8 fine
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飲み物を取りに行ったユージーンは案の定、アビゲイルの元へは戻って来なかった。本人に、約束を反故にしているつもりは無いのだろう。
婚約者に飲み物を取りに行くついでに、たまたまそこにいた友人と話をしているだけ。
ユージーンが内心で自分に言い訳しているのが、アビゲイルには手に取るように分かった。
夜会でこうして放置されることにも慣れてしまった。壁の花になりながら、近くを通りかかった給仕から果実水を受け取る。半分程飲んだ所で、アルコールが混じっていることに気がついた。
――これ、果実水ではないわ……。
そう気付いたときには、既に身体が熱く、頭はぼうっとし始めていた。アルコールが得意ではないアビゲイルは知る由も無かったが、この日はルーセント公爵家と懇意にしている商会が、結婚祝いにと東の国で作られる独特の蒸留酒に、新鮮な果実を漬け込んだ珍しい果実酒が提供されていた。
シェリーたちの住むルミナス王国では、色のついていない飲み物といえば、水か果実水くらいだ。東の国の酒が見た目は水となんら変わらない透明な液体であったことを知らなかったシェリーは、ほのかに香る独特のアルコール臭が果実の香りで誤魔化されていたこともあり、てっきり果実水だと思い、そのまま気付かずに飲んでしまったのだ。
酒を飲むと身体がかぁっと熱くなり、強烈な眠気が襲ってくることを自覚していたシェリーは青ざめた。ここぞとばかりにダンスに誘ってくる男共を交わし、なんとか会場を抜け出し化粧室へ向かう。こういった場では化粧室の近くに休める場所があるはずだ。とりあえずハンカチを濡らしてどこかで休もう――そう考えながらアビゲイルがふらふらと歩いていると、突然強い力で腕を掴まれ、そのまま引きずられた。
「よぉ、アビゲイル」
「なっ、なんですか!?」
抵抗しようにも、空腹に飲んだアルコールが回ってきて力が入らない。
アビゲイルの腕を引きずり、いやらしいとしか表現しようのない下品な笑みを浮かべる男は、オリバー・アーヴィング――元親友エイミーが想いを寄せる幼馴染みにして屑男。
アビゲイルの背中に、嫌な汗が滲む。
「ひとりで寂しいんだろ?俺が相手してやるよぉ」
オリバーから吐き出される生暖かい呼気からは強いアルコールの香りがして、匂いを嗅ぐだけでも酔ってしまいそうな程だった。
「結構です!放してっ」
振り解こうと必死にもがくが、酔っ払っているとはいえ男の力にアビゲイルが敵うはずが無かった。せめてもの抵抗に足を地面に突っ張らせるが、力付くでそのままずりずりと引きずられる。
「いーじゃねぇか。今更清純ぶるなよ」
ニタニタと笑うオリバーが吐き出す声の色は、底なし沼のように黒く淀んでいて、そこにほの暗い欲望を感じたアビゲイルは大声で助けを呼んだ。
「誰かっ!助けて!」
廊下には誰もいない。そもそも、オリバーが向かっている場所は、先程までアビゲイルが目指していた化粧室の隣にあるような休憩室ではなく、パーティーで羽目を外した貴族たちがある程度のオイタをしてもいいよう、積極的でないにしろ何処の夜会でも用意されている休憩室だ。勿論そこで行われることは大っぴらに言えるようなことではないので、周辺は警備の人数も絞ってある。
「うるせぇんだよ!淫乱が」
そう言うと同時に、オリバーがアビゲイルを掴んでいるのと反対の腕でアビゲイルの頬を打った。手加減の無い突然の暴力をまともにくらったアビゲイルは、一瞬何が起きたのか分からなかった。目の前がチカチカして、その後頬が燃えるように熱くなり、オリバーにぶたれたのだと分かった。
オリバーはそのままアビゲイルの口を片手で塞ぐと、ぶつぶつと言いながらアビゲイルを抱えるように引きずっていく。途中、アビゲイルの靴が脱げようがお構いなしだ。
「この俺が何度誘ってやったと思ってんだ。焦らしてるつもりか知らねぇが、お高く止まりやがって。俺ぁ、知ってるぜ。お前、色んな男と遊んでんだろ?そのくせ妹に婚約者を寝取られてるとか、おかしくて笑っちまうな!」
一人饒舌に喋るオリバーの目は既に焦点が定まっていない。正気でないのは明らかだった。
頭がガンガンする。オリバーに口を塞がれているせいで、頭が朦朧としてくるが、必死に手足をばたつかせる。いつの間にか靴が脱げていたので、ストッキングのままずるずると床を引きずられている足は至る所がヒリヒリ痛む。
いやだ。いやだ。いやだ。
必死に我慢していた涙がこぼれ落ちる。
何も悪いことなんてしてないのに、どうして私だけいつもこんな目に……。
オリバーが休憩室の一室に手をかける。アビゲイルは血の気が引いて今にも気を失いそうだったが、此処で気を失うわけにはいかないと最後の力を振り絞ってオリバーの注意が逸れた隙に、顔を掴んでいる手を思い切り噛んだ。
「ってぇ!なにすんだこのアマ!」
怒声を飛ばすオリバーには構わず、無我夢中で逃げだす。足を踏み出した瞬間に、後ろから乱暴に髪を掴まれ、そのまま扉に叩きつけられる。
凄まじい衝撃が頭部に走り、右目が赤く染まった。今の攻撃で頭から血が出ているようだ。
あまりの痛さにうずくまるアビゲイルの髪の毛を掴んだまま、オリバーが扉を開く。
いやだ、いやだ……。
痛む身体を引きずり必死に抵抗するが、最早アビゲイルに力は残って居なかった。
誰か、誰か……助けて……。
床に血の痕をつくりながら引きずられていくアビゲイルの視界に見覚えのある黒髪が映った。
あの人は……
「お、ねがい……助け、て……」
声にならない声で助けを求めながらも、とうとう扉の向こうに全身を引きずり込まれてしまった時――
「お前っ!何をしている!」
聞き覚えのある声が響き、鈍い音が聞こえた。地に伏しているアビゲイルには何が起こったか見えなかったが、掴まれていた髪の毛が放されたことで、黒髪の青年にオリバーが殴られたのだろうと見当がついた。
痛む身体を引きずり、必死に身体を起こす。床に座り込むなど貴族令嬢としてあるまじき行為だったが、今はそれどころではなかった。腕で身体を支え、オリバーから距離を取る。
たった二度会っただけの黒髪の青年――アルトゥーロはその貴公子然とした見た目とは裏腹に腕が立つようで、あっという間にオリバーを拘束してしまった。
室内にあったシーツでわめき散らすオリバーをベッドへ括り付けると、アビゲイルへと寄ってきた。その顔は真っ青に染まっている。
「大丈夫か!?って大丈夫なわけないよな、ごめん。もう大丈夫だ。ちょっと待ってて」
何故来てくれたのかは分からない。
何故そんなに必死な顔をしているのかも。
ただひとつ分かったのは、どうやら助かったらしいということだった。
「頭を怪我してる。危ないからこのまま此処にいて。すぐに人を呼んでくる」
言うが早いか、アルトゥーロはあっという間に扉から出て行った。かと思うと、直ぐに戻ってきて、全開になっていた扉を目立たないよう半分程閉め、喚いているオリバーに猿轡をつける。
「今、近くにいた人に公爵と警備兵を呼んでもらってるから」
「あ、ありがとう……」
蚊の鳴くような声で告げたアビゲイルは、自分が今頃になってぶるぶると震えていることに気がついた。アルトゥーロが遠慮がちにハンカチでアビゲイルの頭を押さえる。
「ごめん。襲われたばかりで男に近寄られるの、不快かも知れないけど止血しないとまずそうだから」
すまなそうに言う青年に小さく頷く。
次から次へと涙が溢れて止まらない。
知らせを受けた公爵と警備兵、それについてきたシェリーの顔を見た瞬間、アビゲイルはついに気を失った。