10話針の先に咲く誉れ
針房に差し込む陽光は、夏の終わりを告げるようにやわらかだった。
芙蓉は、次に任された仕事に取りかかっていた。今度の依頼は「麗妃付き女官の持ち物の補修」――女官の装束とはいえ、それを管理する妃の名が“麗妃”と聞かされただけで、背筋が伸びる。
麗妃――帝の側室の中でも気品と教養で知られ、内後宮の采配にも口を出せるほどの地位を持つ上級妃。
その名が意味するのは、単なる「修繕」ではなく、“試されている”ということだろう。
「布は上質だが……細工は古いまま。補修でありながら、新しさも求められているのかもしれない...」
芙蓉は布を丁寧に整えながら、過度な華美を避けつつも、控えめな優雅さを出す色糸を選んでいく。
そして、縫い込むのは――「薄紅の牡丹」。豪奢なようで、咲くときの気高さと、枯れ際の静けさを持つ花。
(妃さまが本当に望まれるのは、品格に宿る美しさ――)
まるで静かな戦だった。刺繍が、言葉の代わりとなり、芙蓉の心の在り方を語ってくれる。
一針ごとに、自らの立ち位置を賭けるような思いだった。
◆
数日後、完成した装束が麗妃の元に届けられた。
芙蓉は付き従う女官の後ろに立ち、深く頭を垂れていた。
「ふむ……これは」
麗妃が布を手に取った。繊細に浮かび上がる牡丹の花を、優雅な指先が撫でる。
「本当にあのものが?」
「はい、芙蓉と申す者にございます」
しばしの沈黙ののち、麗妃がふと、芙蓉の方へ目をやる。
「顔を上げなさい」
芙蓉はおそるおそる顔を上げた。
そこにあったのは、厳しさと知性、そして微かな興味の混ざるまなざしだった。
「慎ましく、かつ大胆。牡丹を選んだ理由を問う」
「……はい、妃さま。牡丹は、華やかでありながらも、咲く時の気高さと、散る時の静けさを持つ花。
妃さまの御心を……お忍びながら、想像し、針に込めました」
麗妃の唇が、ほんのわずかに動く。
それは、誰にも見せぬ微笑だった。
「才を持ちながらも、控えることを知る者……よい。
その才、しばし私のもとで試してみましょう」
芙蓉の胸がふるえた。だが、顔には出さず深く頭を下げる。
「……ありがたき幸せにございます」
◆
その報せは、後宮中にすぐさま広まった。
下女から始まり、見習いとして地道に働いてきた芙蓉が、“上級妃に目をかけられた”という事実は、女官たちの間で波紋を呼ぶ。
中でも最も衝撃を受けたのは――玉蘭だった。
「麗妃様が……姉さまを?」
嫉妬という言葉では言い表せぬほどの、焦燥と屈辱が、胸の奥で煮えたぎる。
“私は、帝に選ばれた身だったはずなのに”
◆
その夜、芙蓉は針房で一人、次の仕事の準備をしていた。
そこにふと、気配なく現れた影があった。
「おめでとう、芙蓉」
李瑾だった。
「わたくしなど、まだまだでございます」
そう頭を下げた芙蓉に、李瑾はほんの少しだけ眉をひそめる。
「……謙遜も過ぎれば、己を貶める。君の針が示したのは、ただの技巧ではない。
人を思い、心を紡ぐ、それを“美”というのだ」
芙蓉は言葉に詰まる。
その時、ふと彼の視線が、まるで奥の帳の向こうを意識するように逸れたのを感じた。
――帝の存在が、常に自分たちの“上”にあることを、李瑾は誰よりも理解している。
芙蓉は気づかぬふりをしながらも、李瑾の言葉の端に宿る感情の揺らぎに、何か切ないものを感じていた。
◆
そして数日後。麗妃の使者が改めて針房を訪れた。
「芙蓉、麗妃さまより御用がある。今後しばし、妃さまの御衣の管理を任されるようにと」
芙蓉は再び、深く頭を下げた。
――自分が選ばれたのは、たまたまではない。
少しずつ、その実感が針の先から伝わってくるようだった。
彼女の“手”は、ついに後宮の中心へと届き始めていたのだ。
麗妃の衣装係として任命されてから、芙蓉の毎日はさらに忙しくなった。
朝から晩まで布と針に向き合い、時には妃付きの女官に直接話を通すこともある。
その姿は、かつて洗濯場で黙々と働いていた彼女と同一人物とは思えぬほど、気品と自信に満ちていた。
その変化を――玉蘭は、遠巻きに見ていた。
(姉さまが……妃付きの仕事? 冗談じゃない)
玉蘭はかつて、自分こそが帝の寵愛を受ける存在と信じていた。
だが、近頃は帝の視線すら遠くなり、気づけば姉の噂ばかりが耳に入る。
「芙蓉という子、腕が良いそうよ」「麗妃様が指名したとか」「李瑾様もよく顔を見せているらしい」
まるで、芙蓉こそが正統な“選ばれし者”のように扱われている。
その現実に、玉蘭の心はひび割れていく。
◆
「最近……針房の芙蓉さんって、昇進が早すぎると思わない?」「もしかして、宦官様と……?」
誰が言い出したかもわからない噂が、徐々に広まっていった。
芙蓉が密かに色香で男たちをたぶらかしている、という陰湿な内容だった。
誰も正面から責めることはない。だが、通りすがりに何かを囁かれたり、仕事の布がこっそり汚されていたり――
そうした“静かな刃”が、芙蓉の日常を切り刻み始めていた。
(……私に、思い当たるようなことがあるのだろうか)
芙蓉はそれでも表情を変えず、黙々と仕事に励んでいた。だがその背中に、ひたひたと忍び寄る影があることに、彼女はまだ気づいていなかった。
◆
一方、李瑾の耳には、その異変がすでに届いていた。
「……芙蓉のまわりで、不穏な空気があると?」
影のように後宮を巡る若い宦官が、李瑾に耳打ちする。
「はい。針房の道具が荒らされていたり、根も葉もない噂が流れています。背後に誰がいるかは、まだ……」
李瑾は静かに目を伏せた。
そして、仄かに口元を歪める。
「愚か者だ。陽の光の下では、誰も真実を見ない。
だが――闇の中の手は、必ず私が見つけ出す」
◆
その夜、芙蓉が針房で遅くまで作業していると、李瑾がふらりと現れた。
彼の姿に、芙蓉は少し驚いたように顔を上げる。
「こんな夜更けに……お疲れ様です、李瑾様」
「遅くまで残って、偉いものだ。君は、変わらないな」
「……いいえ、変わりました。あの頃の私なら、こんなふうに皆から噂されて、耐えられなかったかもしれません」
芙蓉の目に、かすかな痛みが浮かぶ。
「でも今は、自分の手でできることがある。それだけで、前を向けます」
李瑾はしばし黙って彼女を見つめていたが、やがてそっと言った。
「……私もまた、君のその強さに救われているのだろうな」
芙蓉は、何か言いかけて――そのまま口をつぐむ。
その沈黙の間に、確かに何かがあった。
けれどそれは、まだ名のつかぬ、透明な感情だった。
◆
数日後、玉蘭の周囲で不思議なことが起こり始めた。
内侍所からの使いが彼女を呼び出し、質問を浴びせる。
「誰が芙蓉の噂を流しているのか」
「なぜ女官の道具に細工がされていたのか」
玉蘭は、何も知らぬふりをした。だが、その口ぶりに隠しきれない動揺がにじむ。
そのやり取りを、少し離れた場所から李瑾は見ていた。
(君の心が闇に堕ちようとも――私は、芙蓉を巻き込ませはしない)