服部文祥と千原ジュニア
服部文祥という登山家と千原ジュニア(他のタレントもいるが)が喋っている動画というのがある。ユーチューブにあるので、興味のある人は検索して見てもらうとこの文章がよくわかると思う
この動画は興味深い対話として、印象に残っている。簡単に説明する。
千原ジュニアという「お笑い芸人」がホストを努めて、ゲストの服部文祥と話す動画である。千原ジュニアは服部文祥に、お笑い的なノリで、登山について質問する。
その中で、栗城という登山家が問題になる。私は知らなかったが、栗城という登山家は、名前が売れていた人だったらしい。栗城という登山家はその後、登山事故で亡くなったが、亡くなったことはここでは問題にしない。
まず、服部が、日本の期待できる若手登山家について紹介する。服部は彼らをリスペクトを込めて語る。その後、千原ジュニアが質問する。
千原 「無酸素(登頂)の栗城さんとかはどうなんですか?」
服部 「全然駄目です。俺よりもっとずっと下にいる感じだから」
服部はこんな風に明確に否定する。千原はその後、お笑い的なノリで服部に迫る。つまり
「言うねー」「どえらい毒吐きますね」「鹿と猪と栗城くんに謝って!」
という感じである。我々が見慣れたお笑いのノリだ。それに対して、服部は動じない。
私が気に入っているのは服部は断固として、栗城を登山家として認めない所だ。服部は動画中で「(栗城は)登山家じゃないって」と怒気を込めて語る。千原は威圧されつつも、お笑い的なノリをやめられない。
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私は登山の事は何も知らない。ただ、服部文祥という人の語り方、表情、話す内容などを見てこの人は「本物だろうな」と感じた。
本物というのは何だろうか。それは自分自身に対する厳しさである。また自分がどう努力しても、どうにもならぬ何物かを知っている人でもある。自分を客観視できる人の事だ。
自分自身を相対化して、世界という高峰に迫っていく事、そこに「本物」が現れる契機がある。
服部が登山について語る時、登山家について語る時、彼の中で譲れないものがあるのが動画を見ていてもよくわかる。そうしてそれは客観的なものである、というのも見ていてよくわかる。
服部は栗城を3・5流と呼び、自分よりも遥か下、と位置づけている。これがナルシシズムから来ているのか、自己と他者を客観視している視点から来ているのか。その二つを分別できないのが大衆的視点というものだ。つまり、動画で言うならば千原ジュニア的な視点である。
千原ジュニアの発言を詳しく見てみよう。そこには大衆的な視点の特徴がよく現れている。
服部は「栗城と会った事はない」「会ったらほだされちゃうかも」と言っている。それに対して千原は「仲良くなったらいいじゃないですか」と言っている。また、千原には客観的な視点はないから、若い登山家は全員「若くて頑張っている奴」に収斂してしまう。視点の低い人と話すと、こういう話になる。「いうてもあの子らも若くて頑張っているじゃないですか。応援してあげましょうじゃないですかー」 一見、正論風だが、内実を欠いた真剣味のない発言だ。
千原が「仲良くなったらいいじゃないですか」と言い、それに対して服部が「会ったらほだされちゃうかも」と言っているのは対照的だ。服部には登山に関して客観的な基準がある。だから、直接会って仲良くなってその基準が揺らぐのを恐れているが、千原にはそれはわからない。
千原ジュニアがやっているような「お笑い」は大衆との直接的な一致で成り立つ芸である。芸道というのは、道という言葉があるように客観的な道がある場合がある。その場合、表現者と受容者の双方を貫く一本の道というのがあって、それを辿る事が近似的には受容者をすぐに喜ばせるとは限らなかったりする。そこには客観的な「道」がある。
今のお笑いはそのようなものではない。大衆が笑うか笑わないか、それが全てだ。大衆と芸人が互いに向き合い、その間を貫く客観的な基準も道もない。だからお笑い芸人としては優秀な千原ジュニアには服部の言っている事がわからない。
千原ジュニアは終始「お笑い」的なノリで話している。「毒吐きすぎですよー」「言いすぎですよー」「みんな頑張ってるやないですか」「応援してあげましょうよ」 こういう通俗的価値観を越える何物も持たない。また、大衆はこのような視点しか持たない、その上で優秀な千原ジュニアのような存在を褒め上げる事によって、自分の価値観を肯定しようとしている。
しかし、服部文祥のように、自分の中に客観的な基準を作って、自分の道を歩く人間はそこにひずみを生じさせる。それに対して「正論」で多数者は批判をするのだろう。しかし、彼らは自分の価値観を持たず、客観的な視点を持たず、集塊性に一致し、全てを主観化させているに過ぎない。彼らは孤独を知らぬ。孤独を知らぬ彼らは、内輪的なノリしか持たない。いくらアクセス数が上がろうとファンが多かろうと、客観性が欠けている。それというのも自分を鍛えていく「道」がないからである。
そういう意味で、千原ジュニアは大衆的な視点を代表する人物としては優秀だと言える。「〇〇さんも頑張っている」「△△さんも頑張っている」「みんなで頑張りましょうよー」 そのノリで大衆世界では十分だ。しかし、客観的な道がある人間には、それだけでは我慢できないものが現れてくる。彼がいい奴かどうか。それだけでは評価できない客観的な基準が必要となる。
この客観性をひたすら消去させ、集団の内輪ノリが客観性であるかのような見かけを作っているのが今だ。こうした世界では、客観的な基準を持って、自分の道を歩く人間はむしろ少数者として輝く事になるだろう。私の全く知らない分野、興味のない所でもそうした人達がその道を担い、伝統を背負って歩いていくだろう。一方で、集団で群れ騒いでいる人間はその時はどれだけ愉しくても、ただ泡沫のように消えていくだけだ。