雇用者と被雇用者、ですね。異存はありません。
「メグ・オベリティ、きみとはあくまでも雇用者と被雇用者の関係だ。この結婚の意味をはき違えないようにしてくれ。おれはきみを愛していないし、愛するつもりもない。きみのことは、隣国から亡命してきた国王の孫だということくらいしか知らないし、それ以上のことを知ろうとも思わない」
スカルパ皇国の皇太子アルノルド・ランディは、美しくも繊細さをうかがわせる外見ながらずいぶんと冷たくてきつい。
婚儀じたい、まるでとってつけたようなものだった。一応、関係者にお知らせする程度のささやかなものだった。
式、というのもおこがましい。屋敷の庭で「ちょっと立食パーティーしてみました」的に行われただけである。
式の間中、彼はすでに皇宮に住まわせている愛人のラウラ・ガストーニを横に侍らせていた。それはもう仲睦まじく、ときおり抱きしめたり口づけをしたりしていた。
もちろん、わたしとの間に会話があるはずもない。それどころか、二人の距離は遠く離れたまま縮まることはなかった。
そして式後、たまたま皇宮の階段の踊り場で出会った。
そのときに投げつけられた言葉が、「雇用結婚」云々であった。
「承知いたしました」
訳が分からないけど、とりあえずそう答えた。
おそらく、皇太子殿下の冷え切った口調がそう言わせたに違いない。
「おれには愛している女がいる」
彼は、すぐ右側にある窓に近づいた。
「おれの癒しでもある。その女が身籠るまでだ。身籠りさえすれば、きみはここから出て行っていい。簡単なことだろう?その間は、好きなようにすごすがいい。それから、雇用契約が満期になれば、どこへなりとも行けばいい。田舎へ戻ろうと、この国のどこかへ行こうとも。望むなら、再婚相手を見つけてやってもいい。とにかく、きみはここで嫌な妻でいてさえくれればいい。それが、雇用条件だ。それと、雇用契約終了時には、それなりの金を渡してやる。せいぜい励んでくれ。もう一度いう。おれは、きみを愛することはない。この結婚は、あくまでも雇用関係だ。契約が終了するまでのな。そこを勘違いすることのないよう。それと、公式の行事ではいっしょに参加してもらうが、せいぜい嫌な妻でいてくれよ。おれが心身ともに疲れるくらいにな」
「承知いたしました」
やはり、そう答えるしかない。
彼は鼻を鳴らすと踵を返した。
愛する女のところに行くつもりなのだろう。
「あっ、ご主人様っ」
その背に呼びかけた。
「なんだとっ?」
彼がすかさず振り返った。
「もしかして、主様とお呼びした方がよろしいでしょうか?それとも、他の呼び方の方が?」
「殿下でいい。ご主人様とか主様とか、夫婦の間でそんな呼び方をするか?」
「雇用主とおっしゃいましたので、てっきり。それに、家族ぐるみで商売をしているところなどは、夫婦や親子であってもそういう呼び方をする場合があります」
彼はもう一度鼻を鳴らし、颯爽と去って行った。
そのスラリとした背を見ながら、契約満了時にはどれだけ報酬をいただけるのだろう、とかんがえてしまった。
これが、わたしのしあわせなはずの結婚初夜であった。
そもそも、この話が舞い込んできた時点で胡散臭すぎたのよね。
わたしは、一応王家の血をひいている。このスカルパ皇国の隣国モンターレ国の王族の血をひいている。
祖父が国王をしていた際に内乱があった。小説によく出てくる筋書きである。
祖父は、国王の座を追われた。そして、正妃である祖母の故郷であるスカルパ皇国に逃げ込み、庇護を求めた。王太子と王太子妃、それからその子どもたちを連れて。
その王太子と王太子妃が、わたしの両親である。
スカルパ皇国は、落ちぶれた隣国の王族にやさしくなかった。っていうよりかは、何もしてくれなかった。皇国に足を踏み入れることを許してやった、という認識しかしていないのかもしれない。
祖母の実家であるタリアーニ伯爵家が、その領地の一画にある土地を与えてくれた。農作物の育ちにくい土地、それからボロボロの家があるだけの場所である。
それでも、祖父母たちは文句を言えなかった。
そこで生活をはじめた。
祖父母も両親も政争に疲れきっていたからである。
とはいえ、生活は苦しすぎた。近くの農家から農具や種や苗を借り、農作物の育て方を習ったり、牛や羊や鳥を借りて牧畜の真似事をしたりした。
暮らし向きは、よくなるどころか悪くなってゆく一方だったらしい。
そして、末っ子であるわたしが産まれ、流行り病で祖父母と母が立て続けに亡くなってしまった。
父と双子の兄たちとわたしの四人、それから年老いた二頭の馬と年老いた三頭の牛、十二羽の鳥。
小さな土地にしがみついて何とか生きてきた。
それでも、父と双子の兄たちはわずかな間でも王族であった。その栄華を味わったことがある。
ときおり、そのときの思い出話をすることがある。
家畜用の芋や麦をふやかし、鍋の底をこそぎながらそんな話をしている。
そういう日々を送っている。
だけど、だれ一人として悲観していない。家畜用の麦をふやかしたものでも、村の人たちが売り物にならないからと持って来てくれる野菜類をふかしてすりつぶして干したものでも、口に入る物があれば死ぬことはない。
人間、どん底まで落ちたらそれ以上落ちることはない。
前向きに一日一日を生きている。そんな感じである。
食べる物がないこともあるけれど、父も双子の兄たちもわたしのことを可愛がってくれている。
だから、わたしも前向きに日々をすごせている。
そんなある日、遠くにある皇都から使者がやって来た。
その使者が、わたしの運命をかえた、といっていいのかしら。