3 morendo
読んでくださるすべての人に感謝を。
「ごきげんよう、ユージーン卿」
二人だけの世界に浸っていたユージーンとマリアベルは、シェリーの声掛けで初めてアビゲイル達の存在に気が付いた。
「ルーセント公爵令嬢!?お、お久しぶりです」
突然交流のないシェリーに話しかけられたユージーンは驚き、シェリーの後ろに立つアビゲイルに気付くと話しかけてきた。
「アビー、何処に行っていたんだい?探したんだよ」
その隣で、シェリー嬢に完全に無視されているマリアベルは格下の自分から話しかけることも出来ず、困惑の表情を浮かべている。
――嘘つき。マリアベルと踊っていたくせに。
シェリーに会って、少し上向いていた気持ちがみるみる萎んでいく。
それを察したのか、シェリーはそっとアビゲイルの背中に触れると代わりに答えた。
「私とバルコニーでお話していたのよ」
「そうだったのですか。姿が見えないので心配していたのですけど」
「あら、そうでしたの?私の目にはアビゲイルの妹と楽しく過ごしていたように見えたわ」
「そ、それはアビーが見当たらなかったからで……」
流石にばつが悪いのか、ユージーンが口ごもる。
「ユージーン卿。貴方がアビゲイルから離れている間、彼女妙な男に絡まれていて私が助けなければ危ない所だったのよ。彼女のような美人がこんな場所でひとりでいたら危ないのは、婚約者ならわかるでしょ。どうして彼女の傍を離れたの。その時貴方は何をしていたのかしら」
「えっ!?」
ユージーンが弾かれたように顔を上げる。
「危ないところだったって、アビー、本当かい?」
「ええ。幸いシェリー様が助けてくださったので無事でしたけれど」
「すまなかった!レモネードを取りに行ったらすぐ君の所へ戻るつもりだったんだ。でも予想外に人が沢山いて、ちょうど音楽が始まったから……少しくらいならいいだろうと思って、誘われてつい踊りに行ってしまった。まさかそんな目に遭っていたなんて、知らなかったんだ」
項垂れるユージーンに、シェリーが冷たい声で追い打ちをかける。
「いかにも反省しているような顔をしてますけど……そもそも、婚約者がいるのにその婚約者を放って別の女とファーストダンスを踊るという行為がおかしいのではなくて?」
ねぇ?とリリーを振り返る。
リリーは何度も頷きながらユージーンとマリアベルに軽蔑の視線を送っている。
「それは……その、マリアベルは家族みたいなものだし……」
「でも、家族じゃないでしょ?貴方の妹じゃないわ。大体、仮に家族でも婚約者を差し置いてダンスなんてしないわよ、普通は」
「あの!私が誘ってしまったんです。姉はダンスがあまり好きじゃないから」
マリアベルが会話に割って入る。
その様子に眉を顰め、シェリーが明らかな軽蔑をマリアベルに向ける。シェリーの斜め後ろでは、リリーが遂に威嚇を始めた。
「私、貴方とはお話していないのだけれど。まぁ、いいわ。仮に貴方の言う通り、アビゲイルがダンスがあまり好きでないとして、貴方とユージーン卿がファーストダンスを踊っていい理由にはならないわ」
「それは……」
「ベル」
目を泳がせるマリアベルに向かって、アビゲイルは呼びかけた。
マリアベルとまともに目が合うのは、いつぶりだろう。少なくともここ最近ではないのは確かだ。
「ベルは私がダンスが好きではないと言ったけど、それは違うわ。私が嫌なのはダンスにかこつけて好きでもない男に身体をべたべた触られることよ。ジーンと踊るのが嫌だと思ったことも言ったこともないわ」
マリアベルは気まずそうに目を逸らし、アビゲイルと視線を合わせようとしない。
ユージーンは一瞬泣きそうに顔を歪めた。
自分たちの行為が褒められたことではないのは自覚しているのだ。
普通は婚約者に他の男が近づこうとしたら守るもの。婚約者の妹といえど、適切な距離は取るもの。相手が未婚ならば尚更だ。少なくとも、婚約したばかりの頃のユージーンはそうだった。
ユージーンの色が淀んでいくにつれ、彼はアビゲイルを放ったらかすことが多くなった。アビゲイルが他の男性からしつこく言い寄られていても気に掛けず、マリアベルや他の友人と過ごしていた。それを良いことに尚更他の男が寄ってきて、の悪循環だ。
「ごめん、アビー。これからはファーストダンスは君と必ず踊ると約束するよ」
そういうことではないのだ。ユージーンは何も分かっていない。
溜息を吐いたアビゲイルの視界の端で、マリアベルが一瞬顔を歪めるのが見えた。
「リリー……私の右手が暴れたがっているのだけど」
「シェリー様、流石にまずいです。あんなのでも一応公爵令息ですからね」
傍らのシェリーとリリーは眉間の皺をこれ以上ない程深め、何やら小声で話し合っている。
シェリーの鼻息が荒くなってきたのを感じ、これ以上迷惑をかけるわけにはいかないとアビゲイルは慌てて言った。
「私、今日はもう帰ることにします。シェリー様、リリー様もご迷惑おかけしました」
「……いいの?」
眉を下げるシェリー様に、アビゲイルは苦い笑みを浮かべた。
いいわけがない。だけど、自分の気持ちすらコントロール出来ないのに、他人の気持ちをどうこう出来るなんて、そんなこと思えない。
「ユージーン卿。貴方、婚約者を帰して自分だけ此処に残るなんて、しないわよね?」
シェリーが睨みつけると、ユージーンは慌ててアビゲイルの隣に並んだ。
「も、勿論送っていきます」
「当たり前よね」
「シェリー様、私達もそろそろお暇しますか?」
「そうねぇ。折角着飾ったのに悪いけど、リリーの旦那様探しは別の日にしましょうか」
シェリーの言葉に、リリーは複雑な表情を浮かべていた。シェリーを連れ戻せる嬉しさ半分、今後行われるであろう自らの未来の旦那探しの憂鬱が半分、といったところだろうか。
四人はそのまま馬車止めまで共に向かう。
シェリー様たちが公爵家の馬車に乗り込む寸前、ユージーンが口を開いた。
「ルーセント公爵令嬢」
「何かしら」
「あの、御礼を言うタイミングを逃していましたが、アビーを……アビゲイルを助けてくださってありがとうございました」
頭を下げるユージーン。その姿にアビゲイルだけに気持ちを向けてくれていた、かつてのユージーンが思い出されて、アビゲイルの胸は痛んだ。
「ユージーン卿、貴方が本当に私に感謝しているなら、二度とアビゲイルを蔑ろにしないことよ」
それだけ言うと、「じゃあ、アビゲイルまたね」と馬車に乗り込み、あっという間に去っていった。
帰りの馬車の中、向いに座るユージーンは申し訳なさそうにアビゲイルに頭を下げた。
「アビー、今日はすまなかった」
その声に滲む色に嘘はない。
それでも――ジーン、貴方は一体、何に謝ってるの?何を謝ってるの?
アビゲイルはとてもその謝罪を受け取る気にはなれなかった。
「ジーン、貴方は……」
――もう、私のことが好きではなくなってしまったの?
けれど、アビゲイルはその先を口に出すことは出来なかった。
静かな馬車の中、馬の蹄が地面を鳴らす音だけが響いていた。
***
予想通りというべきか、予想外というべきか――シェリーの言葉通り、かの有名なマエストロ・グレゴリオとその弟子がデッカー伯爵家のタウンハウスを訪れたのは、数日後のことだった。
通っている学園から帰宅し、制服から過ごしやすいドレスに着替えていると、階下が妙に騒がしい。
着替えを手伝ってくれていたメイドのサラと顔を見合わせる。
「どなたかいらしたのかしら」
「本日は来客の予定はなかったはずですが……」
サラが首を傾げる。
二人で窓の外を覗くと、屋敷の前に立派な馬車が止まっていた。
馬車には銀色で紋章が描かれている。月とつる薔薇を背負うユニコーン。
「お嬢様、あれは確かルーセント公爵家の紋でしたよね」
「ええ、そのはずよ。先日送った御礼の件かしら……?」
シェリー様には御礼はいらないと言われたけれど、あの後どうしても御礼がしたくて、サラに相談していくつかハーブティーとボディクリームを送っていた。
デッカー伯爵領は乾燥気味の土壌を活かしたハーブの栽培が盛んで、それらを使ったハーブティーや化粧水、保湿クリームなどの美容関連の小物が特産なのだ。サラは二人の子持ちだから、シェリーの妊娠については伏せた上で「もうすぐご結婚されるので仮に妊娠してからでも安心して使える物を」と一緒に選んで貰った。
シェリーからはその日の内に御礼状が届いていたがはずだが……。
取り急ぎ階下に降りると、両親と見知らぬ男性が二人立っていた。一人は両親より一回り以上は年齢の離れていそうな男性、もう一人はアビゲイルより少し年上に見える若い青年だった。
どういう訳か、若い男性の方はアビゲイルを見て、一瞬驚いたように目を見開き、直ぐに自分の横の壁へ目を逸らした。
アビゲイルは、自分の容姿が異性に好かれやすいものだと知っている。だからその反応自体は、アビゲイルにとってそれ程珍しいものでも無かったが、常と違うのは青年が見ていたのがアビゲイルの顔ではなく、その周囲――なんとなく、肩の辺りを見ている様だったことだ。
ゴミでもついていたかしら、と確認してみるが、特に何もない。アビゲイルはきっと気のせいだろう、と思うことした。
「あ、アビーちゃん。ちょうど良かったわ。今呼びに行こうと思ってたの」
母、エヴリーンが満面の笑顔で近寄ってくる。
「お母様。そちらの方々は……」
「うふふ、聞いて驚くわよ。なんと、かの有名なマエストロ・グレゴリオとそのお弟子さんなの!」
アビゲイルは驚きに目を見開いた。
このお方が、あの……!
同時に、数日前の夜会で、シェリーが言っていたことを思い出す。
『グレゴリオおじ様が今度、久々に会うピアニストの友人と二重奏するって言っていたけど、それってもしかするとデッカー夫人だったりして』
――シェリー様、大正解です……。
脳内で反芻されたシェリーに向かって、心の中で呟きながら、アビゲイルは慌てて挨拶をした。
「お初にお目にかかります。デッカー伯爵家長子、アビゲイルです」
「これはこれは、また美しい娘さんだ。顔をよく見せておくれ、エブリーンにそっくりじゃないか」
その声に顔を上げると、年上の男性の方が優しく微笑んでいた。黒々とした美しい髪に深緑を思わせるグリーンの瞳。目尻には加齢による皺が浮かんでいるが、その端正な顔立ちは、若い頃はさぞかし美丈夫だっただろう、と思わせるには十分だった。その優しい声の色に、かつて猫のジャスミンに見た緑を感じて懐かしい気持ちにさせられる。
「初めまして、アビゲイル嬢。グレゴリオ・オルシーニだ。君の母君とは昔から親交があって、その縁でお邪魔したんだ。こっちは弟子のアルトゥーロ」
グレゴリオに促され、隣に立っていた青年が挨拶する。こちらもグレゴリオとはまた違った顔立ちの美青年だ。波打つ濡れ羽色の髪に深い海の色の瞳。すらりと長い手足にシンプルなシャツとスラックスという服装がよく似合っている。
「アルトゥーロ・デ・サンクティスです。どうぞよろしく」
「こちらこそ」
差し出された手を見て、音楽をやる人の手だ、と思った。
「専攻はヴァイオリンですか?」
「ええ、よくわかりましたね」
アルトゥーロは意外そうな表情を浮かべる。
「爪が短くて指先が少し膨れていたので、そうかなぁと」
「貴方もヴァイオリンを?」
「いえ、私は音楽は……」
「え?」
言葉を濁したアビゲイルを、アルトゥーロは不思議そうに見ていた。
「さ、じゃあ早速サロンへ行きましょう!」
うきうきした様子で先導するエブリーンを、夫のロレンスが止める。
「エヴリーン。お二人もお疲れだろう。先にお茶をお出ししてはどうかな。マリアベルもまだ帰っていないだろう?」
「あら、私ったらごめんなさい!グレゴリオと久々に二重奏出来るかと思うと楽しみで」
伯爵夫人らしからぬ仕草でぺろりと舌を出すエヴリーンを窘めながらも、ロレンスの顔は蕩けている。
この父は本当に母に甘いのだ。結婚する前も後も、子供が出来ても、父の一番はずっとエヴリーンなのだ。
サロンまでの道中、客人そっちのけでいちゃつく両親を申し訳なく思いながら、憧れのマエストロ・グレゴリオを前にアビゲイルの胸は高鳴っていた。短期間で憧れの人物二人に会えるなんて、思ってもみなかった。
「あの、グレゴリオ卿は確かルーセント公爵家にご滞在をされているのですよね」
「おお、その通りだ。まだあまり知られていないと思ったが」
それはそうだろう。かのマエストロ・グレゴリオが公爵家に滞在していると広まっていたら、今頃社交界はその話題で持ち切りのはずだ。
「先日、夜会でシェリー嬢にお会いした時にたまたまお伺いしました」
「そうだったか。あやつとはその昔縁があってな。一時期食客として屋敷に置いてもらっていたんだ。今回あの小さかったシェリー嬢がついに結婚するというんで、飛んで来たんだ」
「まぁ、では母ともその頃にお会いになられたのですか」
警戒を悟られないよう、それとなく口にしたつもりだったのだが、当のグレゴリオには伝わってしまったらしい。苦笑しながら、そっとアビゲイルの頭に手を乗せる。
「大丈夫だ。心配せずとも、私とエヴリーンはそういう関係を持ったことはないから」
「あ………申し訳ありません。私、失礼なことを……」
「いいや、娘の君の心配もわかるよ。苦労したんだろう?エヴリーンはその昔、色々と奔放だったからなぁ。この国を離れた後、風の噂で伯爵夫人になったと聞いたときは、そりゃあ仰天したね」
反応に困るアビゲイルにグレゴリオはからりと笑う。
アルトゥーロは二人のやり取りを不思議そうに見ていたが、うっすらと事情が呑み込めたのか、特に口を挟んでくることはなかった。
「君は、見た目こそエヴリーンにそっくりだが、中身はまるで違うな」
グレゴリオの言葉に、アビゲイルは目を見開いた。その言葉こそ、アビゲイルが求めていた評価だったからだ。
皆、自分の容姿だけを見て中身まで決めつけてくることが嫌だった。
何故母に似て生まれてしまったのだろうと、何度自問したことか。
うっかり涙目になったのを悟られたくなくて、サロンへ向かう足は自然と早くなった。
***
それから半刻程経った頃、マリアベルが学園から帰宅した。
あの夜会の日から数日――あれから、アビゲイルはマリアベルとあまり顔を合わせていない。
アビゲイルとユージーンの関係が危うくなってきた頃から、互いに口には出さなかったものの、アビゲイルとマリアベルの姉妹関係も微妙なバランスを保って維持されていた。
それが先日の一件で、完全に崩壊したと言っていい。
実を言えば、マリアベルがアビゲイルから奪ったのはユージーンだけではない。奔放で有名な母親そっくりの容貌のおかげで、アビゲイルの友人は元々少なかった。彼らの親――特に母親が、若い頃の母を彷彿とさせるアビゲイルを遠ざけたからだ。エヴリーンとアビゲイルは別の人間だと分かっていても、過去味わった苦い思いが拭えないのだろう。
それでも、なんとか自分なりに大切に交友関係を育んでいたのに、気付けばその少ない友人の殆どがアビゲイルよりもマリアベルと仲良くなっているのだ。昔からいつもそうだった。
容姿は母に似たところのないマリアベルは、すぐ隣にわかりやすい母のミニチュアがいたこともあってか、アビゲイルのように他の子から遠巻きにされることはなかった。
唯一長く付き合いが続いていた、一番の親友だったエイミーも、とある一件以来アビゲイルとは殆ど口を利かなくなり、気付いた時にはいつの間にかマリアベルの親友に収まっていた。
これまでアビゲイルは、悪いのは自分だと思っていた。マリアベルから悪意は感じられなかったから、自覚なくやっていると思っていた。マリアベルは自分と違ってただ人に好かれるだけ。友人を繋ぎ止められない自分が悪いのだ、と。
けれど――先日の夜会で、アビゲイルは見てしまった。マリアベルの声に、ほんの少し混じった悪意の色を。
あの日以来、マリアベルはあからさまにアビゲイルを避けている。わざわざ学園の行きや帰りの時間をずらし、食事の最中も目を合わせない。
両親や使用人は、珍しく喧嘩が長引いているのだとでも思っているようだ。
これまで、自分が悪くても悪くなくても、マリアベルと喧嘩したり衝突した時、アビゲイルはいつも自分が折れてきた。自分が譲歩することで収まるなら、と。
でも今はどうしても、それをする気にはなれなかった。
帰宅したマリアベルは突然の大物の登場に驚いたのか、珍しくたどたどしい挨拶をしていたが、アルトゥーロを見て僅かに頬を染める余裕はあったようだ。
アビゲイルはそんなマリアベルを目にしながら、自分の心が固く冷えていくのを感じていた。
「マリアベルも帰ってきたことだし、そろそろ演奏しましょうよ!」
「おお、そうだな」
エヴリーンが立ち上がりグレゴリオの手を引く。
母のその態度にアビゲイルは密かに肝が冷えたが、グレゴリオは特に気にした様子はなかった。
「これは……見事なピアノだ」
「そうでしょうそうでしょう。ロニーの贈り物だもの!」
エヴリーンの視線に、父ロレンスはまんざらでもなさそうに頷いている。
グレゴリオは優しい手つきでピアノの縁をそっとなぞると、使用人に持たせていた大きな荷物から飴色の楽器を取り出した。
「グレゴリオ卿は、チェロを弾かれるのですね」
「嗚呼、ピアノ・デュオも捨てがたいが、エヴリーンと演奏するならチェロかと思ってな」
「ふふ、グレゴリオのピアノも久しぶりに聴きたいから、後で聴かせてね?」
そうして始まった二人の演奏は圧巻だった。
エヴリーンは常日頃からかなりの時間をピアノにあてているので、その演奏は聴き慣れている筈なのに、グレゴリオとの重奏になると、途端に色が変わった。
アビゲイルは見たこともない光景に息を呑んだ。音のひとつひとつが、鮮やかに色付いてキラキラと光り、アビゲイルの視界を埋め尽くしていた。こんなに豊かな色彩の音は初めてだ。
雨上がりの空の色から始まったその演奏は、次第に輝く朝陽の色、瑞々しい葉の色に変わり、最終的に七色になってアビゲイルに降り注いだ。
演奏が終わって暫く経っても、身体の芯が痺れたようになり、アビゲイルは動けなかった。
その深く優しい音色はアビゲイルの心を捉えて離さない。
これが、マエストロの巨匠たる由縁……。
その後、グレゴリオに師事するアルトゥーロもヴァイオリンで参加し、見事なピアノ三重奏が繰り広げられる間も、アビゲイルは音の洪水にただただ圧倒されるばかりだった。
長く続いた演奏が終わり、気付けばサロンにはデッカー家に仕える使用人たちの殆どが集まっていた。職務怠慢と言われても仕方のない行為だが、家令までそこに混ざっているあたり、ロレンスは苦笑しながらも、彼らに注意することはしなかった。
あれだけ素晴らしい演奏を聴けることなど滅多に無い。エヴリーンがピアニストなこともあり、この屋敷には音楽好きな人間が多い。ロレンスはエヴリーンのこと以外では中々の合理主義者なので、ここで使用人に厳しく接して不興を買うよりも、寛大な態度でモチベーションや忠誠心が増すことを期待したのだろう。
沢山の拍手の中、三人は止まない称賛の声を受けている。
父は演奏が終わるなり飛んでいって、母にくっついてべた褒めし、マリアベルは興奮気味に感想を伝えている。
ひとり放心するアビゲイルに、アルトゥーロが近付き――ヴァイオリンを差し出してくる。
「………え?」
未だに演奏の余韻を引きずっていたアビゲイルは困惑しアルトゥーロを見上げた。
「君の……君の瞳が弾きたがってるように見えたから」
アルトゥーロの瞳に射抜かれた瞬間、アビゲイルの心臓は大きく跳ねた。
「え……私は……別に」
嘘だ。身体の奥底から突き上げてくる衝撃。音楽への渇望。身体の内側で、持て余した熱が荒れ狂い渦になっている。
この衝動を、音に出来たなら。
「それとも、君が求めているのはあっち……かな」
アルトゥーロの視線の先には、先程までエヴリーンが弾いていた、艶やかに輝くグランドピアノがある。
どくり、どくり、と自分の鼓動がやけに大きく耳に響く。
「私、は……」
ふらりと無意識にピアノの方向へ足を動かした時――母、エヴリーンの姿が目に入った。
性格も演奏も、自由奔放なエヴリーン。
年を重ねても尚、数多の男性を虜にしてやまないエヴリーン。
一部の女性に未だ『尻軽』の『阿婆擦れ』と蔑まれているエヴリーン。
夜会に出席する度に、かつての信奉者たちが群がるエヴリーン。
よく磨かれた、ピアノの屋根に映ったエヴリーンにそっくりな自分。
心がすっと冷えていく。
私はアビゲイル・デッカー。デッカー伯爵家の長女にして跡取り。
私はエヴリーンじゃない。
私は母じゃない。
私はピアニストじゃないし、『尻軽』でも『阿婆擦れ』でもなければ、信奉者もいない。
「あの……私ちょっと気分が優れないのでお先に失礼します。素晴らしい演奏を、ありがとうございました」
深々と頭を下げると、アビゲイルはアルトゥーロを振り返らず、サロンを出て行った。
「あら、あの子どうしたのかしら」
不思議そうに首を傾げるデッカー家の面々の隣で、アルトゥーロはじっとアビゲイルの消えていった扉を見つめていた。
「難儀なことだな……」
その様子を俯瞰しながら呟いたグレゴリオの声は、サロンに残る演奏の余韻の渦に吸い込まれていった。
使用人たちがサロンに集まっているため、アビゲイルは人気のない廊下をひとり歩き、自室へと急ぐ。
部屋の扉を閉めた瞬間、アビゲイルはそのままベッドへと倒れ込んだ。拳を握り、枕に顔を押し付ける。
私はエヴリーンじゃない。
私はエヴリーンみたいなことはしない。
「私は……エヴリーンにはなりたくない………」
零れ落ちる涙は枕に吸い込まれ消えていった。