誓いの口づけ
「あー、メグ?すまないが、そんなにじっと見つめないでいてくれないかな?口づけしにくいから」
皇太子殿下は、真っ赤な顔で言いにくそうに言った。
「あ、すみません。じゃあ、どこを見ればいいですか?」
「閉じるのです」
すぐ近くから神の、いえ、レナウトのささやき声がきこえてきた。
「瞼を、瞼を閉じて」
続けられた彼のささやき声。
小説の口づけのシーンでも、たいていは女性は瞼を閉じる。その描写を読むたび、いつも軽い失望感を覚えてしまう。
だって、ちゃんと自分の瞳に焼き付けておきたいじゃない。はじめての口づけだったらなおさらよ。
相手がどんな表情でどんなふうに唇を重ねてくるのか、しっかりと見ておきたい。
わたしに双子の兄たちのように絵心でもあれば、その様子を絵にしたいくらい。
「どうしても?どうしても、ですか?」
皇太子殿下とレナウトに尋ねた。
「そういうものなのです。神だって女神にじっと見つめられたら口づけしにくいはずです」
レナウトが即座に返して来た。
なんてこと。神ですら見つめ合ったままだとやりにくいと言うの?
口づけする側だけ相手を見ることが出来るって、ちょっと不公平じゃない?
だけど、このままだとただのわがままよね。
なにせ、終身雇用の身ですもの。皇太子殿下が以前と同様雇用主であることにかわりはない。
出来るだけ雇用主のご要望にそうことが、被雇用者の務め。
「わかりました。瞼を閉じます。さあ、どうぞ」
瞼を閉じることに集中した。体中の力を瞼に込め、ギューッとギュギュギューッとこれでもかというほど瞼を閉じた。
「あ、いや、そこまで閉じなくとも」
またレナウトのささやき声がきこえてきたけど、それはきこえなかったことにした。
もったいぶった時間が長かったわりには、口づけはあっけなかった。
皇太子殿下の唇がわたしのそれをサッとなでるくらいだった。
多くの小説の口づけのシーンでは、女性はいろんな気持ちや感覚を抱く。
甘いだの辛いだの、しびれるだのジーンとくるだの……。
それを読んでも、フーンとしか思わなかった。
唇と唇って、皮膚と皮膚が触れ合うのと同じようなものよね。それを味がするとかしびれるとかジーンとくるとか、神経過敏なんじゃない?としか思いようがない。
もっともいまの皇太子殿下の口づけは、それこそあっという間だった。だから、そんな気持ちや感覚を抱く暇もなかったけど。
それどころか、唇に触れた感覚があったかどうかも怪しいくらい。
「皇太子妃殿下、もう瞼を開けてもいいですよ。終わりました」
レナウトが知らせてくれたから、瞼を開けてみた。
瞼をきつく閉じすぎていて、それを開けても陽光が明るすぎるだけでよく見えない。
やっと見えるようになると、皇太子殿下の美形に「口づけしたぞ」という達成感のようなものが浮かんでいた。
これが、わたしのはじめての口づけだった。
こんなものなのね、というのが正直な感想である。
「えっ?まさか……。殿下、屋敷までかなりの距離がありますぞ」
皇太子殿下が約束を行使しようとしてくれている。
わたしとしては、その気持ちだけで充分である。だけど、彼ははりきっている。だから、わたしも彼の思うままにしてもらうつもり。
「知っています。ですが、メグの夢なのです。伴侶に式場から寝室までお姫様抱っこで運んでもらいたい、というのが」
「それをかなえようとされる殿下のやさしさは、妃殿下も理解されていらっしゃいます。そうですよね、妃殿下?」
レナウトが陽に焼けた顔を向けてきた。
無言でうなずいた。そうするしかないからである。