15話執念そして妃に
後宮の庭に咲く金木犀の香りが、風に乗って漂う頃。
針房では、冬の節会に向けた衣装づくりが佳境を迎えていた。
女官たちは連日遅くまで灯りをともして布と向き合い、芙蓉もまた新たな意匠に取り組んでいた。
その日、芙蓉は刺繍糸の整理をしている最中、いつも使用している金糸が不自然に切りそろえられていることに気づいた。
(また……。これは偶然ではありません)
誰がやっているのか、もう芙蓉には察しがついていた。
けれど、彼女は言葉にはしなかった。ただ静かに、違う糸を取り出し、作業を再開した。
だが、その日の夜――。
「芙蓉さん、大変です。貴女の刺繍布、また破られていました!」
慌てて走り込んできた同僚の声に、芙蓉が駆け寄ると、そこには確かに切り裂かれた布が残されていた。
今しがた完成したばかりの下襲。作り直すには時間も限られていた。
(さすがに、これは……)
その時だった。
「そこまでです」
冷たい声が室内に響いた。
姿を現したのは――李瑾だった。
◆
李瑾は宦官の中でも異例の存在である。帝の信頼も厚く、数々の部署に人脈を持つ彼は、すでに独自に調査を始めていた。
「この件、私の命で監視をつけさせていた。……証拠は、すでに揃っている」
李瑾の背後から、小柄な内侍がそっと布を差し出した。そこには、薄い布切れに残された金糸、そして――玉蘭の名前が刺繍された針刺しが挟まっていた。
「……っ!」
針房内がざわつく中、李瑾は静かに言葉を続けた。
「玉蘭。そなたが犯人であることは明白だ。何故、このようなことを?」
沈黙の中、部屋の奥で女官がざわりと動いた。
芙蓉がその姿を見て、目を見開いた。
「……玉蘭……」
姉の視線に晒され、玉蘭はゆっくりと顔を上げた。
その顔は、もうかつての可憐な妹ではなかった。
「姉さまが……悪いのよ……」
声は掠れていた。
「姉さまは……ずっと、目立たなくて……地味で……でも、みんな姉さまを褒める。帝に衣を作ったって、李瑾様に気に入られてるって……どうして? どうして姉さまばかり……!」
「玉蘭……!」
「私のほうが、きれいなのに。私のほうが、努力してたのに……!」
涙とともに絞り出された言葉に、針房の空気は一気に冷え込んだ。
李瑾は短く息を吐くと、冷然と告げた。
「玉蘭。そなたには、正式な処罰が下される。上級妃たちの衣を汚した罪、姉への妨害、そして、後宮内での騒乱を招いたこと。軽いものではない」
その場にいた女官たちは誰一人、言葉を挟まなかった。
かつては羨望の的だった玉蘭の転落は、皆にとってあまりに生々しい現実だったのだ。
◆
玉蘭が連れて行かれた後の針房。
芙蓉は手の中の布を見つめていた。
それは、玉蘭が壊した刺繍ではなく――かつて一緒に学び、笑った頃、姉妹で刺した最初の花模様だった。
「……あの子の心が、壊れてしまったのなら、それは私にも責任があるのかもしれません」
静かにそう呟いた芙蓉に、李瑾はそっと寄り添った。
「あなたは、誰のせいにもせずに歩いてきた。だからこそ、誰もがあなたに心を寄せるのです」
彼の言葉に、芙蓉はわずかに目を伏せた。
(李瑾様……。どうして、こんなにも……)
そこに、ややあって使者が現れる。
「芙蓉様。景瑤帝より、至急御所へお越しくださいとの御伝言です」
針房に再びざわめきが走る。
「……陛下が?」
思わず口にした芙蓉の声に、李瑾の表情がほんの一瞬、揺らいだ。
彼の視線の奥に浮かぶ感情を、芙蓉はまだ知らなかった――。
◆
玉蘭が連れ去られてから、数日が経った。
後宮の中は、まるで一陣の嵐が過ぎ去ったあとの静けさに包まれていた。
あの夜の出来事があまりにも衝撃的だったためか、針房の女官たちは数日間ほとんど口を開かず、淡々と手を動かし続けていた。
芙蓉もまた、静かに日々の務めをこなしていた。
玉蘭の去った後、彼女の部屋はきれいに片づけられ、そこに新たな下女が入ることもなかった。
(あの子は、もう戻ってこないのね)
あれほど近しく、共に過ごしてきた妹の姿が消えた事実は、芙蓉の胸に小さな穴を空けた。
それでも、前に進むしかなかった。
◆
そしてある日、芙蓉は呼び出された。場所は、景瑤帝の御前。
刺繍の件での功を評価される場だと事前に聞かされていたが、胸の奥で何かがざわついていた。
大広間に足を踏み入れると、そこには景瑤帝と、李瑾の姿。
「芙蓉、よう来たな」
帝の声は、柔らかかった。
それまで威厳に満ちた帝の声に緊張を隠せなかった芙蓉だったが、その声色にほんの少し心を緩めた。
「この度の件、よく耐え、よく勤め上げた。……そなたの働きは、誰よりも余が知っている」
景瑤帝の言葉に、芙蓉は深く頭を垂れた。
「もったいなきお言葉……身に余ります」
「余が欲したのは、ただの刺繍ではない。そなたが衣に込めた心、思い、それが民の心をも動かすと信じている」
そのまま、帝は静かに立ち上がると、李瑾に目配せをした。
李瑾が一歩前に出て、玉札を差し出す。
「これは、妃冊の玉札。そなたを、『采蓉妃』として迎える旨、陛下より仰せつかっております」
瞬間、芙蓉の目が見開かれた。
「……わたくしが、妃に……?」
女官からの昇進。しかも、正式な妃の位階。
前例のない異例の措置であることは、誰の目にも明らかだった。
「その顔を見ると、まだ信じておらぬようだな」
帝は笑みを浮かべ、芙蓉に歩み寄った。
「これは褒美ではない。そなたの才と心に、余が惚れ込んだ証である。……芙蓉、これよりは、そなたは余の妃。堂々と胸を張るがよい」
李瑾の目が、わずかに揺れるのが見えた。
芙蓉の胸に去来するものは複雑だった。
帝から向けられる確かな信頼と好意。
そして、それを陰から見守ってくれていた李瑾の静かなまなざし――。
(わたしは……何を想っているのだろう)
これからの日々は、今までとはまるで違うものになる。
けれど、それでも彼女は前に進むしかなかった。
「……はい。心してお仕えいたします」
そう告げた芙蓉の声は、今までになく強く、そして美しかった。
◆
その晩。
李瑾は、月を仰ぎながら庭に立っていた。
庭先に差した秋の風が、彼の袖を揺らしていく。
「……妃になられたか。まこと、めでたきことだ」
誰に向けるでもない言葉を、李瑾は静かに呟いた。
手にしていたのは、小さな布――芙蓉が以前、冗談のように縫って渡した手巾。
そこには、月の刺繍が施されていた。
(……されど、この心は、どこへ向かうのだろうな)
彼の目に、哀しみが滲んでいた。
そして――
宮中の奥、景瑤帝は、芙蓉の着付けが整えられるのを、静かに待っていた。
心は静かに、だが確かに、彼女への想いを募らせながら――。