6 b♭m
読んでいただきありがとうございます。
本日から分量を減らして更新頻度を上げることにしました。お付き合い下さると幸いです。
マエストロ・グレゴリオがこの国に滞在しているらしい――そんな噂話がちらほらと貴族の間で聞かれるようになった頃、それは届いた。
一目で上質とわかる、四隅に金の縁飾りが施された封筒。裏を返して見れば、封蝋には見覚えのある紋章が押されている。
ルーセント公爵家からの、シェリーの婚約披露パーティーの招待状だ。
畏れ多いことに、デッカー伯爵家宛とは別に、わざわざアビゲイル個人宛に招待状を用意してくれている。
わざわざ招待状を別にしてくれたのは恐らく、デッカー伯爵家宛に招待状が来ているのを良いことに、万が一にもユージーンがなし崩し的にアビゲイルでなくマリアベルをエスコートするようなことが無いよう、シェリーなりに気を使ってくれたに違いない。
その気遣いに感謝しつつ、憧れのシェリーからわざわざ招待を受けたというのに、アビゲイルの心は沈んでいた。
アビゲイルがユージーンと昼食を共にしなくなってから二週間が経った。
学園を卒業したら中々会えなくなる友人たちと交流を深めたいと言っていたはずのユージーンは、例の密会場所であれから毎日妹のマリアベルと昼食を共にしている。
アビゲイルは、彼らが昼食を共にし始めた最初の日以来、あの場所には行っていない。にも関わらず何故それを知っているのかというと、友人のいないアビゲイルの耳にも入る程、彼らの関係が噂され始めているからだ。
彼らがそれを知っているのか知らないのかは想像もつかないが、此処まで噂になってしまえば両家の親の耳に入るのも時間の問題だろう。
アビゲイル自身は内心殆ど諦めながらも、未だ自分の父である伯爵に報告することは出来ていない。
まさか自分の婚約者が、よりにもよって自分ではなく妹と恋仲らしい、などと告白するのは余りに惨めで恥ずかしかったし、何より父がどんな反応をするのか、アビゲイルには分からなかった。
普通に考えれば、例えアビゲイルとユージーンの婚約が解消になったとしても、二人の仲が新たに認められることはないだろう。
姉の婚約者に懸想する妹に婚約者の妹に手を出す男、どちらも醜聞でしかない。厳しい家ならば、マリアベルは今の段階で修道院送りにされていてもおかしくないのだ。
こうなる前、アビゲイルとユージーンは互いに想い合ってはいたが、それでも二人の結婚はあくまで政略結婚の範疇だ。たまたま互いに想い合える相手だったというだけで、貴族社会では家の為だけに冷え切った夫婦関係を続けている人間は多い。
仮にユージーンとマリアベルが想い合っていたとして、それは決められた婚約関係を壊していい理由にはならない。
だが、そこに当てはまらないのが自分の両親――引いてはデッカー家なのだ。
父と結婚するまで、それなりに裕福な家庭で育ったとはいえ、母はあくまで平民だった。下級貴族ならまだしも、本来ならば伯爵家の跡取りであった父と結婚出来る身分ではない。おまけに母は平民というだけでなく、名を聞けば誰もが知るほどの淫蕩ぶり。
父の両親にあたるアビゲイルの祖父母は、それは強く反対したが、父はそれならば家を捨てるとまで言ったらしい。
祖父母には強く出られない理由があった。
アビゲイルたちの父は、長男ではない。本来のデッカー家の跡継ぎは、父の五歳離れた兄である長男だったという。
生真面目な堅物として知られていた長男は品行方正で執務も問題なくこなし、将来の伯爵として期待されていたそうだ。無事学園も卒業し、いよいよ婚約者と結婚、という段階になって、長男は幼馴染みである乳母の娘と姿をくらました。駆け落ちしたのだ。
それなりに優秀だった彼が、何故婚約者とその両親に謝罪し、正式に婚約を解消する手段を取らなかったのかは、今となっては分からない。結婚式直前に新郎に逃げられた相手の家は当然ながら烈火の如く怒り、伯爵家は新たな縁談とその結婚式の費用を用意し、それとは別に莫大な慰謝料を支払うことで事態は一応の決着を見せた。
表面上は収まったものの、その傷が未だ癒えない内に、今度は次男までもが兄と同じように平民の女を選び家を飛び出したとなれば、デッカー家の名は今度こそ地に落ちる。
仕方なく、祖父母は父と母の結婚を認めるしかなかった。それでも未だに『デッカー家の人間は愛に狂っている』と嫌味たっぷりに囁かれることのある祖父母は、アビゲイルに何度もこの話をし、伯父や父のようにはなるな、と顔を合わせる度繰り返し言ってくる。
アビゲイルは怖かった。母への愛を原動力に生きてきた父が、ユージーンとマリアベルの仲を肯定してしまったら。そんな状態では、アビゲイルとの婚約が継続されるにしろ、解消されるにしろ、そこにアビゲイルの幸せはない。
愛を人質にし、免罪符のように生きている人たちは、ユージーンとマリアベルの仲を肯定し、二人を引き裂くアビゲイルを責めるだろう。両親がそうでないとは、アビゲイルには言い切れなかった。
公爵家での夜会当日を迎えても尚、アビゲイルは前に進むことも戻ること出来なくなっていた。