バラ園へ
皇太子殿下に手を取られ、バラ園に向かっている。
第三皇子のナルディ公爵家は、皇都から馬車で丸一日かかる地域一帯を所有している。
ナルディ公爵家は、表の顔はスカルパ皇国の公爵御三家の最下位である。だけど、じつは皇族の、というよりかは皇帝と皇太子専属の諜報員を務めているらしい。
そのナルディ公爵家の領地にある屋敷の庭園は、わたしの実家の近くにある村よりも広い。
これってば、管理するだけでも大変よね。
花壇には色とりどりの花々が微風にそよいでいたり、その美しさを競っていたりしている。
石畳の道のところどころには、噴水があったり彫刻が置いている。それも、凝りに凝ったものばかり。
屋敷内のたくさんの絵画や彫刻もそうだけど、一つ売り払えば家族四人で一年は食べ物の心配をせずにすむかもしれない。
お金ってあるところにはあるのね。
実感してしまう。
右手の奥には、森が広がっている。これはもう庭園とは言えないけれど。
ナルディ公爵家を訪れたばかりの頃、皇太子殿下にどのくらいの広さなのか尋ねてみた。
「さあ。皇宮の森より広いことは確かだな」
皇太子殿下は、そう答えた。
皇太子殿下越しに、皇宮よりも広いという森を見てみた。
実家の山や森や林にはない木々が鬱蒼と茂っていて、奥の方はまったく様子がわからない。
獣はいるかしら? 罠を仕掛けたらどうかしら?
捕獲した獣は、肉は干してジャーキーにし、毛皮は町に売りに行く。
実家の周りには小型の草食獣か鳥しか獲れない。
だけど、これだけの森なら大型の獣がぜったいにいるはずよね。
もうしばらくここに滞在するのなら、罠でも仕掛けてみようかしら。
皇太子殿下に手を取られて歩きつつ、そんなどうでもいいようなことをかんがえている。
居間を出てバラ園に向かっているけれど、皇太子殿下と会話がない。
皇太子殿下が一言も口をきかないのである。
居間では、あれだけ喋りまくっていたのに。
居間を出た瞬間、押し黙ってしまった。
そして、わたしもである。
わたしのバカ。なぜ、あんなことを言ってしまったの?
『お姫様抱っこ、なのです。素敵な婚儀の後、お姫様抱っこをしてもらって寝室に連れて行ってもらうのです』
皇太子殿下がこれまですべての謝罪の詫びをしたいというから、つい夢を語ってしまった。
すると彼は、すぐにこう応じた。
『ここには、素晴らしいバラ園がある。どうだい?二人っきりで婚儀のやり直しをしよう。それから、きみをお姫様抱っこして寝室まで運ぶよ』
そしていま、それを実践する為にバラ園へ向かっているのである。
わたしが無口になっているのは、ついでにどうでもいいことばかりかんがえているのは、ひとえに気をそらしたいからである。
皇太子殿下がわたしをお姫様抱っこして屋敷内の寝室までたどり着こうが途中で息絶えようが、って、死んでもらっては困るけど、とにかく、いずれにせよその後はそういう雰囲気にはなるわけで……。
そのことをかんがえたら、緊張のあまり無口にもなるわよね。っていうよりかは、出来るだけかんがえたくないから、ついどうでもいいことをかんがえてしまうのよね。
ということは、彼も同じ理由から押し黙っているのかしら?
「ほら、見えてきた」
そのとき、その彼がささやいた。
そのささやき声がやけにかすれているように感じたのは、きっと気のせいよね。
「うわぁ、素敵っ!」
わたしの手を取っていない方の皇太子殿下の手は、眼前にあるバラのアーチを指している。
鉄製のアーチに、ツルバラの一種に違いないわね。濃いピンク色のバラが、これでもかと咲き誇っている。
バラの豊潤な香りが鼻腔をくすぐる。
さすがはバラ園と言っているだけのことはあるわよね。