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4話 切られた糸の先に

 初夏の朝、針房に涼やかな風が吹き込んだ。だが、芙蓉の机の上には、その爽やかさとは裏腹に、ざらついた重たい空気が漂っていた。


 「……また、か」


 絹糸を滑らせようとした針が、布に触れる前に折れていた。


 見れば、針山の中にあったはずの針は、すべて根元から曲げられていた。新しい針は昨日のうちに補充したばかり。つまり、誰かが故意にやったのだ。


 芙蓉は、小さく息を吐き、声には出さずに針を片づけた。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 女官見習いになってからというもの、芙蓉の周囲の空気は徐々に変わっていった。


 もともと芙蓉と同じく下女として働いていた者たちからすれば、突然“昇格”した彼女の存在は面白くないものだった。


 「庶民上がりが調子に乗ってる」


 「李瑾様のご寵愛? ふん、宦官に媚びるなんて」


 面と向かって口にする者はほとんどいなかったが、陰での囁きは日増しに増えていった。


 ある日は洗濯場に回され、本来なら三人がかりでやるはずの布の洗いを一人で任された。


 別の日には、炊事場の手伝いを突然押しつけられ、指示もなく「遅い」と叱責された。


 それでも芙蓉は、黙って耐えた。


 決して手を抜かず、ひとつひとつの作業を丁寧にこなす。その姿勢だけが、彼女の矜持だった。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 「芙蓉、あんた……これ、見た?」


 ある日、針房の片隅で、蕾花が呼びかけてきた。


 渡されたのは、昨日仕上げたばかりの刺繍布。皇后様の夜衣の袖飾りとして使われる予定だったものだ。


 だが、その布には――


 無残にも、鋭利な刃物で切られたような切れ目が、斜めに走っていた。


 「……っ」


 その瞬間、芙蓉の胸に鋭い痛みが走った。


 ひと針ひと針、夜遅くまでかけて仕上げたものだった。図案に添って紅葉の葉を丁寧に重ね、銀糸で朝露のきらめきを縫いこんだ。

 それが、何のために――いや、誰の手で――?


 「上の方に報告する? これ、きっと嫉妬からの……」


 蕾花が言いかけたとき、芙蓉はそっと首を振った。


 「……いいの。私がまだ、半人前だから」


 「でも、あんたはちゃんとやってる」


 「だからこそ、今ここで騒ぎを起こしたら、刺繍そのものが汚れる気がするの」


 唇を引き結び、芙蓉は切られた布を静かに畳んだ。


 「……やり直すわ。また、刺せばいい。何度でも、」


 その言葉に、蕾花は胸を打たれたように黙った。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 一方、その様子を遠くから見つめていた者がいた。


 ――李瑾。


 廊下の柱の影に身を潜め、彼は静かに針房の中を見つめていた。


 下女から女官見習いになった芙蓉に、こうした嫌がらせが起こることは予想していた。


 だが、彼女は泣き言ひとつ言わず、ひたすら仕事に向き合っていた。


 針を折られても、糸を絡められても、何度もやり直し、布に向かうその後ろ姿には、どこか儚さと強さが同居していた。


 「……強いな」


 思わず漏れたその声に、自分でも驚いた。


 李瑾は、過去に何人もの女官を見てきた。才に溺れ、己を飾る者。誰かの寵愛を得ようと上目遣いで笑う者。


 だが、芙蓉は違った。


 彼女の針は、自分のためにしか動かない。


 誰に媚びるでもなく、誰かに褒められるためでもない。ただ、布の上に「真」を刺すように、その手を動かす。


 「……なぜ、こんな者が下女にいたのか」


 李瑾は思わず、そう呟いていた。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 数日後、芙蓉は再び刺繍を仕上げた。


 切られた布を補修することはせず、最初から新しい布を用い、同じ文様を、さらに丁寧に再現した。


 「……あなたの刺繍、好きよ」


 蕾花のその一言に、芙蓉はようやく、笑みを返した。


 「ありがとう。でも、私よりも布が頑張ってくれてるの」


 


 ◇ ◇ ◇


 


 その夜。


 李瑾は芙蓉を再び書房に呼び出した。


 「刺繍、見事だった」


 「ありがとうございます」


 「……嫌がらせを受けていたことは、すでに知っている」


 芙蓉は一瞬、息を呑んだ。


 「ですが、私にはそれを騒ぎにするほどの器も、立場もありません」


 「それでも、腐らなかった。それだけで十分だ」


 しばしの沈黙の後、李瑾は静かに言った。


 「次の刺繍は、特別な宴の衣装だ。皇太后様のもとへ納める一着。……お前に任せたい」


 芙蓉の目が、驚きで見開かれた。


 「わ、私が……? 本当に、よろしいのでしょうか」


 「お前以外に、誰がいる」


 李瑾の声音には、確かな信頼がこもっていた。


 芙蓉は胸の奥で、静かに熱が灯るのを感じていた。


 認められた――ただそれだけで、今日の苦しみが報われるようだった。


 そして、まだ言葉にはしないまま、芙蓉と李瑾の距離は、針のひと目分、近づいた。


薄明の針房に、芙蓉は静かに座っていた。机の上には、選び抜かれた絹の反物と、上等な金糸、銀糸が整然と並べられている。


 皇太后の誕辰祝いの宴。その場で披露される衣装を、芙蓉が一人で刺繍することになったのだ。


 「一人で任されるなんて、すごいわ……」


 隣で小声で呟いたのは蕾花。心からの賞賛だったが、芙蓉はほんのり頬を染めて首を振った。


 「きっと、お試しなの。気を抜かず、いつも通りにやるだけ」


 それでも、その細い指先はわずかに震えていた。責任の重さを感じていないわけではない。だが、逃げる理由はどこにもなかった。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 一方、後宮の奥深く、女官たちが集う花苑の一角。


 「芙蓉? あの子が……刺繍役?」


 その名が口にされた瞬間、玉蘭の美しい眉がぴくりと動いた。


 腰まで届く黒髪に、端正な顔立ち。淡い紅の紅をさした唇には、微笑みが貼り付いていたが、目元だけが冷ややかに細まっていた。


 「身の程知らずね。あの人が目をかけてるの?」


 彼女が言う「あの人」とは、李瑾のことだった。


 後宮を仕切る大宦官であり、帝の側近として絶大な信頼を得ている李瑾は、美しさと冷徹さで女官たちの間でも恐れられる存在だ。


 その李瑾が、名もなき元・下女に特別な刺繍の仕事を命じた――という話は、すでに女官たちの間で囁かれていた。


 「姉さま……こんな形でまた聞くことになるなんて」


 玉蘭は、うっすらとした笑みを浮かべながらも、その笑みの奥に確かな嫉妬と苛立ちを隠しきれなかった。


 姉・芙蓉は、美では自分に遠く及ばないはずだった。


 控えめで、目立たず、ただ針仕事ばかりしていた地味な女。

 その姉が、今や皇太后の衣装を任される――? 


 「おもしろいじゃない……どこまで行けるのか、見せてもらおうかしら」


 玉蘭の目には、鋭い光が宿っていた。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 その頃、芙蓉は針房の奥、特別に与えられた作業部屋にて黙々と刺繍を進めていた。


 選ばれた図案は、「瑞鶴と牡丹」。

 長寿と吉兆を象徴するこの文様は、皇太后に相応しい高貴さと華やかさを兼ね備えている。


 白磁のような手が、ためらいなく糸を引き、細やかに刺す。

 目に見えないほどのひと針ひと針が、布の上に命を宿していく。


 何時間、何日が過ぎただろう。


 やがてその手元には、銀糸の風に舞う鶴の翼と、薄紅色に咲く牡丹の輪郭が現れはじめていた。


 「……やっぱり、お前は只者ではないな」


 ふいに響いた低い声に、芙蓉は針を止め、顔を上げた。


 そこには、李瑾が立っていた。


 「李瑾様……」


 彼は部屋の中をゆっくりと歩き、芙蓉の手元に視線を落とす。


 「刺繍には、人の心が映る。お前の刺繍は、奇をてらわず、静かで深い」


 「……それは、私が地味だからです」


 芙蓉は視線を伏せながら、つぶやいた。


 「皆のように目立つことはできません。ただ、与えられた布に、精いっぱい尽くすだけ」


 李瑾の目に、わずかな驚きが浮かんだ。


 「……目立たぬことを美徳とする者は、少なくなった。だが、それこそが、後宮で本当に強い者の資質だ」


 芙蓉ははっとして、彼を見上げた。


 その瞳には、かつてないほどの穏やかさが浮かんでいた。


 「私は……私のような者が、ここにいていいのか、まだ迷っております」


 「お前は、いるべきところに来ただけだ」


 李瑾はそう言い残し、静かに部屋を出て行った。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 その背を見送りながら、芙蓉は自分の胸の奥に芽生えた微かな熱に、戸惑っていた。


 恋ではない。憧れでもない。ただ――自分を初めて「存在」として見てくれた誰かが、そこにいる。


 それだけで、心が温かくなった。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 だが、その一方で、玉蘭は動き出していた。


 妹としてではなく、後宮を勝ち上がる一人の女官として。


 姉・芙蓉が針で成り上がるなら、自分は――美と策で、さらに上を目指すだけ。


 「次の……お会いできるのが、楽しみね。姉さま」


 玉蘭の朱唇が、冷たく歪んだ笑みを描いた。

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