るための小さな革製の指ぬきが入っていた。


 


 「明日の作業も、長丁場だ。手を、壊すな」


 


 それだけ言って、彼は去っていった。


 芙蓉は、指ぬきを掌でそっと包みながら、小さく息を吐いた。


 


 静かに燃える、ひとつの灯火。


 まだ、恋ではない。


 けれど、その灯火は確かに心を照らしていた。


「……何、これ?」


 


 徐様の礼服の刺繍作業に取り掛かろうと、芙蓉が針枠を広げた瞬間、目に入ったのは、布に残された細かな切れ目だった。


 


 まるで、目立たぬよう巧妙に——だが確実に、刺繍が施されるはずだった部分が何者かの手で傷つけられていた。


 


 芙蓉はしばらく言葉を失い、静かにその裂け目を見つめた。


 小刀のようなもので引き裂かれた跡。誰かが意図的に傷をつけたのだ。


 


 (また……)


 


 それは、彼女が見習いに昇格してから度々起こる嫌がらせの延長だった。針を隠され、布が切られ、仕事を増やされる日々。けれど芙蓉は決して口に出さなかった。


 


 今回も例外ではない。


 芙蓉は静かに席を立ち、新たな布を求めて倉庫へと向かった。


 


 ―――


 


 一方その頃、後宮の奥では、妹・玉蘭が満面の笑みを浮かべていた。


 


 「陛下は、また私に香をくださったの」


 彼女は女官たちに、そう誇らしげに語っていた。


 「昨夜もお呼びがかかって、少し話をしたわ」


 


 けれど——その“話”とは、実際には宦官を介しての短い対話に過ぎなかった。


 玉蘭は、その曖昧な距離を“寵愛”と信じ込もうとしていた。


 


 「わたくし、近いうちに妃に選ばれるかもしれないの」


 そう語る玉蘭を、ある一人の妃が遠巻きに見ていた。


 


 彼女の名は麗妃。帝の寵愛深い妃の一人。


 


 「……ふふ、面白い子ね。どこまで舞い上がるのかしら?」


 


 その目には冷たい光が宿っていた。


 


 ―――


 


 その夜、針房。


 芙蓉は新たに布を整え、見事な文様を一から刺していった。


 文様の名は「蓮龍」。


 蓮の花が広がる中、細い雲の流れのように一匹の龍が浮かび上がる図案。見る者の目を引く精緻さだった。


 


 「この模様……意味は?」


 と、視察に来た李瑾が問うた。


 


 「はい。これは、“静謐の中の力”を表しております。蓮は穏やかに咲いておりますが、水面下には龍が潜み、動く瞬間を待っております」


 


 「……なるほど。まさに、お前そのものだな」


 


 芙蓉ははっとして顔を上げた。


 だが李瑾はすでに視線を戻し、口元に僅かな笑みを浮かべたまま去っていった。


 


 ——気にしてなど、いない。


 自分など、ただの一見習いにすぎぬ。


 


 だが、女官たちは違った。


 


 「李瑾様って、あの芙蓉にばかり目をかけてるわよね」


 「見習いの分際で、礼服の仕事? おかしいわよ」


 「まさか、何かあるんじゃ……?」


 


 針房の片隅で囁かれる声。


 だが芙蓉は、またしても聞こえぬふりをして、ただ針を進めるのみだった。


 


 ―――


 


 完成した礼服は、徐様の元へ届けられた。


 それから数日後——皇后本人が刺繍に目を通したと耳にした芙蓉は、思わず針を止めた。


 


 (まさか……)


 


 その数日後。


 針房に、また女官長・魏氏が現れた。


 


 「芙蓉。皇后様が、お前の文様の“意図”に興味を持たれた」


 


 芙蓉の胸が、静かに打った。


 


 「“力を持たずとも、蓮のように咲き、機を見て動く龍”……そのような者が、妃にふさわしい、と」


 


 魏氏は口元を覆いながら笑った。


 「陛下ではなく、皇后様がな。これは……思った以上に風が吹き始めたぞ」


 


 芙蓉は深く頭を下げた。


 その背にかかる視線の意味に、彼女はまだ気づいていなかった。


 


 その視線の主は、再び針房の入口に立つ李瑾だった。


 


 「蓮は……咲き始めたな」


 


 誰に聞かせるでもなく、李瑾はそう呟いた。

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