2話 花は誰のために咲く
朝の陽光が、白い漆喰の壁に反射してまばゆく広がる。
宮中にも夏の気配が濃くなり、下女たちの額には早くも汗がにじんでいた。
芙蓉が後宮に足を踏み入れてから、すでに三か月が過ぎていた。
炊事場と洗濯場、そして掃除や道具の手入れ。
過酷な労働の日々は変わらなかったが、芙蓉の周囲には、最初の頃にはなかった「人の輪」が、少しずつ広がっていた。
そのきっかけは、ひと針ひと針にこめた刺繍だった。
◇ ◇ ◇
芙蓉の針仕事は、最初こそ「変わり者」と囁かれるだけだった。
だが、ある日、芙蓉が手にしていた布切れを見た下女の一人が言った。
「ねぇ、それ……あなたが縫ったの?」
芙蓉が持っていたのは、ほとんど人目につかないような布――廃棄された古い襟の切れ端。
だが、そこには繊細な梅の花がひと枝、白い絹糸で刺されていた。
夜な夜な月明かりのもと針を刺した。
その布を見た瞬間から、芙蓉の刺繍は静かに下女たちの間で噂になっていった。
「炊事場の端で花を咲かせる子がいるらしい」
「見てよ、この針目……これ、ほんとに捨て布なの?」
「端切れには見えない...まるで売り物よ」
そうした噂が、少しずつ芙蓉のもとへと人を運んできた。
もとより芙蓉の人柄は、おしとやかで穏やか。
誰かを踏みにじることも、競い合うこともせず、ただ静かに仕事をこなす少女だった。
そんな彼女の周囲に、やがて同じく地味ながら誠実な娘たちが集まり、作業の合間に小さな輪ができていった。
◇ ◇ ◇
その中でも、最も親しくしていたのが杏花だった。
「あのね、芙蓉ちゃん……お願いがあるんだけど……」
炊事場の片隅、昼餉の片づけが終わった直後、杏花がこそこそと声をかけてきた。
「刺繍、してほしいの」
「……刺繍?」
「うん、わたしの肌着に。ちょっとした花の模様とか。……外に見えると怒られるでしょ? でも、肌着なら大丈夫かなって」
芙蓉は、少し考えてから頷いた。
「わかったわ。でも……私の針じゃ粗が目立つかもしれない。それでもいい?」
「もちろん! 芙蓉ちゃんの刺繍なら、どんなのでも大事にするよ」
芙蓉はほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「それじゃあ……せっかくだから、杏の花を刺すわね。あなたの名前にもあるから」
「……! うれしい!」
杏花は頬を染めて、声を潜めながらも満面の笑みを見せた。
◇ ◇ ◇
その夜、芙蓉は月明かりもと、針を持った。
渡された肌着は、粗い綿布のものだったが、清潔に洗い上げられており、端は丁寧にかがられていた。
大切に使われていることが伝わってくる。
その裾の内側――誰の目にも触れない、まさに「秘密の場所」に、芙蓉は杏の花を刺すことにした。
桃色の絹糸、枝にはごく細い茶色の糸を使い、花びらは開きかけのものを選んだ。
糸はどれも、端切れを解いて準備した物だ。
つぼみと花、そして小さな葉を添えると、まるで春の朝の一枝が、綿布の中にひっそりと咲いたようだった。
「……できた」
ひとり呟いて、芙蓉は針を納めた。
この花は誰にも見られることはない。
でも、身に着ける人の心を温めることができれば、それでいい。
刺繍とは、本来そういうもの――芙蓉の祖母が、昔そう言っていた。
◇ ◇ ◇
翌日、芙蓉は洗濯物の陰で、杏花にそっと肌着を手渡した。
杏花は布を開いて、刺繍の花を見た瞬間、はっと息を呑んだ。
「……すごい。これ、本当に芙蓉ちゃんが……?」
芙蓉は頷いた。
「気に入ってもらえたなら、嬉しいわ」
杏花はぎゅっと肌着を抱きしめると、涙をこらえるように目を伏せて言った。
「ありがとう。芙蓉ちゃんの手、すごく優しいね……。なんか、着るだけで、強くなれそう」
その言葉に、芙蓉は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
誰にも見えなくても、誰にも褒められなくても、こうして誰かの心に届くなら、私はきっとこの針で生きていける。
例え、寵愛を受けなくても…誰からも選ばれなかったとしても…
そう静かに思ったのだった。
◇ ◇ ◇
芙蓉の刺繍は、やがて「特別なもの」として、密かに求められるようになっていく。
華やかでなくても、目立たなくても、心を打つ“何か”がそこに...。
下女の楽しみにもなっていた。
そして、この小さな花の刺繍が、思いもよらぬ出会いへと繋がっていくとは...
ただひと針、またひと針と、彼女は今日も布に向かい続ける。
それは、ある蒸し暑い昼下がりのことだった。
芙蓉がいつものように、休憩中、壊れた棚の陰で小さな布に針を運んでいた時――ふとした気配に気づいて顔を上げた。
そこには一人の女官が立っていた。まだ若く、鮮やかな海松色の衣をまとい、瞳は鋭く芙蓉の手元を見つめていた。
「それ、あなたが縫ったの?」
芙蓉は驚きつつも、素直に頷いた。
女官は一歩近づいて、芙蓉の膝の上に置かれていた布を手に取った。
それは捨てられた端切れに刺された、可憐な藤の花だった。
「……これが捨て布だなんて、信じられないわ。針目も乱れていない。まるで、……生きているみたい」
芙蓉は黙って聞いていた。
女官はふと顔を上げ、真っ直ぐに芙蓉を見つめた。
「今すぐ着いてきて。話があるそうよ」
そう言われ、芙蓉は状況が飲み込めぬまま、手にしていた針をそっと布に差し戻した。
◇ ◇ ◇
案内されたのは、見たこともない廊下だった。
朱塗りの柱に金の細工が施され、絹の帳が風に揺れている。明らかに下女の出入りを許されぬ空間。
芙蓉は静かに頭を垂れながら、恐る恐るその部屋へと入った。
中には、帝ではなかった――しかし、その姿を見た瞬間、息を呑んだ。
そこにいたのは、凛とした美貌の青年だった。
均整の取れた顔立ちに、冷静な光を湛えた切れ長の瞳。長い黒髪を結い上げ、青磁の衣を纏っている。
彼は宦官――すなわち、後宮を仕切る存在。
だが、その立ち居振る舞いは、下女の目から見ても威厳があり、異様なまでに美しかった。
「そなたが、芙蓉か」
穏やかな声だったが、どこか人を射抜くような鋭さがあった。
芙蓉は黙って頭を下げた。
「この刺繍……下女の手によるものとは思えぬ出来栄えだ。なぜ、その才を隠していた?」
問われた芙蓉は、しばし黙した後、静かに言った。
「隠していたのではありません。ただ、私のような庶民の娘が針を扱っても、それが誰かの目に留まるとは思っておりませんでした。貧しい家に生まれ、縫うことしか知らず……それが、私の全てです」
青年は、しばし彼女を見つめた後、ふっと笑んだ。
「なるほど……才は身分を選ばぬ、というのは真実のようだな。よかろう。今日よりそなたは『針房』に移される。見習い女官として、そこで才を磨け」
芙蓉は、耳を疑った。
「見習い……女官、でございますか?」
「そうだ。玉蘭という名の妹がいるな? 彼女とは違う役目だが、立場は同じ見習いだ。」
芙蓉は深く頭を下げた。
「……身に余る光栄でございます。針の道しか知りませんが、全力を尽くします」
「それでよい」
青年は、背後に控える女官に目を向けて命じた。
「針房へ案内せよ。衣と部屋の準備もな」
そうして芙蓉の運命は、思いもよらぬ方向へと動き出した。
◇ ◇ ◇
針房――そこは、後宮に仕える女たちの衣を縫い、繕い、時に刺繍を施す職務の場。
数十人の女官が在籍し、それぞれに得意とする分野がある。
初日は挨拶だけで終わったが、翌日からは早朝より部屋に入り、針箱の整理や糸の分類、仕立ての補助などに追われた。
これまでの下女としての労働とはまた違う、目と手と集中力が問われる日々。
だが芙蓉にとって、それは苦ではなかった。
自分の居場所が、ついに見つかったような――そんな静かな喜びが胸の奥に灯ったのだった。
◇ ◇ ◇
「姉さまが……見習い女官?」
その知らせを聞いた玉蘭は、驚きよりも、どこか警戒するような眼差しを向けたという。
華やかな装いと仕草で上役に気に入られることに力を注いできた彼女にとって、目立たぬ姉が別の道で“昇る”ことは、想定外だった。
芙蓉はその視線にも気づいたが、ただ静かに頭を下げて微笑んだ。
――私は、誰かに媚びることはできない。けれど、私なりの方法で、この場に居場所を築いていく。
そして、そのための武器は、他でもないこの針と糸。
やがて、この手で縫った布が、もっと広く誰かの目に触れる日が来ることを願いながら――芙蓉は今日も、細い針先に思いを込めた。