王を記す少女の手
※単独の短編として構成していますが、長編「封じられた姫は覇王の手を取り翼を広げる」と同一世界観、同一キャラクターです。
師は言った。
ある国の言葉で歴史を“history”という。
“his”とは「彼の」、“story”とは「物語」を意味する。つまり、歴史とは「彼の物語」であり、そこに“her”「彼女」はいない。
さて人々はいつ気づくだろう。
この長きに渡る物語に「彼女」が不在であることを。
* * *
――ですからその地では火を尊び火を崇めるがゆえに、火を汚す火葬なるものは執り行われないのです。
――死者の肉体は高い塔の上に捧げられ、空をゆく鳥に啄まれて鳥とともに天へと還るのです。
豪奢な花嫁衣装に身を包んだマフーは、かつて教師が口にしたその言葉を思い出して唇をかみしめていた。
灰青色の瞳で睨みつけるは、突き抜けた蒼穹。
ここは火を信仰する土地で、マフーは遠路はるばる嫁いできた身。この地で生き、この地で死ぬのであればおそらく肉体は空へと葬られるのであろう。
(私は生きながら死しているも同じ。望まぬ初夜を迎える前に、鳥よいっそこの身に舞い降りて、喰らい尽くしてしまえ)
父は小国の王、母は後宮住まいの妃のひとり。生まれたそのときから高貴な血筋であると傅かれ、不可侵の後宮の姫として多くの宦官に見張られて過ごしてきた。
蝶よ花よ――
十四才で嫁ぐまで、ろくに成人男性を目にすることもなく育ってきたマフーに対し、結婚を命じた父王は言ったのだ。
――後宮で生みだされた商品としての王族の姫には、需要がある。出荷のときだ。
マフーはお気に入りの娘のひとりだと常々言われ続けてきたが、その意味がつまりそれだ。
かくして、五日も続く後宮での宴を経て、護衛と後宮出身の女兵士に守られて乾いた道を辿って着いた先は、オアシス都市の豪商の屋敷。
都市の門まで迎えにきていた馬車に乗せられ、歓迎の花火の中、屋敷に着いてからは好奇の目に晒された。ヴェール越しに感じる「値踏み」の視線。
一方で、夫となる一歳年下の相手は頼りないほどの子どもであった。
出迎えもそこそこに、マフーに対してろくに興味を示すこともなく、あくびまじりに言い放った。
「今日は客が多くてね、僕の友達もたくさん来ているんだ。あちらで遊んでくるから君も好きにしていいよ」
(たとえ定められた結婚とはいえ、この日より生涯を共にする私を捨て置き、ご友人との遊興を選ぶというのですか。あなたの冷たい仕打ちを私は決して忘れません。いかにあなたが今後、私に歩み寄ろうとすることがあっても、私はあなたになど関心が無いという態度を貫くことでしょう)
マフーはヴェールの下で唇を震わせた。教養ある高位女性はいかなるときも動じぬようと教育されてきたため、不満を口にすることなく頷くにとどめたが、夫となる相手へ抱いた怒りや憎しみが消せないことはもはや明らか。「その程度のこと、姫様におかれましては寛容さを忘れぬよう」などと諫める者があれば、マフーは決して許しはしなかっただろう。
故郷を離れ、見知らぬ土地で寄る辺ない思いをしている伴侶に対して、あまりに惨い。
搾取される側は常に、許すことばかりを求められる。
憤りをあらわにする術を知らぬマフーは、せめてもの反抗とばかりにさっと席を立ち、誰にも気づかれぬうちに屋敷の庭園へと向かった。花嫁への関心はあっさりと失せていたようで、見咎められることもなかった。
初めての場所、道順など知らない。ただ、ひとのいない場所へと向かう。
回廊で幾人かの使用人とすれ違い、衣装によってもしやと勘ぐられた節はあるものの、それゆえに彼らはマフーに声をかけ呼び止めるのを躊躇った。
虐げられた弱者なのだと悔し涙するマフーよりもまだ、彼らの立場は弱い。迂闊に貴人の不興を買い、打擲されることを恐れて目を伏せる。
さすがに財にものを言わせて王国の姫を求めただけあり、屋敷の作りはどこもかしこも趣向が凝らされていた。マフーは、青のタイルがはめ込まれた敷石を踏みしめて、ナツメヤシが植えられ薔薇の茂る庭へと向かう。
涼やかな水の音は、瀟洒な石造りの噴水から。
日照りの地で、客人を通さぬ屋敷の奥にこのような設備を持つのが、どれほど贅沢なことか。
ヴェールを剥ぎ取り、薔薇に手を伸ばす。棘に刺されて血を流し、息絶えてしまいたい。
取るに足らぬ願いは、決して口にすることなどない。
(居場所がないと悲観的になったり、死んでしまいたいと愚かな考えに取り憑かれるのは、心が弱っているせい。毅然とあらねば。私は望まれて嫁いできた身。ここで生きていかなければならないのだから……)
それでいて、薔薇の棘を探るのはやめられない。血と痛みを求めて柔らかな指の先を刺し貫いたとき、すうっと胸のすく快感があった。真綿に包んで育てられた大切な商品に、自分の意志で傷をつけたのだと。
ぽとり、と指から真っ赤な血が叢に落ちる。
ふと、男たちの騒がしい声が近づいてくることに気づいた。
どこからと見回したとき、がさりと茂みが鳴る。そちらに注意がひかれているうちに、背後に物音。
振り返った視線の先、回廊を外れて姿を見せたのはいかにも酒に酔った赤ら顔の男が四、五人。囲まれた、という危機感でマフーは固まってしまったが、男たちは何がおかしいのか笑い声を炸裂させた。
「これは美しい、どこのお嬢さんか」
「花嫁衣装のようだが」
「花嫁がこんなところにいるものか」
「しかしそれではなぜこのような大仰な衣装を」
「知るか、この屋敷の大旦那の愛人か、物見に遊びに来たどこぞの娘だろう」
からかい混じりに言われ、言葉もなく青ざめたマフーに対し、男の一人が手を伸ばしてくる。
「さて、跳ねっ返り者のお嬢さんとちょっと遊んでみようか」
逃げる間もなく手首を掴まれて、強く引き寄せられた。酒臭い息を吹きかけられる。
この者たちに畏れや禁忌はなく、この行為を止める気はない、と悟った。
「やめ……」
頬を引き攣らせてマフーはか細い悲鳴を上げる。
「何をしている」
そこに、乾いた声が響いた。
* * *
そもそもマフーは、男性に耐性が無い。知らないのだ、文字通り。
いざ婚礼に向けて旅をすることになって初めて、護衛等の男性を見る機会はあったが、ろくに話したこともない。
女性のものとは違う低い響きの声を耳にするだけで、不思議に新鮮な気持ちになる。
噴水の向こう側から現れたのは、すらりと背の高い青年。頭部に巻き付けた白い布から白金色の髪がこぼれて肩にかかっている。切れ上がった瞳は、見間違えでなければ金色。細面に通った鼻梁、かたちの良い唇。無表情に凪いだ面差しは、目を引くほど精巧に整っていた。
「何をしているも何も……」
男の一人が笑いながら答えて、他の男たちはどっと笑った。
「そちらの女性は、若君の花嫁では? みだりに触れて良い相手ではないとお見受けするが」
青年は顔色を変えることなく、よく透る声で淡々と話す。厚みと張りのある発声で、その気になれば大勢に呼びかけることも可能な支配者の声に思われた。
マフーはそういった声の持ち主を知っている。父王だ。
「さて、主役である花嫁が、どうしてこんなところにひとりで。なぁ、あんたもそうは思わないか」
「まずはその手を離すように。男が何人も寄ってたかって大声で笑っていては、さぞや怖いことだろう」
多数の男を前にしても飄々とした口ぶりのまま、青年は歩を進めてきた。身にまとっているのは灰色がかった簡素な旅装であったが、その所作は後宮育ちのマフーの目にも品の良さがにじみ出て見える。
「離せだと?」
わずかの距離まで詰められ、マフーの手首を掴んだ男はすごむように言った。青年は眉のひとつも動かすことなく、答えた。
「血が出ている」
ひとりの男が青年の背後に気配を殺して回り込む。マフーが警告する間もなく、振りかざしたナイフをその首めがけて振り下ろした。
風のように。
青年は音もなく滑らかに動き、ナイフをかわした。流れのまま肘を食らわせてその場に男を沈める。
やはり一切表情を変えることなく、今一度言った。
「血が出ている」
あっ、とマフーは息を呑んだ。
(この血は、先程私が自分で傷つけた……!)
決して乱暴狼藉によるものではないのだが、事情を知らぬ青年の目にはどう映ったのか。青年は最低限の所作で踏み込み、マフーの手首を掴んでいる男の腕に手をかけ、強くひいた。ずるり、と指が外れる、その勢いのまま男の体は青年に跳ね飛ばされる。ものの見事に、薔薇の茂みへと頭から。
「お前っ」
残りの男たちが色めき立ったのと、いまひとりの少年がその場に走り込んできたのが同時。
「主! 問題を起こすのはおやめください!」
「問題など起こしていない。ここでは何も起きていない」
「そうやって、すぐにもみ消そうとする……!」
青年同様くたびれた旅装に身を包んだ少年が、非難がましく叫ぶ。青年は、そこではじめて口元をほころばせ、笑った。
「ミルザ、物事は正確に。もみ消そうとしたのではない。今からさせようとしているんだ、お前に」
「あっ……主は、本当に……!」
あれほど表情に乏しく見えた青年であったが、微笑みのひとつでがらりと印象が変わる。
それは決して目を焼くことがない光のよう。同時に、ひどくまぶしい。直視し難いのに、引き寄せられるものがあり、目を逸らすこともまた難しいのだ。
畏敬めいたものを覚え、マフーは目を細めた。それは少年も同じなのか、ふくれっ面ながらも青年の横暴な物言いをすでに受け入れたような顔をしている。
「せっかく大旦那様に渡りをつけ、商談を取りまとめようというときに……」
「そうは言っても、ここで倒れている男たちはただの酔っ払いだ。飲みすぎて『ねんね』しているのだろう。それとも、俺が何かしたと?」
愉快そうに口の端に微笑を湛え、青年が辺りを睥睨する。何気ない仕草であったが、奇妙に凄みがある。それが決め手になったとばかりに、男たちまで黙り込んだ。
静まり返ったことに満足したように、青年はマフーに視線を向けてきた。
「姫君。手当ては必要であるか。せっかくの衣装に血がついてしまうだろう」
「こ、これは……。良いのです。痛いわけでは」
指の出血が彼の目に入らぬようにとマフーがかばう仕草をすれば、青年は深追いすることなく頷いた。
「左様か」
長い睫毛を伏せ、青年は少年の元へと歩いて行く。
あまりにも呆気なく立ち去ろうとするその後姿に、マフーは思わず両方の拳を握りしめて「あのっ」と叫んだ。
声は情けないほど上ずって掠れていたが、青年と少年は同時に振り返った。
すでにその表情からは笑みは消え失せ、現れたとき同様超然として近寄り難い印象にすり替わっている。そういった彼にまつわるすべてが、只者ではないという事実を示しているように思われた。
ここで見失えば、おそらく二度と出会うことはない相手だ。
戯れに人の姿をとった風、或いは目に見えない翼を持つ者。大空に輝く太陽。
マフーの心の奥底で、コトリと何かが動いた。それは自覚もできないほど小さな感覚であったが、焦燥を掻き立てるには十分で、マフーは再び叫んだ。
「お名前を、教えてくださいっ」
(はしたない願い、でしょうか。でも私は……)
青年は、小さく頷いてマフーの目をまっすぐに見つめ、素早く名乗った。
「ラムウィンドス」
* * *
その夜、顔を合わせた夫はいかにも眠そうな顔をしていた。
年齢も年齢であり、結婚は形式的なことと合意がとれているためか、床を共にする空気は初めからどこにもなかった。
「遊技盤でひと勝負しますか」
いかにも付き合いという態度のまま、夫が誘いかけてくる。
すでに何一つ期待を持っていなかったマフーは、余裕をもった微笑みで応え、優しく言った。
「お疲れでしょう。おやすみください」
「そうですか。ではお先に失礼します。あなたもどうぞ休んでください」
ほっとしたように、夫は寝台へと向かう。
呼び止める気も起きない、小さな後ろ姿。その背を見ながら、マフーはお節介な使用人に耳打ちされた噂話が真実であると悟る。若君には好いた相手がいるのですよ、と。
(せめて夫が私にもう少し興味を示してくれたら……。優しい言葉をかけずとも、どこの誰とも知れぬ好いた相手とやらよりも、容貌だけは優れているとでも認めてくれたら)
自尊心はわずかなりとも、満たされただろう、か。
ぐるぐると思い悩みそうになり、くだらぬ未練とマフーは思考を断ち切った。
最初から折り合うことのなかった夫は、この先もマフーを大切にすることはないだろう。その日々に、自分は耐えられるとも思えない。それはまさに、生きながら死ぬこと。
「高値で出荷された商品としての人生に終わりを。マフーはこの夜死にます」
手当てを拒否し、洗い流しただけの指先の傷跡にもう一方の手で触れながら、口の中で小さく呟く。
滞りなく婚礼を済ませたことで、すでに自分を育てたくれた国への勤めは果たした。そして、二度と故国に帰らぬことは先からの決定事項。
(この上は、屋敷の奥で暮らしていると偽り、機会を見て病で死んだことにでもしてください)
絨毯に腰をおろしていたマフーは、衣擦れの音すら最小限に、立ち上がる。
多くのことを禁じられてきた。
この日々に終わりを。
昼間、ほんの短い時間だけ出会った、光。
マフーは恋というものを知らなかったが、自分がすべての禁を破ってでもあの光を求めていることには気づいていた。
約束された生活を捨てるのは愚かなことである。許されぬことである。無念のうちに死んだ数多の亡霊が、手を伸ばして足に絡みつき、引きずろうとしてくるのを感じている。多くの女性たちが耐えてきたこの束縛から、あなただけが逃れるなど、あってはならないと。
怨嗟の幻聴。耳の奥で響く恨み節を振り切れぬまま、マフーは部屋を抜け出した。
書き残されることなく、それゆえに口伝によって教えられてきた女性の生き様。歴史であって歴史とはみなされなかった永の日々。そこで生きた人々。
彼女らが言う。
“私たちにはそんな生き方許されなかった”
(私たちはそこから前に進まなければいけないのではありませんか。自分の娘やその先の世代に「無味乾燥な日々にわずかの楽しみを見出し、耐えて工夫すればやり過ごせる。女とはそうやって生きるもの」と言い聞かせるのではなく。百年後の女性が今と変わらぬ生き方をしていれば、それは喜ぶことではなく、嘆くこと)
「あなたたちはまだそこなのですか。世界はまだ、“her story”を紡ぐことはないのですか」
その思いを抱きしめて、マフーはひた走る。
* * *
回廊から庭へと出て、事前に確認してあった客人の宿泊部屋へと外から向かう。灌木に足を刺されながら、開かれた木の格子窓にそっと近づいた。
淡い光が暗がりに漏れており、話し声が聞こえてくる。
「さて、困りましたよ主。これは全方位、申し開きができない」
「申し開きが必要か」
「それはそうです。今宵、初夜を迎えるはずの花嫁が主の元に忍んで来てしまったんです。屋敷中の兵を差し向けられても文句は言えません」
「問題ない。応戦する」
「問題しかないです。戦って勝てるからって、良いわけじゃないですよ。ああもう、普段はあんなに理知的なふりをしているくせに、主はどうしてこう、口を開けば戦闘狂……」
(気づかれている……)
会話内容からして、すでに自分の存在には勘付かれているようだった。隠れているのは無駄と、マフーは窓から身を乗り出す。
部屋をのぞきこもうとしたところで、目の前にぬっとミルザ少年の顔が現れた。
鼻先が触れ合うほどの距離。
「わっ」
悲鳴を上げて慌てたマフーに手を伸ばし、腕をひっつかんで部屋の中へと引きずり込む。
「目立たないでください。騒ぎに……」
ため息交じりのその声には、すでに諦念が滲んでいた。
光の灯された室内を見渡せば、昼間出会った青年ラムウィンドスがあぐらをかいて絨毯に座っている。マフーが目を向けると、金色の瞳で見つめ返してきた。
「何用か」
マフーは焦って答えようとしてから、大きく息を吸って、吐き出した。常と変わらぬ落ち着いた声で答えようと、一呼吸置いてから答える。
「あなたは旅人なのだと聞きました。高貴な身の上で、地方の有力者のもとをまわっていると……」
ラムウィンドスは何も言わない。怯みそうになりつつ、マフーは拳を握りしめて一歩踏み出した。
「私も、その旅に、同行を……」
「過酷だ。おそらく、姫君はいくらもしないうちに死ぬ。そうまでして求めたいものが何かあるのか」
回りくどく、無駄なことは聞かず、言うつもりもないらしい。
マフーもまた、簡潔な言葉を求められていると察する。
「あなたは、何か大きなことをなさる方なのだと思いました。歴史を、変えるような……。私はそれを見てみたいのです」
「見てどうする」
「そ、それは……。書き記したいのです。女の手によって、この時代起きたことを後世に残すことには意味が。あなたのそばにいれば、それができそうな確信があるのです。あなたは、きっと王の器」
ああ、そうだ。それこそが自分の使命だ。
その思いからマフーは言葉も強く言い切ったが、依然としてラムウィンドスの表情に変化はない。
(私の熱意は、通じない……。なんと言えば……)
「私の……、私の師が言っていました。“歴史”は男の手によって作られていて、女性は不在を強いられてきたのだと。ある国の歴史という言葉には“彼の物語”という意味があって……」
早口に言ってはみたものの、あまりにも無反応過ぎて、マフーはそこで絶句した。
やがて、マフーが完全に戦意喪失したとみたのか、ラムウィンドスはついに唇を開いて言葉を紡いだ。
「あなたの師は浅慮である。もし“history”を例にあなたにそのように教えたのであれば、それは言葉の持つ本来の意味を歪めていて、正確さに欠ける。ただ己の思いを学問にかこつけてあなたに吹き込んだだけだ。しかし、歴史に女性が軽く扱われてきたという無念も、無視できるものではない。あなたがあなたの人生を生きたいと婚礼の夜に決めたことも、俺は否定しない。そう考えるようなことがあなたの身にあったのだろう。その上で俺個人の考えを伝える。俺のそばで歴史の変化を見るとして、それを女の手によって書き記すことと強調することに、意味が?」
静かに切り込んでくる口ぶり。マフーは何も答えられない。
重ねて、ラムウィンドスが言った。
「俺を説得するほどの根拠が?」
(試されている……!)
口の中がからからに干上がっている。彼を王の器だと思った。彼のそばにいれば何か歴史の転換点を見れるのではと愚考した。そんな他人に寄りかかっただけの甘ったれた発想で、男から女の手に歴史を取り戻したいなどと、よくも口にできたなと。彼本人に向かって。
マフーはしおれたように肩を落として、答えた。
「私は未熟です。世界が狭く、あなたのようなひとを見たことがなくて、どんな理由をつけてでもついていきたいと。わがままを言うだけの」
飾らぬ言葉で、正直な思いの丈だけを伝える。
ラムウィンドスは、不意に、本当に優しげに目を細めて微笑んだ。
「俺は未熟な人間の未熟さを責めようとは思わない。好きにするが良い。死なないようにだけ気をつけろ」
背後で、ミルザが「ええ~~」といまいましげに叫ぶ。
呆然としているマフーの眼前で、ラムウィンドスは「そうと決まれば出立しよう」と立ち上がる。
「追手かけられそう。主はなんてことを決断してくれたんだ……」
ぶつぶつと言いながら、ミルザは部屋に置かれていた衣装箱を漁りはじめた。
マフーは、水差しから手ずから杯に水を注いで飲んでいるラムウィンドスに向かい、「ありがとうございます」と精一杯の礼を述べた。
おそらく、彼に恋をしていると自覚した。
マフーはこの先それを口に出すことはないと予感していたが、そばにいられるのであれば構わなかった。
後年、その時代をたしかに動かす王たる青年に付き従う、「書記」の少女。
歴史家として名を残す彼女と王の出会いの夜であった。
※最後までお読みいただきありがとうございました。
※historyの解釈は作中のものです。語源として正確さを欠きます。作者の考えはラムウィンドスに近く「言葉の意味を、男のものだ女のものだと決めつけて歪めようとする姿勢には恣意的なものを感じるので、思想的な根拠として使うのは好まない」です。
※あらすじ・まえがきに記載の通り別作品のスピンオフ作品です。ラムウィンドスは本編のヒーローであり、マフーの初恋は成就しません。