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読んでくださりありがとうございます。

本日更新二話目です。ご注意ください。

 よく晴れた日の午後。ルーセント公爵家に滞在しているアルトゥーロはこの日、自身の師匠であり、叔父でもあるマエストロ・グレゴリオと共に王都の中心部に位置する王立学園を訪れていた。なんでも、この学園に努める教師の中にグレゴリオの旧友がいるらしい。


 門の所で守衛に名前を告げると、事前に連絡がいっていたようで部屋まで案内してくれる。流石貴族の集まる学校、というべきか、学園の外も中も綺麗に整えられている。市井にある平民の通う学校ではこうはいかない。

 美しく整えられ庭と通りすぎ、壁にかけられた見事な絵画や所々に置かれた調度品をさり気なく観察しながら、アルトゥーロはグレゴリオと共に案内に付いていく。


「やぁ!友よ!久しぶりだな!」


 案内されたのは立派な彫刻が施された扉の前だった。部屋に入るなり、見事な白髭を顎に蓄えた、グレゴリオより些か年上の男性が両手を広げている。グレゴリオは迷いなく男性に近づくと、ひしと抱きあった。


「アントニオ!元気そうだな!」


 グレゴリオの嬉しそうな様子から、本当に仲のいい友人なのだろうと、ひとしきり二人が落ち着くまでアルトゥーロはそれを見守る。

 暫くして、アントニオと呼ばれた教師はアルトゥーロの存在に気付いた。


「やぁ、気が利かなくてすまない。とにかくふたりとも座ってくれ」

「アントニオ、こいつは俺の弟子でアルトゥーロだ」

「初めまして。アルトゥーロ・デ・サンクティスです」


 促されるままソファに座り、簡易的な礼をする。


「私はアントニオ・ベリーニ。この学園の教師だ。君がアルトゥーロだね。グレッグから話は聞いているよ。噂通り、美青年だな」

「あの、ベリーニ、と言うのはもしかして……」

「ああ、私も母が君と同じ隣国出身なんだ」


 時間と共に薄れつつある過去の記憶の中で、聞き覚えのある姓に尋ねてみれば、アントニオはあっさり頷いた。


「私の母は父との離縁を機に親戚を頼って、私を連れてこちらへ渡って来たんだ。無理な再婚話を持ってこられる前に、と。当時は小さい子供を抱えた女性が一人で生きていけるような環境じゃなかったからね……と言っても、それは今も同じなのかな。私は小さかったので隣国のことはよく覚えていないんだ。君の環境とは似ているところもあるし、何かあったら私を遠慮なく頼ってくれ」

「……ありがとう、ございます」


 アントニオの言葉に、蘇ってくる苦い気持ちを飲み込みながら、アルトゥーロは礼を言う。

 アントニオの話しぶりから、恐らくアルトゥーロがこうしてグレゴリオについて回るようになった経緯を知っているのだろう。


 今日グレゴリオが一緒に学園に来ないかと誘ったのは、アントニオに自分を会わせたかったからに違いない。自分の前では口に出さないものの、密かにグレゴリオが自分亡き後のアルトゥーロを心配していたのを知っている。万が一自分に何かあった時、力になって貰えるように旧友のアントニオと引き合わせたのだ。それだけグレゴリオはアントニオを信頼しているということなのだろう。


 暫く雑談に応じた後、旧友二人の貴重な時間に水を差してはいけないと思い、学園の散策を申し出ると、あっさり許可が下りた。


「部外者が立ち入れない所には警備がついているから、それ以外なら大丈夫。ここの庭は薔薇で作った生垣の迷路が有名なんだ。興味があったら行ってみるといい」


 そういえば、アントニオの部屋までの道中、ちらりと視界に入った庭はきちんと手入れされていそうだった。折角なので助言に従ってみようと、ひとり部屋を出てすぐ髪が引っ張られた。


「いててっ。おい、突然髪引っ張るのやめてくれって前から言ってるだろ」

『だって~さっきから話しかけても全然返事しないんだもん』

「仕方ないだろ。師匠はともかく、他に人がいるところで話したり出来ないんだから」


 言いながら、さり気なく周囲を確認する。授業中のためか、幸い周囲に人は見られない。アルトゥーロはほっと息を吐き出した。

 アルトゥーロと会話している声の持ち主はプルッカ――彼の右肩の上を()()()()()()()()()()()()だ。


 アルトゥーロには二つ、秘密がある。

 ひとつは、生まれた時から、ここではない世界で別人として生きた記憶があること。

 そしてもうひとつが、プルッカのような妖精を見ることが出来るということだった。

 

 プルッカが言うには、この世界ではない場所で別人として生きた記憶――便宜上前世の記憶と呼ぶことにしている――があることが、プルッカの姿が見え、あまつさえ会話まで出来ることの理由ではないかと言う。


 物心ついた時から、アルトゥーロにはピカピカ光る、光の粒が見えていた。それはふよふよと漂っていて、時々特定の人や動物の近くに集中して固まっていた。

 それが妖精と呼ばれる生き物だと知ったのは、プルッカと出会ってからだ。


『あれ?お前俺が見えるのか?』


 初めてのプルッカとの会話は、そんな一言から始まった。プルッカはそれまでアルトゥーロが目にしていた光の粒とは違う、小さな人型のシルエットを取っていた。興味を惹かれ、野良犬に追われる人型を助けてみれば、それはなんと話しかけてきたのだ。


「君……話せるの?」

『うっわー!本当に見えてるよ、こいつ!そんな人間久しぶりだなぁ』


 質問には答えず、興奮してアルトゥーロの周りを飛び回るプルッカをなんとか落ち着かせて話を聞き出すと、プルッカは自分は妖精だと言った。

 プルッカによると、アルトゥーロの目に見えるピカピカしているあの光の粒は、妖精の子供なのだという。プルッカが彼らと違い人型なのは、彼らよりずっと長く生きた力の強い妖精だから、らしい。アルトゥーロが光の粒と呼ぶ彼らは、本能以外の意志を持たず、生まれていくらも経たない内に消えてしまうことが多いそうだ。


「君のように話せる妖精なんて初めて見たよ」

『最近じゃあ妖精もめっきり数を減らしているからなぁ……俺ですら、もう何年も俺のように人型がとれる同胞とは会えてない』


 理由を尋ねてみれば、その昔人間と妖精は、姿形が見えなくとも存在を認識し共生していたが、次第に人間が妖精の存在を忘れ、彼らの住まう土地を侵し始めたからだと言う。


『俺たちは、綺麗な水や自然の恵み、それらを生み出す森林が無ければいけていけない。唯一例外はあるがな』

「例外?」

『そ。他の生物から生命エネルギーを取り込めれば、なんとかならないこともない』

「成程。生命エネルギーね………って、それ、なに?」


 幼児とはいえ、前世では中年まで生きた記憶のあるアルトゥーロだ。()()()()()同年代と比べればそれなりに教養は持っていたが、そのアルトゥーロですらそんな言葉は聞いたことが無かった。


『んーお前、あの光の粒が特定の人や動物に集まっているの、見たことないか?』

「ある!」


 それは人だったり、動物だったりした。何故だろう、と今までずっと不思議に思っていたのだ。


『あれはさ、俺たちにとって良質の生命エネルギーを持つ奴だ。あいつ等みたいな弱い妖精は、食いっぱぐれないよう、ああしてそういう奴に纏わりついているんだ』

「んん……?生命エネルギーっていうのは常に周りに垂れ流されているってこと?」

『いんや、ちょっと違う。生き物であれば常に微量は出ているものだけど、その程度じゃ俺たちの糧にはならない。生命エネルギーが出る瞬間っていうのはだなー、動物なんかだと、狩りの時や食事中なんかの、なんていうか、感情?が揺れる時だな』

「感情が、揺れる……?」

『こう、狩りの時に殺気を出すだろ?その時に一緒に生命エネルギーもぶわっと溢れる感じだな。光の粒のような下級の妖精だとタイミングよく取り込む前に消えちまうことが多いから、ああしてずっと張り付いてんだ』

「へぇ……」


 それを聞いてなんとなく分かったような気になったアルトゥーロだが、ふと気が付いた。


「でも、じゃあ人間は?こんな都会に狩りをしている人なんてそうそういないよ。それに、か弱そうな女の人の周りに沢山妖精が集まっているのも見たことがあるよ」

『ああ、それはな、人間の場合はちょっと事情が違うんだよな』

「事情……?」

『お前、今まで自分が会った、妖精たちが集まっていた人間を思い出してみろよ。共通点があるはずだ』


 言われた通り、幼いアルトゥーロは必死に思い返した。

 そういえば、街中を歩いていても、そういう人は極稀に見かける程度なのに、不思議と師匠であるグレゴリオの知人には、性別や年齢に関係なく妖精に好かれている人が多かった気がする。勿論、師匠本人もいつも周りにピカピカの光の粒を纏っている。


「う~ん、師匠のお友達に多いけど……」

『お前の師匠はなにをやってるんだ?』

「え、音楽だよ……って、あっ!音楽家ってこと!?」

『ピンポーン!正解』


 プルッカの姿はぴかぴか光ってよく見えないのに、何故だか自分に向かって拍手しているのは分かる。


『俺も不思議なんだけどさ、お前たち人間は、音楽を奏でる時、他のどんな場面よりも生命エネルギーを多く放出するんだよ。俺たち妖精にとって、上質の生命エネルギーを持つ歌い手や演奏家は、得てして人間の間でも評価されている奴が多いな』

「そうだったんだ……」


 知らなかった新事実に、アルトゥーロは目から鱗が落ちる気分だった。

 成程、それなら師匠や師匠の友人が妖精に好かれるのも納得だ。師匠は有名な音楽家として大陸中に名を馳せているし、その師匠の知人、友人も必然的に音楽を生業としている人が多い。

 音楽的才能と妖精の糧となる生命エネルギーには相関関係があるのだろう。


 そこまで気付いて、アルトゥーロはハッとした。


「え、じゃあ僕ってもしかして……音楽の才能、ない?」


 両肩を見ても、光の粒もとい妖精たちの姿は見えない。

 愕然とするアルトゥーロを前に、プルッカが慌ててフォローを入れる。


『いやっ、お前の場合はちょっと違うから!落ち着け!』

「ほんとう……?」

『本当だってば。お前、普段生命エネルギーをコントロールしているだろう?これだけ近くにいても全く()()がないからな』

「え、コントロールなんて……」

『無意識にやっているんじゃないか?俺にもなんとなくしか分からないが……んーと、なんか呼吸が違うような』


 そこまで言われて、アルトゥーロは思い当たった。


「もしかして、太極拳……」

『タイキョクケン?』

「えっと、僕の前世にあった運動というかなんというか……誰でも持っている“気”っていう良いエネルギーを身体に巡らせるみたいな考え方があって」

『お前、その身体になってもタイキョクケンとやらをやっているのか』

「う、うん、前世では健康法のひとつだったんだ。中々気軽に運動出来ないし、朝起きた時にちょっとだけ……」


 太極拳では呼吸法も重要だったから、プルッカの呼吸が違うという言葉を信じるなら、恐らくそれが原因なのだろう。


『じゃ、多分それだな』

「普段から意識してるわけじゃないんだけどな……」

『癖になってるんじゃないか?お前、音楽家か?』

「う、うん、一応……見習いだけど」

『じゃ、ちょっと演奏してみろよ。ワンコロから助けてもらったお礼に見てやる』 


 そうして見て貰った結果、それなりに良質の生命エネルギーは感じられるけれど抑圧されている気配がある、ということだった。


『多分、身体が無意識にコントロールしているんだろうな』

「それって……どうなんだろう?良い演奏であればあるほど、生命エネルギーに溢れているんだよね?」

『まぁ、俺の経験則ではそうだ』


 落ち込むアルトゥーロに、プルッカが大袈裟に息をついた。


『しょうがねぇなぁ、乗り掛かった船だ!俺様がお前についててみてやるよ!』

「え、本当?」

『その代わり、毎日俺様にお前の生命エネルギーを提供してもらうぞ!』


 こうして、その時から妖精のプルッカは人間のアルトゥーロの友人となった。

 身体が成長するにつれ、プルッカのいうところの生命エネルギーの放出が出来るようになったアルトゥーロだが、プルッカがアルトゥーロの元を離れることはなかった。


 なんとなく、師匠のグレゴリオはプルッカの存在について感じとっている気はするのだが、今日までそれについて問われたことはない。


『なぁなぁアル。俺あっちに行きたい』

「え、あっち?庭はそっちじゃないぞ」


 校舎の出口へと向かおうとするアルトゥーロをプルッカが髪を引っ張り止める。


『あっちから、()()()()()()()の匂いがする』


 そう言って今にも飛んでいきそうなプルッカの指し示す方向へ耳を済ますが、アルトゥーロの耳には何も聞こえない。それもその筈で、妖精は人間の何倍も耳がいいのだ。そのエネルギーの持ち主は、恐らく防音設備の整った部屋で演奏しているのだろう。


 実をいえば、グレゴリオの思惑とは別に、アルトゥーロがグレゴリオについて学園を訪れたのは、つい先日会った少女に再び会えるかもしれない、という淡い期待からだった。

 アビゲイルと名乗ったデッカー伯爵の娘は、隣国で貴族として生を受けたアルトゥーロですら見たことがないくらい、美しい少女だった。グレゴリオの友人だという彼女の母がそのまま若返ったかのような容貌であったが、放つ雰囲気は全く違った。見た目こそ母親にそっくりだが、彼女の中身はどちらかというと父親似なのではないかと、短い滞在ながらアルトゥーロは感じた。


 しかしながら、アルトゥーロが彼女に会いたいのは、彼女が美しい少女だからではない。彼女が間違いなく才能ある音楽家だと確信していたからだ。

 アルトゥーロがこれまで見た中で、最も妖精を沢山連れていたのは、師匠であるグレゴリオとここから遠い国で見掛けた舞台歌手の女性だ。ともすれば発光体に見えるほど、妖精たちに群がられていた。

 そして、あの日見たアビゲイルは、これまで見たどんな人よりも多くの妖精を連れていた。彼女の母親もピアニストだけあって、それなりに()()()はいたが、アビゲイルはその比ではない。大体が顔周りに集まることの多い妖精たちだが、アビゲイルの場合は全身に妖精がまとわりつき、神々しいまでに光り輝いていた。


 作り物のように整った顔立ちの彼女は、そうして妖精に群がられていると、まるで本当に天から舞い降りた女神のようで、アルトゥーロは一瞬呆けてしまう程だった。


 しかし、当の彼女はといえば、終始どこか憂いを帯びた表情をしていて、それがまたアルトゥーロの興味を引いた。


 三重奏後のアビゲイルは、触れたら壊れてしまいそうな張り詰めた雰囲気が漂っていた。

 だから思わずヴァイオリンを差し出してしまった。残念ながら彼女には拒絶されてしまったが。


 アビゲイルは「音楽はやらない」と言っていたが、あれ程妖精に好かれている人間が、音楽に縁がないなんてことがあるはずがない。

 なにやら事情を抱えていそうではあったが、出来ることなら彼女の演奏を聴いてみたい。


 あの後、アビゲイルは突然自室に戻ってしまい、それ以上話すことは叶わなかった。


 アビゲイルと妹のマリアベル、二人とも学園に通っていると言っていた。もしかしたら話すチャンスがあるかもしれない――そんな邪な思いもあり、ひとり学園の散策を申し出たのだ。


 もうそろそろ授業も終わるはずだ。庭を見る振りをして校舎から出てくるアビゲイルに声をかけようと思っていたのに――。


『なぁなぁ、早く早く、あっち!』

「………わかったよ」


 珍しく主張を曲げないプルッカに折れたアルトゥーロは、仕方ないと、肩を竦めてくるりと方向転換し歩き出した。

 プルッカに合わせ足は自然と早くなり、気付けばかけだしていた。

 

 ――ここだ。


 辿り着いた扉の前で、プルッカと顔を見合わせる。漏れ聞こえてくる音色は、繊細で美しい。技術的に未熟な部分は感じられるものの、それを凌駕するものがある。

 アルトゥーロは、前世でショパンやベートーベンを初めて耳にした時のような衝撃を受けていた。


 そっと開けた隙間から覗いた金色に、心臓が跳ねる。


 ――彼女だ……!


 そこから先は、殆ど無意識だった。

 気付けば、教室の隅に無造作に置かれていたヴァイオリンを掴み、夢中でピアノを弾いている彼女の演奏に音を重ねていた。


 突然の乱入者にアビゲイルは目を丸くしていたが、演奏を止めることは無かった。明らかな即興なのに、二人の息は驚くほどピタリと合っていた。

 あるべきものが、あるべき場所へ還ったような不思議な感覚。


 その演奏は、最初は恐る恐る手を繋ぐように。途中で殴り合いになり、最後は優雅にダンスを踊っていた。


 興奮し、ぶんぶんと激しく宙を舞うプルッカの姿さえ目に入らない。


 最後の一音が余韻を残して消えていった時、二人はすっかり汗だくで、息を切らしていた。

 静寂の中、視線が絡み合い――次の瞬間には、互いに声を出して笑っていた。

 二人の笑い声は止まることなく、暫く教室中に響いていた。


「アビゲイル嬢……君はやっぱり、素晴らしいピアニストだったんだね」


 笑いが収まり、汗を拭いたアルトゥーロが口にした瞬間、それまで笑っていたのが嘘のようにアビゲイルの顔は真っ青に変わった。

 そのまま勢いよく立ち上がり鍵盤に蓋をすると、


「違います。私、ピアニストなんかじゃないので!」


 叫ぶように行って、あっという間に教室から走り去ってしまった。


「あんなに素晴らしい演奏が出来るのに、何故……」


後に残されたアルトゥーロとプルッカはそれを呆然と見送った。



***



 折角だからと庭を軽くぶらついた後、グレゴリオたちの元へ戻ったアルトゥーロは、別れ際さり気なさを装いアントニオに尋ねてみた。


「あの、先程たまたま通りかかった音楽室で、デッカー伯爵家のアビゲイル嬢を見たのですが……」


 アルトゥーロが切り出すと、グレゴリオはおや?という表情を浮かべ、アントニオは哀しげに目を伏せた。


「今は授業時間じゃなかったかね?」


 グレゴリオの何気ない一言に、サボリを言いつけたかったわけではないアルトゥーロは焦った。


「あの、別にそういうつもりで言ったわけでは」


 アントニオは授業をサボったことについては触れず、


「……あの子も色々あるんだろう。気の毒な子だ」


 それ以上、アビゲイルについては何も語らなかった。


 帰り道、グレゴリオと二人、馬車に揺られながらアルトゥーロは思わず口にしていた。


「師匠。彼女……アビゲイル嬢は凄い音楽の才能の持ち主です。俺は彼女のピアノを聴いて、魂が震えました。なのに何故彼女はそれを隠すんでしょうか……」

「これは私の予想でしかないがな。あながち間違ってはいないだろう」


 そう前置きしたグレゴリオは話した。


 アビゲイルは伯爵家の跡取り娘だ。

 彼女とそっくりの容姿をした母親は、若い頃かなり性的に奔放だった。

 グレゴリオがこの国に滞在していた時期と、彼女の母が社交界を飛び回っていた時期は重なるので、グレゴリオは当然その姿を見ている。

 母親にあまりにそっくりに美しく成長したアビゲイルを見ていると、違う人間だと分かっていても、どうしても母親の顔がちらつく。一時的にこの国に滞在したに過ぎない自分がそうなのだ。この国の社交界の住人は、その姿を忘れてはくれないだろう。

 そして、娘のアビゲイルにその姿を重ねるに違いない。

 更にアビゲイルにとっては運の悪いことに、双子の妹は全く違う容姿で生まれた。理不尽な悪評を押し付けられるのは、アビゲイルに集中するはずだ。


「つまり、母親と同一視されたくないからこそ、ピアノから……音楽から、離れようとしているのですか……」

「恐らくな……」


 あまりの理不尽に、アルトゥーロは何も言えなかった。


 親に捨てられ、これ以上失わないために音楽にすがりついた自分。

 周囲から理不尽に貶められ、立場を守るために音楽を捨てたアビゲイル。


 違うようで、どこか似ている自分たち。

 心臓が痛い。眉を寄せるアルトゥーロを前に、グレゴリオは誰にともなく呟く。


「弾くことを放棄した演奏家なんて、海で溺れる魚みたいなもんだ。弾かずにいられないから、演奏家なのさ」


 グレゴリオの呟きは、夕暮れに消えていった。


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