187)ザカリーの心のケジメ
電気エネルギーというものは、ハワドウレ皇国の皇都イララクスにある特別地区ハーメンリンナと、皇都の一部の施設でしか使われていないものだった。
しかし皇都のインフラ整備が進み、皇都全体で電気エネルギーが普及し始めた。
まだ試運転状態なので本格稼働ではないから、使用料金はちょっと普通の家庭では負担が大きい。いずれ供給が安定すれば、値段も下げ、皇都以外の地域でも運用できるようになる。
この電気エネルギーを使って、とても便利なものが増えた。
電話である。
ライオン傭兵団のアジトにも電話線が引かれ、建物のいくつかに電話が置かれている。
みんなで共有できる玄関フロアの電話と、もう一つ電話部屋というものが作られた。ソファ1個と電話機の置かれたテーブルがあるだけの狭い部屋だが、プライバシーを尊重したい会話をするときなどに、と作られた部屋だ。
電話部屋にこもって10分が過ぎ、ザカリーは眉を寄せて顔中に汗をかきまくっていた。
小窓から明るい陽射しが注ぎ、汗はキラキラと輝く。
意を決して何度も受話器に手を伸ばすが、その受話器を持ち上げることもなく手を引っ込める。
もう何回その行為を続けたのか記憶に残らないほど、ザカリーは繰り返していた。
「ちょっとザカリー、そろそろ買い物へ行く時間だぞ」
ペルラが呼びに来て、ザカリーは思わず腰を浮かせながら焦りの顔をドアに向ける。
「お、おう!」
返事をして、もう一度座り直した。
(やべえ、早くしねーと…)
今度こそ意を決して、ザカリーは受話器を持ち上げると、ヴィーンゴールヴ邸の電話番号を回した。
「はい、こちらヴィーンゴールヴ邸でございます」
穏やかな老紳士の声が受話器から聞こえてきた。
「あ、あの、もしもし、ライオン傭兵団のザカリーっす」
「こんにちは。どのような御用件でございましょう」
「えっと、キューリいるかな…」
「はい、お嬢様へお繋ぎ致しますね」
「ありがとっす」
切り替わる音がして、コール音が鳴る。
暫くして繋がった。
「はーい、もしもし」
「あ、お、おっす」
「ザカリー? なんか用事なの?」
淡々としたキュッリッキの声に、幾分か頭が冴えてきた。
「うん、あのよ、今夜ヒマか?」
「夜? 何時頃?」
「そうだなあ…、21時っくらいはどうだ?」
「晩ご飯のあとかあ。別にイイケド、夜出歩くと、昼間以上に軍人さんたちのパレードやらアリサ付きになるけど」
「う…」
キュッリッキは気軽に一人で遊びに行けない身分となっているのだ。
「じゃ、じゃあ…邸の中でいいか…」
「そう、判った。じゃあザカリー来ること外の軍人さんたちに伝えておくね」
「頼む、じゃ」
「ばいばい」
受話器を置いて、ザカリーは深々とため息をついた。
本当はどこか2人っきりになれる場所で、ゆっくり話をしたかった。でも今のキュッリッキには多くの護衛がついている。護衛ナシで動くには、メルヴィンかアリサと一緒が最低条件だ。
邸の客間のどこかで話をする、で妥協することにした。
時間にヴィーンゴールヴ邸に着くと、最低限の検めだけで通された。
「いらっしゃい」
キュッリッキとセヴェリが出迎えてくれた。
「おう、メルヴィンは?」
「書斎にいるよ。メルヴィンも呼ぶ?」
「い、いや、いい。話があるのはキューリにだから」
「じゃあ、アタシの部屋に行く?」
「スモーキングルームでいいよ。――結婚前の女子の部屋に、別の男入れるのマズイだろ」
「そういうもん?」
「そういうもんだ」
「そうなんだ」
「その程度は、ちゃんと覚えとけ…」
「ぬぅ…」
「ではスモーキングルームへ、お茶をお運び致しますね」
兄妹のような会話に、クスクスと笑いながらセヴェリが言う。
「はーい。じゃ、行こ」
「ああ」
「アタシに話ってなあに?」
セヴェリが紅茶を淹れて置いたあと、キュッリッキは話を切り出した。
ザカリーは退室していくセヴェリを目で追いながら、複雑な表情を浮かべ、顔を赤らめる。
「オレがお前のこと好きなの、知ってるよな?」
「うん」
無感動な表情の即答に、ザカリーはゲッソリと肩を落とす。
目の前の少女に、本気で恋をした。
初めてライオン傭兵団へやって来た日、そのあまりにも美しく愛らしい姿にドキドキした。
金色の髪に透けるような白い肌、大きな瞳は不思議な色の煌きをまぶした黄緑色。痩せすぎてほっそりしすぎる身体、表情がくるくる変わって可愛かった。
うっかり彼女の秘密を覗き見てしまい、そのことで喧嘩をして、大怪我を負わせる切っ掛けを作ってしまった。
あまり良いスタートではなかったが、本気で好きになり、心に深く焼きついてしまった少女。
しかし今では仲間のメルヴィンに先を越され、2人は来週結婚式を挙げる。
キュッリッキの心が自分に向いていないことは承知している。それでもずっと好きだったから、素直にメルヴィンとの結婚を祝福できない。
どっから見ても失恋なのだが、まだキュッリッキ自身から引導を渡されていない。
2人の門出に、そして、自分自身の門出のためにも、キュッリッキから引導をもらわなくてはならないのだ。
「えーっと……でだなあ…そのお…」
「うん」
「だからその…」
「うん」
「いや、その」
(ああああオレしっかりしろよっ!! もう来週にはメルヴィンと結婚しちまうんだぞ! その前にオレは…オレは…)
「アタシが好きなのはメルヴィンだよ」
「!」
ザカリーの胸中を見透かしたように、キュッリッキは落ち着いて言った。
「アタシのこと好きでいてくれて嬉しいけど、でも、アタシはメルヴィン以外の男の人を、友達や仲間以上の好きにはならない、絶対に」
一切の迷いのない目、そして声。
ベルトルドやアルカネットという、強大な障壁を乗り越えて結ばれた2人は、もう何があっても迷わずお互いを愛し続ける。そこにザカリーが立ち塞がっても、2人を阻害することはできないのだ。
そんなことは、ザカリー自身も判っている。しかし、ザカリーは唐突にテーブルをまたいで、対面にいるキュッリッキをソファの上に押し倒した。
「オレじゃダメだったのか?」
怒りでもない、戸惑いでもない、悲しみとも違う。いろんな感情を混ぜ合わせた表情で、眉一つ動かさないキュッリッキを見おろす。
「オレじゃあ、お前を幸せにはできないってのか?」
キュッリッキはジッとザカリーを見上げ、そして、
「いでっ!」
バチーンと室内に響くほどの平手打ちを、ザカリーの顔面に炸裂させた。
ザカリーは身体を起こしてソファの上に座り、赤く腫れる鼻を摩る。
「幸せに感じるか感じないかは、アタシの問題だもん」
キュッリッキもソファの上に座り込むと、ザカリーをキッと睨む。
「ザカリーとは翼を見られたことで喧嘩して、アタシに好意を向けてきてるの判ってたけど、仲間以上の感情が出てくることはなかった。ベルトルドさんとアルカネットさんも露骨に出してきてたけど、やっぱり父親以上には思えなかった」
その頃のことを思い出し、キュッリッキの顔に寂しさが過ぎった。
「大怪我してこの邸に来てからね、メルヴィンとルーさんの2人がそばにいてくれて、最初はメルヴィンに恋してなかった。でもね、なんか突然恋しちゃってた。ルーさんのほうがずっと親密だったのに、真面目に一生懸命だったメルヴィンを好きになっちゃった」
「……」
「そこにザカリーがいたとしても、やっぱりザカリーに恋はしなかったと思う」
「そか…」
「あんまりよく判んないけど、運命?の出会いっていうのが、アタシにはメルヴィンだったんだね、きっと」
「じゃあ、よ、お前の翼を見なかったら…オレにも脈はあったのか?」
「判んない」
「おぃ」
「判るわけないでしょ! そういうパターンなんて、どうなるか想像つかないもん」
「まあそうだけど…」
「そういうこと想像するとき、自分に都合のいい想像をするから、もしも、なんてアテにもならないんだから」
「だよね…」
「アタシにフラれにきたんでしょ、ザカリー」
にんまり笑むキュッリッキを見て、暫し目をまたたいたあと、ザカリーはヤレヤレと苦笑を漏らした。
「そうだよそうだよっ! 来週のお前らの結婚式で、ちゃんと祝えるようにケジメをつけたかったんだ、オレ!!」
降参!っとザカリーは大袈裟に両膝を叩く。
「アタシのこと好きになってくれて、ありがとね」
「すぐにはお前への恋は消せないけど、消していけるよう前向きに頑張るわ、オレ」
「アタシより素敵な女の子、見つかるよ!」
「無責任な保証すんなや…」
「車で送らなくていいの? もう乗合馬車通ってないけど」
「ああ、天気もいいし、星でも見上げながら歩いて帰るわ」
「そっか。じゃあおやすみ」
「おう、おやすみ」
そう言ってザカリーは邸をあとにした。
舗装された石畳の道を歩きながら、ザカリーは星空を見上げる。
あいにく星座の名前は判らないが、今夜の星はとにかく綺麗だ、と思った。遠隔武器スキル〈才能〉を持つザカリーの視力は、ありえないほど遠くのものを見通せる。天空に輝く星は、誰よりも大きく見えていた。
メルヴィンにドギマギしていた頃のキュッリッキの姿を思い浮かべ、そして今のキュッリッキを重ねると、心が大きく成長したのだと判る。
もう少女ではない。オトナの女、なのだ。
「ちっくしょ~~~! メルヴィンのクソバカ運良すぎ幸せモン野郎!!」
星空に向かって、ザカリーはそう怒鳴り声をぶつけた。