4 con dolore
読んでいただきありがとうございます。
前回投稿より時間が空いてしまいすみません。今夜中にもう1話更新予定です。
休日が空け、学園の登園日――今日もまた、マリアベルとは別々の登園だ。馬車を降りるとそれを目ざとく見つけた学生たちが興味深げに此方を見てくる。
マリアベルとユージーンの夜会での様子や、二人がシェリーの不興を買ったことは既に伝わっているのだろう。いつもよりも自分に向けられる視線が多い。
その視線の持ち主の何人かは、かつてはアビゲイルとそれなりに親しくしていた者たちだ。特に喧嘩したわけでも嫌がらせをされたわけでもないが、いつの間にかアビゲイルよりもマリアベルと過ごすようになった彼女たちとはどうもギクシャクしてしまい、学園でも殆ど話すことはない。
アビゲイルはいつも通り彼女たちに話しかけることはせず、そそくさと自分の教室へ急いだ。
いつも通り、教室には沢山の色が入り混じっている。人の多い所は色が多すぎて眩暈がする。他人が吐き出す色が感情に直結していると知ってしまってからは、狭い空間に沢山の人間が詰め込まれている学園という空間が苦手になっていた。
授業が始まる直前、ユージーンがアビゲイルの元へやって来た。
「どうしたの?」
「あー……今日のお昼なんだけど、というかこれから暫くの間は、ランチは別々にとってもいいかな」
ユージーンの言葉にアビゲイルは思わず顔を顰めた。
学園に入学して以降、昼食はユージーンと二人で食べていた。婚約者がいる令嬢や令息は大抵そうしている。
「どうして?」
「あと半年もすれば卒業だろう?アビーとは結婚したら毎日一緒だけど、学園を出たら今みたいに気軽に会うことも出来ない人もいるし、今の内に交流を深めておきたいんだ」
「そう…………分かったわ」
只でさえユージーンとアビゲイルの不仲を疑う声があるのだ。学園という、夜会やお茶会などの社交の場とはまた違った人目のある場所だからこそ、婚約者として過ごす姿を見てもらうことで払拭できる噂もある。このタイミングで今まで共にしていた昼食を別々に摂り始めるというのは悪手でしかない。
けれど、ユージーンの声に滲む淀んだ色を見て、アビゲイルはそれを口にするのは止めた。罪悪感を感じるくらいには、自分の行いが正しくない自覚はあるのだろう。
それでもその選択をするというのなら、アビゲイルに出来ることは何も無い。
暗い表情のアビゲイルに気付くことなく、ユージーンはホッとした様子で自分の教室へ戻って行った。
***
昼休み、いつもと同じ様に食堂で食事する気になれなかったアビゲイルは、サンドイッチをテイクアウトすると、学園の中庭に向かった。まだ肌寒いので、それ程人はいないはずだ。
予想通り、人は疎らだった。何人かの生徒がベンチの上でお弁当を広げている。
アビゲイルは人目を避けつつ中庭の奥へ歩みを勧める。薔薇の生け垣の隙間に隠れるようにして置かれているベンチはいつも大体空いていて、アビゲイルの密かなお気に入りだった。
独りで食事しているところを見られれば、またどんな噂が立つかわからない。生け垣に身を隠すようにして、もそもそとサンドイッチを咀嚼する。
二つ目のサンドイッチに手を伸ばしたところで、微かな足音が聞こえた。どうやら数人の女子生徒が小声で話しているようで、声はどんどん近付いてくる。
アビゲイルは思わず身を固くするが、幸い彼女たちはアビゲイルの存在には気付かず、おしゃべりを続けている。
「ね、さっきの見た?」
「見た見た」
「後ろ姿しか見えなかったけど、あれってユージーン卿よね」
「絶対そうよ。あの髪色を見間違える訳ないもの」
思いがけず聞こえてきた婚約者の名前にアビゲイルは息を止めた。
ユージーンの髪色はクラーク公爵家の血筋の者が持つ独特の色だ。同じ髪色を持つ若者は彼の兄二人くらいのものだが、彼らはとっくに学園を卒業している。彼女たちの言う通り、例え遠くからでもあの目立つ色を見間違える可能性は殆ど無い。
いけないと思いつう、つい耳を澄ませる。
「私の記憶が確かなら、彼の婚約者は妹のマリアベル嬢じゃなく姉のアビゲイル嬢よね?」
「そのはずよ。いつも食堂で一緒にお食事なさっているもの」
「やっぱりそうよね。でもあの時隣にいたのはマリアベル嬢……」
「噂は本当ってことよね」
「あら、噂って?」
「ほら、本当はユージーン卿とマリアベル嬢が恋仲で、アビゲイル嬢がそれを邪魔してるってやつよ」
「まぁ……!」
「でも仕方ないわよね。伯爵家の後継はアビゲイル嬢だし、公爵子息でも三男でしかないユージーン卿がマリアベル嬢と結婚しても爵位はついてこないもの」
「だからあんな目立つ場所で密会を?」
「研究棟の裏手なんて、見つけて欲しいと言わんばかりよね」
「それにしてもあんなに美しいアビゲイル嬢と婚約しておいて浮気するなんて、信じられませんわね」
「そこはほら、見た目の美しさではカバー出来ない程中身に問題があるのではない?」
「あの方、ご友人もいませんものね」
「あの方のお母様は大っぴらでしたけど、アビゲイル嬢も影で相当遊んでいるらしいですわよ?あの容姿で数々の男性を誑かしているとか……」
「血は争えないのねぇ」
彼女たちは好き勝手に噂するだけ噂して、そのまま歩いて何処かに行ってしまった。
アビゲイルの顔は自分でも分かる程真っ青になっていた。血の気が引き、身体の震えが止まらない。
ユージーンとマリアベルが、二人きりで昼食を……?
すっかり食欲の失せたアビゲイルは膝の上の包みを丸めると、震える足を叱咤して研究棟の裏へ向かった。
学園の研究棟は三階の渡り廊下を通して校舎と繋がっており、教員に割り当てられた準備室やクラブ活動の部室として使用されている。丁度日の当たらない裏手にぽつんとベンチと花壇が置かれており、密かな密会スポットして有名だった。
しかしながら、何代か前の卒業生のひとりが教師のひとりと隠れて付き合っていた際、この場所で密会していたことが公になると、この場所は秘密の場所でもなんでもなくなった。実は校舎のとある一室からは丸見えということが発覚したのだ。かの生徒と教師の不適切な関係を告発した人物も、そこから二人の逢引を目撃していたらしい。
それ以来、この場所で大っぴらに密会する者はいない。
アビゲイルはそっと研究棟の陰に隠れ、その場所を覗いた。よく知る二人の姿を見て、膝から崩れ落ちそうになる。
二人はアビゲイルの姿に気付くことなく、仲良く弁当を広げ楽しそうに会話を続けている。
ユージーンあんなの屈託ない笑顔を、アビゲイルはもう随分見ていない。
――あなたの言う“交流を深めたい人”はマリアベルだったのね……。
この瞬間、ほんの少し残っていた婚約者への期待は呆気なく砕け散った。
先日の夜会でアビゲイルを蔑ろにしないとシェリーに誓ったことなど、すっかり忘れているのだろう。
最低だ。ユージーンも、マリアベルも。
今まで我慢してきただけに、一度溢れ出した嫌悪感は止まらなかった。
これ以上この場にいては乗り込んでいって暴言を吐いてしまいそうだ。
零れ落ちそうな涙を堪えながら踵を返す。ふと視線を感じて顔を上げると、校舎の窓からひとりの女子生徒がこちらを見下ろしていた。
癖のある赤毛を耳の下で纏めている少女は、かつてよく知っていた人――エイミー・カーティス伯爵令嬢。アビゲイルの元親友で、今はマリアベルの親友をやっている。
彼女の姿を目にする度、アビゲイルの心は軋む。
多くの友人たちがいつの間にかマリアベルを優先するようになる中で、エイミーだけはアビゲイルと変わらない関係を保ってくれた。
それが崩れたのは二年前――彼女が想いを寄せる幼馴染みを遠回しに批判したことで、それに怒ったエイミーはアビゲイルを無視し、当てつけのようにマリアベルと仲良くするようになった。
エイミーが想いを寄せていた男、オリバーは、とんでもないロクデナシだった。元は侯爵家の次男で顔だけは良かったが、裏で度々女を食い物にしては、ボロボロにして捨てることを繰り返していた。大人の婦人に相手にされないためか、デビュタントしたばかりの令嬢を標的に蛮行を繰り返し、エイミーの友人と知りながらアビゲイルにもしつこく言い寄っていた。奴に強引に暗がりに引きずり込まれそうになったことが何度あることか。
裕福な伯爵家の末娘として育てられたエイミーは人の裏の顔や悪意に鈍感で、オリバーの裏の顔に気がついておらず、あろうことか婚約を考えているようだった。
それまではエイミーを傷つけないよう、何とか奴の蛮行が目に入らないように気遣っていたアビゲイルだが、親友が修羅の道を歩もうとしているのをむすみす見逃すわけにはいかないと、やんわり苦言を呈した。
その態度が気に食わなかったのか、エイミーは話の途中でひどく怒り出し、それ以来アビゲイルと口を利かなくなった。
最初こそなんとかエイミーと仲直りしようと試みたアビゲイルだが、余程アビゲイルを傷つけたいのか、それまで然程仲良くなかったマリアベルに擦り寄っていく姿を見て、アビゲイルは彼女との決別を静かに受け入れた。自分に人を見る目が無かっただけの話だと。
そのエイミーが何か言いたげに唇を震わせながら、じっとアビゲイルを見下ろしている。
――ざまぁみろ、とでも言いたいの?
アビゲイルは目を逸らすと、尚も注がれるエイミーの視線を無視して校舎に逃げ込んだ。
次の授業まではまだ時間がある。
ゴミ箱に昼の残りを捨てると、アビゲイルは目的の場所へ歩き出した。
***
ポケットから鍵を取り出して、教室のドアを開ける。
学園の校舎はアビゲイルにとってお世辞にも居心地が良いとは言えない場所だが、唯一例外として、音楽室だけは好きだった。
教室に滑り込み、窓際に置かれたピアノの鍵盤蓋をそっと開ける。
鍵盤に指を触れると、澄んだ音が飛び出した。
王族が通う学校だけあって、音楽室のピアノは古いけれどよく手入れされ、定期的に調律された上等な物だ。年月を経て飴色に輝く表面が美しい。
椅子に座り、心の赴くままにピアノを弾き始める。始めはゆっくりと、徐々にテンポを上げていく。なるべく綺麗な色になるように、旋律を紡いでいく。
鍵盤に触れる時は、宝物に触れる時のように優しく。
無二の友人に語り掛ける様に、明るく向き合う。
誰もいない音楽室でひとり無心でピアノを弾く時間が、アビゲイルは何より好きだった。
美しい音を奏でる度、傷ついた心が、少しずつ癒されていく気がする。
アビゲイルに音楽室の合鍵をこっそりと渡してくれたのは、学園の音楽教師であるアントニオ・ベリーニだ。アントニオは初老に差し掛かった、教師としてはベテランに分類される人物でお茶目な言動で生徒からも人気がある。
音楽の授業でアビゲイルがピアノを弾いたのは一度きり。それもほんの短い時間であったが、彼はアビゲイルに音楽の才能があることを見抜いた。それと同時に、アビゲイルの中にある、秘められた音楽への情熱さえも。
アントニオは才能があるにも関わらず、必要以上に音楽へ近づくことを避けているアビゲイルに何かを思うところはあるようだったが、演奏を強要することはなかった。
その代わりに、「他の生徒には内緒だよ」と言ってこっそり音楽室の合鍵を預けてくれた。授業の無い時は使っていいから、と。
それ以来、気分が塞ぎ込んだ時や嫌なことがあった時、アビゲイルは音楽室を密かに訪れ、気の向くままピアノを弾いている。誰の目も気にせず自由にピアノを弾ける空間は、アビゲイルにとって有難かった。心の赴くままに音を鳴らす瞬間、貴族令嬢という鎧を脱ぎ捨て、自分に絡みつく沢山の柵からひとつひとつ解放される気がしていた。
時々、気付くと教室の隅でアントニオが演奏を聴いていることがある。アントニオはいつも、演奏について何か指導してくることもなく、ただじっと耳を傾けて、いい演奏でしたよ、と告げて去っていく。
こんな風に自由に此処を使わせてもらえるのもあと半年――。
学園を卒業すれば、もう此処には来られない。考えるだけで、息が詰まりそうだった。
今のアビゲイルには、卒業後の未来を上手く思い描くことが出来ない。
婚約者のユージーンと結婚し、伯爵家を継ぐ。
幼い頃から決められていたはずの未来が、此処にきて揺らぎ始めているのを、アビゲイルは確かに感じていた。