11話揺れる視線、広がる影
後宮の廊下には風が吹き抜け、薄桃の花模様があしらわれた布が、所々で揺れていた。
その布の意匠を手掛けたのが芙蓉であることを知る者は、すでに多かった。
だが、その評判が高まるほどに――彼女の足元をすくおうとする声もまた、濃くなる。
「針房の芙蓉……聞いた? 宦官様に取り入って出世したって」
「最近は皇后様の衣装まで任されてるとか。成り上がりって怖いわねぇ」
顔では笑って言いながら、背中では軽蔑と嫉妬の眼差し。
その“空気”は、やがて上級妃たちの耳にも届いていた。
◆
「皇后様、芙蓉という者の評判が……あまり芳しくございません。女官の間では、あの者が針房に上がったのも、麗妃様のお情けや、李瑾様の庇護あってのことと囁かれております」
そう報告したのは、皇后に仕える侍女だった。
皇后は、杯を静かに置いた。
「……妬みは、後宮の常。だが、火がくすぶる前に手を打つべきこともあるわね」
品のある顔立ちに、ひとしずくの冷厳が浮かぶ。
「芙蓉の技が真に値するものであれば、火の粉ごときで揺らぐはずもない。
今一度、彼女の仕事ぶりを見せてもらいましょう」
◆
一方
――麗妃のもとでも、同様の話が上がっていた。
「妃様、芙蓉が目立ちすぎていると……」
「構わぬ。あの子は道理を違えぬ者。たとえ誰の後ろ盾がなくとも、己の腕一本で立っている」
麗妃はきっぱりと言い切った。
「だが、くだらぬ陰口が蔓延るのは、私の顔にも泥を塗ること。
誹られぬほどの“逸品”を、次に作らせましょう。文句のつけようのないものをね」
彼女の瞳は冷静だが、その奥には芙蓉への信頼と、面白がるような期待が混じっていた。
◆
芙蓉自身も、噂が広まっていることに気づいていた。
洗濯場で昔馴染んだ下女が、こっそり囁く。
「最近ね、あんたが李瑾様と“親しい”って噂があって……。
でも私は信じない。あんた、誰より真面目だったもの」
芙蓉は小さく笑い、「ありがとう」とだけ言った。
だが胸の奥には、言葉にできぬ痛みがあった。
(誰かのために一針ずつ、思いを込めて縫ってきた。
それでも……妬まれるのなら、私はどうしたらよいのだろう)
彼女は心の奥で問いながらも、手は止めなかった。
己の誠意を信じて、ひと針、またひと針――。
◆
その夜、針房にふらりと現れた李瑾は、芙蓉の肩越しに刺繍を覗いた。
「……また、見事な仕上がりだ。これでは妬まれて当然かもしれぬな」
「李瑾様……。お噂は、耳にしておられるのですね」
芙蓉は目を伏せる。だが李瑾の声は柔らかく、どこか優しかった。
「私は見ている。君がどれだけ努力しているか、どれだけ傷ついても黙って耐えているか……」
その言葉に、芙蓉は少しだけ息を呑む。
「私は君に“何か”をしてやれる立場ではない。
だが、“何もさせぬ”ことは、私にできる」
芙蓉の目に、一瞬だけ涙が浮かんだ。
けれどそれを見せることなく、彼女は笑った。
「……ありがとうございます。李瑾様」
それは、誰にも見せたことのない、静かで深い笑みだった。
◆
一方その頃――針房では、芙蓉の仕事に対する“査定”が秘密裏に行われていた。
上級妃の命による視察、そして皇后直々の観察。
芙蓉が噂通りの者か、それとも真に後宮に相応しき才女か――。
だが、彼女の手から生まれた衣の数々が語るのは、ただの一つ。
「この者は、心で縫っている」
その刺繍には、心があった。
嘘偽りのない、清らかでまっすぐな思いが。
そうして、芙蓉は静かに――噂さえも味方につけ、さらに上の階段を昇ろうとしていた。
陰に揺れる光を背にして、彼女の針は今日もまた、美しき物語を紡いでゆく。
日ごとに深まる秋の風が、後宮の池の水面を揺らす。
芙蓉は朝の支度を終えた針房で、今日も黙々と針を持っていた。
机の上には、先日から取りかかっている**“皇后様の冬衣”**が広げられていた。
真紅の錦に、牡丹と瑞雲をあしらった大柄の意匠。
その合間に織り込まれた細やかな刺繍は、目を凝らさねば見えぬほど繊細でありながら、見る者の胸に静かに残る。
それは、芙蓉の心そのものだった。
針房に控えていた女官たちが、その一針一針に目を奪われるのも当然で――
ある日、それを見た上級妃・華貴妃の目が、芙蓉に向けられることとなった。
◆
「……これが、芙蓉という者の作か」
華貴妃は扇で口元を隠しながら、皇后のもとでその衣を手に取っていた。
見る者を刺すような鋭さと、気品に満ちたその存在感は、宮中でも一目置かれる女性であった。
「針の技、魅せる技は見事ですね。だが……妙に“心”がある」
そう呟いた彼女に、皇后は静かに頷いた。
「そう。技術よりも、その“心”が、私は気に入っております」
「皇后様、あの者に次の春装の下絵を描かせてみてはいかがでしょう?」
「ふふ。貴妃様の方から、そう言われるとは」
「必要なものは才だけではない。気骨がなければ、宮中では生き残れませぬから」
皇后は微笑みを深めた。
「……ならば、試してみましょう。芙蓉に新たな刺繍の題を与えます」
◆
その話が芙蓉のもとに届いたのは、翌日の午後だった。
「皇后様より、次の“春の御衣”に使う刺繍の構想をお考えいただきたいとのことです」
伝令に来た女官の言葉に、周囲がざわめく。
芙蓉は目を瞬かせ、慌てて手を止める。
「わ、わたくしなどが……?」
だが返事を待たずに女官は礼をして去っていく。
残された女官や針女たちの中には、露骨に面白くなさそうな顔をする者もいた。
「やっぱりねぇ……。あれだけ噂になってたのに、結局は“上”に気に入られたのね」
その場にいた一人が、声を潜めながらも嫌味のように言った。
けれど、芙蓉はその言葉に顔を曇らせることなく、ただ深く頭を下げた。
「……お役目をいただけるのなら、全うするのみです」
◆
その頃――玉蘭は自室で、襖を閉めたまま鏡の前に座り続けていた。
「姉さまなんかが……また上に行くの?」
自分より遅れて女官見習いとなった姉が、今や皇后の衣を任されるほどに重用されている。
鏡に映る自身の顔を見ながら、玉蘭の目は徐々に暗くなっていく。
(私の方が、美しく、媚びも心得ているのに……どうして?)
帝から微笑みをもらった記憶。
声をかけられた宴の夜――しかし、あれは夢だったのではないかとすら思えてくる。
(姉さまが何もしていないように見えて、すべてを手に入れていく……!)
その想いは、妬みという形に変わり、やがて彼女の言葉や行動に滲み出していった。
針房に、芙蓉が皇后から下命を受けたと噂が立った直後、奇妙な風聞が広まり始める。
「芙蓉様って、昔は男と駆け落ちしかけたとか……」
「李瑾様との関係も、“女官”としてでは済まないって」
誰が言い出したとも知れぬその言葉たちが、針房の隅でささやかれ、やがて妃たちの間にも届き始めた。
◆
だが――李瑾は、誰よりも早くそれを察知していた。
「悪意ある噂が、芙蓉に向かっている」
部下の宦官からの報告に、李瑾は目を細めた。
「この手で刺繍を汚せる者など、私が許すはずもない」
静かにそう言い、彼はすぐさま幾つかの“手”を打ち始める。
針房の管理官に調査を命じ、さらに噂の出どころにも探索の目を向けた。
表には出ないが、李瑾の庇護がいかに強力かを、周囲は改めて思い知ることとなった。
そしてその動きに気づいた者たちは、次第に芙蓉に迂闊に近づくことを恐れるようになっていく。
それでも芙蓉は――何も知らぬように、淡々と刺繍に向き合っていた。
「春の衣に相応しい、華やかで、静かな命の姿……」
描くのは、雪解けに咲く早春の梅。
厳しさに耐え、最初に咲くその花を、芙蓉は己の姿に重ねていたのだった。
そして――その衣が完成する時、芙蓉の名は、後宮で確かな“位置”を得ることとなる。
◆
春の兆しが差し込む針房に、静かに緊張が走った。
芙蓉が刺した春衣の刺繍――雪の残る枝に、一輪、凛と咲く白梅。
その作品が皇后の御前に運ばれたのは、三日前のことだった。
その衣が「帝の目にも留まったらしい」と噂が広がった頃、突如として、針房に内務府の役人と、女官長の厳しい目が入った。
それは、完成した作品が引き裂かれ、さらには芙蓉の道具がおられてしまっていたからだ。
「この部屋で、“ある者”に対して故意に物が壊された形跡があるとの報告が入っている。刺繍の裂かれた衣や、折られた針……それらが意図的であったか否か、調べる」
女官長の声音に、部屋が凍りつく。
芙蓉は戸惑いながらも、何も言わなかった。
ただ静かに手を止め、頭を下げる。
調査は迅速に行われた。
そして、あまりにもあっけなく、「玉蘭」の名が浮かび上がった。
針房に出入りする別の見習いが、偶然目撃していたのだ。
「夜更けに誰もいないはずの針房で、布を裂くような音がして……のぞいたら、玉蘭様が……」
恐る恐る語ったその証言に加え、内務府の調査で玉蘭の私室からも不審な布切れが見つかり、証拠はそろった。
そして――
「このような行いが、皇后様の御衣に向けられていたとあらば……!」
激昂したのは、華貴妃であった。
芙蓉の技に目をかけていた彼女にとって、その刺繍が穢された事実は許しがたかったのだ。
「玉蘭。帝の寵愛を受けたという虚勢といい、今度は姉に嫉妬しての妨害か。恥を知りなさい!」
華貴妃の言葉に、玉蘭は蒼白になりながらも反論した。
「ち、違います……! 私はただ、姉さまが急に持ち上げられるのが不自然で――李瑾様と、特別な関係があると、そういう噂が……!」
「噂で人を陥れるのが正しいとでも? そんな下劣な心で、よくも後宮に残るつもりでいたものね」
麗妃も冷ややかに言い放ち、玉蘭の逃げ場はなくなった。
◆
その夜、針房では、芙蓉に対する陰口や冷たい視線が消えていた。
むしろ、言葉少なに近づいてきた同僚たちは、うつむきながらそっと頭を下げる。
「……すまなかった。疑っていた」
「あなたが黙っていたから……私たちも、勘違いを……」
芙蓉は首を振り、穏やかに微笑んだ。
「いえ。わたくしも、言葉を選ぶべきだったのかもしれません。ただ、針に向き合っていたい、それだけでした」
誰よりも傷ついていたはずの彼女が、誰よりも静かに、誇りを守っていた。
◆
玉蘭には罰が下った。
見習い女官の身分は剥奪され、労役として下位の部署に移される。
しかも、麗妃の采配により、“誰にも口を利くことを許されぬ”という処分がついた。
後宮にいて、誰とも言葉を交わせぬ苦しみ――それは、華やかさにしがみついていた玉蘭にとって、何よりも重い罰であった。
芙蓉の耳にその処分が入ったのは数日後のこと。
「……姉さまに伝えて。……。」
ひとことだけ、侍女を通じて伝えられた。
「ごめんなさい」と。
芙蓉は答えず、ただひとつ、刺繍の針を握りしめた。
自分が偉くなった訳では無い。
ただ、誰かを傷つけずにまっすぐに歩いてきただけ――
その道の先に、たとえ陽が射したとしても、振り返ることはしないと決めていた。
◆
遠くからその様子を見ていた李瑾は、ふっと目を細めた。
「……誰かを傷つけず蹴落とさずに登る者が、後宮に現れるとはな」
芙蓉の背中に、かすかに微笑を浮かべたまま、彼は静かに立ち去った。
それは、これから始まる本当の“戦い”の序章に過ぎなかった――。